大日本職業明細図 昭和16年 (1941)

古地図上のランドマーク情報は、竹中初男氏の制作です。<br> 古地図及び古地図上のランドマーク写真は個人、大垣市、大垣市立図書館、大垣市史編纂室及び大垣市商工会議所から提供いただきました。
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大垣名所絵葉書で見る昭和初期の大垣
ニュース映画館(昭和15年)
大垣名所絵葉書で見る昭和初期の大垣

新大橋付近にニュース専門の映画館があった。戦時中はこうした映画館が各地にできた。映画館の前では、防火訓練が行われている。昭和15年から20年頃まであったが、戦災で焼失した。
大垣公園其之一(『大垣名所絵葉書』昭和12年、大垣市立図書館)
大垣名所絵葉書で見る昭和初期の大垣

大垣城の古い写真には、必ずと言っていいほど「おあんの松」が写っている。天下分け目の関ヶ原合戦の時、大垣城に立て籠もった石田三成の家来山田去暦の娘を「おあん」といった。「おあん」は天守からこの松を伝ってお堀をたらい舟で城外に逃げ出したと伝えられている。「おあんの松」も昭和20年7月の空襲で焼け落ち、現在は2代目が植えられている。毎年4月に、大垣市観光協会は「おあんの松」伝説にちなんで、水門川でたらい舟下りを催している。
大ビル百貨店(昭和13年頃、大垣市立図書館)
大垣名所絵葉書で見る昭和初期の大垣

大垣貯蓄銀行の本館として、昭和2年に「大ビル百貨店」の名で開業した。大垣での百貨店第一号であり、エレベータが初めて取り付けられたのもこのビルであった。戦後は共栄百貨店、丸物百貨店大垣支店、マルイ百貨店、名鉄サルビアと経営者がめまぐるしく変わった。さらに大垣共立銀行郭町ビルとなり、平成13年に大垣市守屋多々志美術館として、開業した。
大垣駅前通り(『大垣名所絵葉書』昭和12年、大垣市立図書館)
大垣名所絵葉書で見る昭和初期の大垣

大垣駅前の道路が拡幅されたのは、戦後のことである。それにともなって、建物も防災建築となった。戦前は、本町通りが大垣の繁華街だった。
東本願寺別院(『大垣名所絵葉書』昭和12年、大垣市立図書館)
大垣名所絵葉書で見る昭和初期の大垣

慶長7年、本願寺の東西分派のおり、安八郡三塚の真徳寺(現大垣市・西派)栄寿は、不破郡平尾に真徳寺を別立して東派に属した。その後、栄寿は大垣城主石川忠総から寺地を寄進され、大垣市中町に掛所を創建した。これが大垣別院の始まりである。寛永元年(1624)3月、大垣城主岡部長盛が大垣の町割りを再編するのに伴い、伝馬町に移った。 真宗大谷派大垣別院 : http://www3.ocn.ne.jp/~gobosan/
護国神社(『大垣名所絵葉書』昭和12年、大垣市立図書館)
大垣名所絵葉書で見る昭和初期の大垣

明治4年(1871年)、元大垣藩主・戸田氏共が戊辰戦争の戦死者54名を祀るため招魂祠を創建したのに始まる。明治8年に官祭招魂社となって大垣招魂社に改称し、昭和14年、招魂社の制度が護国神社に改められたのに伴い濃飛護國神社と改称した。岐阜県(主として西濃・飛騨地方)出身の護国の英霊1万9千余柱を祀る。
大垣公園(『大垣名所絵葉書』昭和12年、大垣市立図書館)
大垣名所絵葉書で見る昭和初期の大垣

1873年(明治6年)に大垣城二の丸を整備し開園した。その後、本丸も大垣公園となった。かつては、小さいながらも動物園や野球場があったが、現在は取り壊されている。2006年、「日本の歴史公園100選」に選定された。
大垣市役所(大垣市立図書館)
大垣名所絵葉書で見る昭和初期の大垣

戦前の市役所は裁判所に並んで、現在の大垣郵便局裏が正面であった。旧町役場が狭くて老朽化したため、大橋銀行頭取の屋敷跡を買い取って、昭和12年5月に新築移転した。その後、昭和20年7月の空襲で焼失した。昭和39年2月に現在の鉄筋コンクリート4階建ての市役所が建てられた。
縣社八幡神社(『大垣名所絵葉書』昭和12年、大垣市立図書館)
大垣名所絵葉書で見る昭和初期の大垣

建武年間、大垣が大井荘と呼ばれ東大寺領であったため、東大寺の鎮護神である手向山八幡宮を勧請して建てられれた。1451年藤江町から現在の西外側町に移され、藤江町の方は「元八幡宮」といわれる。戦国時代、戦火で焼失したが、大垣藩主戸田氏鉄が八幡神社を再建整備した。その際、藩主から10ヶ町に3両の山車が下賜され、10ヵ町は10両の山車を曳き回したのが大垣祭りの始まりである。
図書館(『大垣名所絵葉書』昭和12年、大垣市立図書館)
大垣名所絵葉書で見る昭和初期の大垣

大垣藩の藩校敬教堂跡に昭和3年、鉄筋コンクリートの図書館が建てられた。しかし、昭和21年の空襲で外観を残して、書庫とともに5万冊とも言われる蔵書も焼失した。戦後、市役所として利用されたが、昭和21年には応急修理を経て近隣の寺に疎開してあった図書を戻し、図書館が復活した。室村町に移転後図書館は取り壊され、現在は大垣市保健センターが建っている。 保健センター前のトネリコは、8代藩主戸田氏庸が敬教堂を増築した際、雷除けとして植えられた。(トネリコは中国曲阜にある孔子廟の庭に植えられ、「学問の木」と称されたことから、各地の藩校でも植えられた。)戦時中の空襲にも耐え、樹齢150年をこえる。(「歴史と文化の交差路 大垣を歩く」)
大垣城天守閣(『大垣名所絵葉書』昭和12年、大垣市立図書館)
大垣名所絵葉書で見る昭和初期の大垣

大垣城は別名、巨鹿城ともいわれる。昔このあたりに大きな鹿が棲息していたことから、名付けられた。「死相」に通ずることから、四層四階建てという全国的にみても珍しい造りであり。関ヶ原合戦の際には、西軍を率いた石田三成の本拠地となるなど、歴史上からも貴重な城であった。昭和11年国宝に指定されたが、昭和20年7月の空襲でおしくも焼失した。戦後、再建の気運が高まり、昭和33年再建に着工し、翌年完成した。