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改正番地入東京市全図 (1929)

改正番地入東京市全図 (1929)

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12件のスポット

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明治神宮外苑

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明治神宮外苑で行われた学徒出陣の壮行会 明治天皇と皇后の業績を後世までに残すために、中心となる美術館の聖徳記念絵画館を初め、明治神宮外苑競技場や明治神宮野球場などの施設が、1926年に旧青山練兵場跡に建てられ、明治神宮に奉納されました。当時の競技場では、太平洋戦争中の1943年、学徒出陣の壮行会が行われています。1964年の東京オリンピックに合わせて、競技場は国の手によって建て替えられ、「国立競技場」へと名前を変えました。青山通りから見えるイチョウ並木が名物で、別名を「神宮の杜」と呼ばれています。

円山古墳

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増上寺を中心とした芝公園の脇にあり、東京市街地の中で実際に登れる貴重な前方後円墳です。1979年に都史跡「芝丸山古墳」として登録されました。この地図には、古墳の中に「伊能忠儆墓」と記載された場所があります。ここは実際は墓ではなく、「伊能忠敬測地遺功表」と名付けられた石碑です。伊能忠敬の測量の起点が、芝公園近くの高輪の大木戸だったのを記念して、明治22年に東京地学協会が建築したものです。石碑は戦災で失われたものの、昭和40年に建て直されました。

建設中の国会議事堂 ご存知でしょうか。今の国会議事堂ができるまで、国会が開かれた場所は、ずっと仮の建物だったことを。「正式な」国会議事堂をつくる動きは、明治時代から幾度となくありましたが、その都度頓挫していました。1920年、「正式な」国会議事堂を建てるために、永田町の高台にて、着工されました。 しかし、関東大震災や仮の議事堂が消失した建て直しに注力するため、実際の建設はなかなか進みませんでした。上の写真はいずれも1927年のものですが、すでに骨組が出来上がって、棟上式が行われています。ここから、外壁を鉄筋コンクリートで作り、外装部に3種類のみかげ石、内装部に大理石はじめ日本全国から取り寄せられた石材で装飾がほどこされ、1936(昭和11)年にようやく完成を見ました。

東京砲兵工廠

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現在、東京ドームや後楽園ホール、遊園地のある付近、小石川後楽園の隣の水戸藩の邸宅跡に1870年に陸軍の砲兵工廠が作られ、当時、主に小銃の製造を行っていました。しかし、関東大震災で甚大な被害を受けた影響で、小倉の陸軍敷地に移転することになり、敷地を1935年売却。2年後には跡地に後楽園球場が開場しました。現在、小石川後楽園に行くと、砲兵工廠の遺物や石碑を見ることができます。

この一帯は「業平橋」として長く親しまれてきた場所です。「業平橋」の名前は、在原業平を主人公とした伊勢物語の舞台がこの付近で、近くに掛かっている「吾妻橋」の別名が「業平橋」と呼ばれていることに由来します。2012年に日本一の高さを誇るタワー、「東京スカイツリー」が開業、それに合わせて、東武伊勢崎線(スカイツリーライン)の駅名も「業平橋駅」から「とうきょうスカイツリー駅」と改名されました。 実は、それよりずっと以前、この地図の時期線路が隅田川を渡り、現在の浅草駅が開業する1931年までは、ここが「浅草駅」でした。大きな貨物駅が設置され、栃木県の佐野市の鉱山から輸送されてきたセメントを下ろしていました。また、車両工場もここにあり、蒸気機関車の検査、修理などを行っていました。

秋葉原

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現在は、電気街やアニメ、オタク文化の街と呼ばれている秋葉原。明治初期の大火を鎮めるため、明治天皇の勅命で建てられた神社がいつの間にか、「秋葉社」と呼ばれるようになり、火災時に火を食い止める緩衝地帯を「秋葉の原」と飛ぶようになったのが「秋葉原」の命名のきっかけです。 この地図の当時は青果の街で、駅前に青果市場(現在の秋葉原クロスフィールドの場所)が存在していました。秋葉原駅も、まだ東北本線のみですが、1932年には総武本線が御茶ノ水~両国間を高架線で開業することで、秋葉原駅の上でクロス、お互いに乗り換えができるようになりました。電気街になったのは戦後のことで、焼け跡の闇市でラジオや真空管の部品を販売する店舗が、鉄道の高架下に並んだのがきっかけです。

