中昔京師地図 (1467-1592)

備考<br> ・折りたたみ25x18cm<br> ・明治34年2月10日印刷 仝年2月18發行<br> ・「寶暦3年癸酉正月24日」<br> 表紙に「百四十冊ノ内第百三十五號」とあり
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京都平安京古地図
朱雀院(すざくいん)
京都平安京古地図

平安時代、天皇が譲位した後に住んだ御所の一つ。朱雀通の西、三条から四条の通りの間に設けられ、大内裏に次ぐ規模であった。成立は嵯峨天皇の時代とされているが、本格的な使用は、宇多天皇時代、寛平8(896)年に整備されて以降となる。その後、朱雀天皇により、天慶8(945)年修復されるも、天暦4年(950)年火災に遭う。応和3(963)年に村上天皇が院を再興し、競馬観覧や詩宴を催したという。やがて朱雀大路が荒地化する中、次第に荒廃。現在、その一部が日本写真印刷の敷地となっていて、朱雀院跡の石碑が設置されている。『源氏物語』において、光源氏の異母兄・朱雀帝が譲位後過ごした場所でもある。
羅城門(らじょうもん)
京都平安京古地図

写真: 平安京の模型と石碑(羅城門付近) 朱雀大路の南端に構えられた大門で、事実上の平安都の正門。二層構造の瓦ぶき、幅約35m、奥行が約9m、高さが約21m。この門を境に、都の「内」と「外」が区別された。羅城門を守護するように近くに東寺と西寺が建てられている。強風や暴風雨で二度倒れた後、再建されず、門のあった周辺は荒廃し、夜になると誰も近づかない場所になったという。この辺りに鬼が住むという伝説も生まれた。この時期の様子は、芥川龍之介の小説「羅生門」(らしょうもん)の題材になった。現在は明治に建てられた石碑が残っているだけである。

写真: 東寺の五重塔 延暦15(796)年、桓武天皇の勅願により平安京内で最初に建造された国立寺院の一つ。弘仁14(823)年、真言宗の宗祖である、弘法大師空海が嵯峨天皇からこの地を与えられ、真言密教の根本道場となる。平安後期には一時衰退するものの、鎌倉時代の弘法大師信仰の高まりにより、皇族から庶民まで広く信仰を集め、その後も多くの為政者の援助を受けて栄えた。平成6(1994)年には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録。何度かの火災によって、創建当時からの建物は存在しないが、各伽藍の配置や、各建物の規模は平安時代のままである。URL:http://www.toji.or.jp/

写真: 平安京の模型(西寺付近) 延暦15(796)年、桓武天皇の勅願により平安京内で最初に建造された東寺と並ぶ国立寺院。当初は寺院というよりも外国使節を迎える迎賓館的な役割だった。嵯峨天皇の時代に真言宗の僧、守敏にこの地を与え、本格的に寺院として成立。しかし右京は左京に比べ桂川が近くにあり、湿り気が多い場所だったため、右京が市民の生活に適さずに衰退していったとともに、寺も廃れた。最後には伽藍の焼失によって荒廃。現在は国の史跡「西寺跡」に指定されている。

平安京には、右京と左京に一つずつ官設の市場が設置された。東市は、左京の側の市場で現在の西本願寺や龍谷大学付近にあたる。月の前半は東市が、後半は西市が交代で営業されていた。東市と西市では扱う商品の種類が違い、土器・牛・綿・絹・麻・味噌などを扱っていた西市に対し、東市は布・麦・木綿・木器・馬など51種を専売品として扱われていた。平安京はできてすぐ、左京部分が著しく発展し、右京部分は廃れていった。東西の二つの市場の力関係に差ができ、東市は当初4町分の敷地だったものが、10世紀には拡張され、合わせて12町を占めることになる。鎌倉時代以降、新しい町が京都に形成されるに連れ、東市は衰退していった。

平安京には、右京と左京に一つずつ官設の市場が設置された。西市は、右京の側の市場で現在の西大路七条の東北方付近にあたる。月の前半は東市が、後半は西市が交代で営業されていた。東市と西市では扱う商品の種類が違い、布・麦・木綿・木器・馬などを扱っていた東市に対し、西市は土器・牛・綿・絹・麻・味噌など33種を専売品として扱われていた。平安京はできてすぐ、左京部分が著しく発展し、右京部分は廃れていった。東西の二つの市場の力関係に差ができ、平安時代中期以降、西市は手入れが行き届かず荒れた状態になったと考えられる。

元々は土御門東洞院殿と言われ、土御門通と東洞院通の交差点の北東にあった。平安京の大内裏が、戦乱などによって荒廃した時に仮の皇居として使われた中の一つ。元徳3(1331)年に光厳天皇が、皇居として同地を最初に使用して以降、後に北朝と呼ばれる事になる持明院統の天皇が歴代居住。規模も拡充され、幕末期に今日の敷地面積が確定した。
神泉苑(しんせんえん)
京都平安京古地図

平安京遷都と同時期に、平安京大内裏の南に造営された天皇のための庭園。全盛期は二条通から三条通まで、南北約500m、東西約240m、池を中心とした大庭園で、天皇や公家たちの宴遊の場となった。天長元(824)年、西寺と東寺で祈雨の法を競い、空海擁する東寺が勝ち、以後同寺の支配下に入る。また、神泉苑の池に竜神が住むという伝説も生まれた。祇園祭の原型ともなった、疫病を鎮めるための御霊会もここで行われ、厄払いのため建てられた66本(当時の国の数)の鉾が、現在の祇園祭の山鉾の元となっている。二条城の造営時、敷地の大部分が城内に取り込まれ、著しく規模を縮小したが、一部が現在でも残り、庭園の池に水をたたえている。URL:http://www.shinsenen.org/
大内裏(だいだいり)
京都平安京古地図

写真: 平安京の模型(大内裏付近) 平安京の北辺中央に位置する宮城。東西約1.2km、南北約1.4kmの大きさを誇り、天皇の居住する内裏の他に、行政や国家儀式、行事が行われる建物が設置されていた。周囲は、泥土をつき固めて作った大きな築地塀で囲まれていた。政変や失火のため、焼失を繰り返し、安貞元(1227)年の火災でほとんどを焼失。これ以降再建されることはなく、跡地は荒地と化した。現在、平安神宮に大極殿、応天門などの施設が復元されている。