洲崎

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1956年に公開された映画「洲崎パラダイス赤信号」。隆盛を誇った洲崎の当時の風景が見れる 元々は湿地帯を整備して養魚場として発展した洲崎。潮干狩りや眺めのいい景勝地として、初日の出の名所としても人気を集めていました。 ところで、この地図をよく見て下さい。養魚場の北に、近隣の洲崎弁天神社の名を拝した「辨天町」という町があるのが分かります。現在の住所において東陽1丁目に当たるこの一帯、当時は吉原と並ぶ遊郭に指定されていました。大正末期には300件前後の店があったそうです。 太平洋戦争の空襲で一度は廃墟と化しましたが、戦後すぐに復活、「洲崎パラダイス」の名前で親しまれ、吉原を上回る人気であったといいます。しかし1958年の売春防止法により、洲崎の遊郭は廃止されました。今でも「大賀楼」という遊郭の店の跡や、東陽弁天町アーケード商店街付近の一部の建物に、旧遊郭時代のものがそのまま名残を残しています。

1985年当時の都電荒川線 梅沢写真会館として残る当時の王子電気軌道のビル 現在は荒川線の1路線のみが残る都電ですが、この荒川線、当時は東京都の前身だった東京市の路線ではなく、王子電気軌道というれっきとした私鉄でした。1911年の開業当初は、周りが田園地帯ということもあってか、かなりの赤字経営だったようで、「電気軌道」と会社名は付いていたものの、もうひとつの柱である「電力供給事業」が主力事業だったと言われています。※戦中までの日本の私営の電気鉄道の多くは、電力事業で余った電力を使用するために鉄道路線を運営していたケースが多かった そんな王子電気軌道も、戦時中の交通統制により、1942年に東京市(翌年東京都に変更)に買収されました。出自が私鉄にも関わらず、昭和40年代都電が次々に廃止になった時、道路の真中を通る併用軌道でなく、車の邪魔が入らない専用軌道だったことが幸いし、都電で唯一存続、現在に至るのは皮肉なことかも知れません。

数寄屋橋

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「大東京の十六大橋」数寄屋橋 映画やテレビドラマ化された『君の名は』で有名な数寄屋橋。元々は江戸城の外堀に1629年に掛けられました。 地図が作られた年、1929年に写真のように二連のアーチ橋に架け替えられます。架替後は、旧朝日新聞東京本社や、旧日本劇場が背景になり、東京で定番の待ち合わせ場所となりました。 戦後になって、外堀を埋め立て、高速道路を建設する計画が盛り上がりました。橋や堀が消えたり、高架で蓋をされ、景観が台無しになると、反対運動も起きたものの、あえなく1958年に堀は埋められ、橋は取り壊されました。 ここに限らず、現在東京中心部を走る首都高速は、用地代を節約する為に、堀や川の跡を利用して作られたものが多く見られます。

両国駅と国技館

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現在も使われている新駅舎がこの年に完成 当時の両国駅は、千葉県へのターミナル駅でしたが、1932年のお茶の水駅への延伸や、1972年の東京駅地下駅ホームの誕生などが重なり、両国駅の地位は完全に低下しました。 戦前の両国国技館 この両国の地は、日本の国技、相撲の国技会のある場所です。戦後一度、墨田川向いの蔵前へ移設されますが、1985年の新国技館の完成で、両国は相撲のメッカとしての存在を取り戻しました。

大日本帝国陸軍の連隊の1つで、敷地に隣接した第一師団の所属部隊の1つとして、1874年設置。地図には「射撃場」の文字が書かれています。1936年の二・二六事件では、反乱部隊の過半数に当たる900人以上の兵士が参加し、その影響か満州のチチハルに駐屯を命じられることになります。 現在、この地は青山公園や国立新美術館となっており、過去の兵舎の1つが現在、国立新美術館の別館として使われ、歴史建造物として保存されています。 地図を見ると、現在の外苑東通りから、第三連隊(現在の国立新美術館の辺り)まで道路が伸びているのが分かります。これは江戸時代に作られた狭い道路に隣接して、戦車が通れる広い道路を作ったもので、現在も存在し、NHKテレビの番組「ブラタモリ」でも取り上げられました。

東京駅

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「帝都の玄関・東京駅の美観」 この1929年、東京駅では2つの大きな話題がありました。1つは9月15日、当時2往復あった下関行の特急列車に「富士」「櫻」という愛称が付いたこと。日本の鉄道の列車において愛称が付いたのは、これが初めてとされています。もう1つは12月16日、駅の東側、地図の空白の部分に「八重洲口」が開設されたこと。元々駅の東側に存在していた外堀を埋め立て、道路(外堀通り)を通し、その玄関口として「八重洲口」を設けました。これにより、既存の「丸の内口」と合わせて、2ヶ所の入口になり、東京駅は東京の玄関口として、より発展を遂げることになります。