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鹿児島市空襲アーカイブマップ

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証言証言

今年に入り、幼いころの二つの思い出がよみがえった。 ひとつは終戦の年の六月十七日の鹿児島大空襲。西鹿児島駅近くに住んでいた家で、大爆音とともに目をさまされ、周辺に焼夷=い=弾の火花が散った。家族はいったん、畳だけを上に乗せた家の防空壕=ごう=に避難したものの危なく、体ひとつで逃げた。 避難の途中、両親とはぐれた幼いわれわれ姉弟三人は、道路の周辺で火の手があがるなかを二中=現在の甲南高校=の南側にあった田んぼに逃げ込み、そこで父親と会った。母親と兄とは翌朝無事を確かめた。逃げる途中、一時退避した防空壕には、翌日焼死体があった。そのときの恐怖は今も忘れない。町の真ん中にあった田んぼの避難所がわれわれを救った。 もうひとつは高麗橋。戦後まもなく同橋付近は、われわれ子供たちの格好の遊び場であった。板切れを飛行機の形に組み、雨戸などに使う滑車を車輪代わりにつけて、橋の頂上付近からゴーカートのように滑り降りていた。今のように車がひっきりなしに通るわけでもなく、交通のネックと騒がれることもなかった。大雨で増水した川岸では網で魚をすくい、タンパク源にしていた。愛着のある橋だった。 二つの思い出はもちろん阪神大震災と高麗橋解体でよみがえった。地震による多数の死傷者、洪水に起因する高麗橋解体。いずれももとは天災だが、都市開発の肥大という人間のもたらした災禍であることに変わりはないように思える。=伊集院支局・角倉昇=(『南日本新聞』1995年2月2日 朝刊 19面)

戦争遺跡戦争遺跡

第二次世界大戦中に八回の空襲を受けた鹿児島市で、昭和二十年四月八日、子供やお年寄りらを中心に三十六人の犠牲者を出した田上地区。戦後五十年の節目を迎えた今年、同地区民らが慰霊碑を建立した。八日、約九十人の遺族や地区民らが出席し、しめやかに除幕式を行った。 建立したのは旧前地区にあたる田上五丁目の地区民ら。同地区にある毘沙門天の奉賛会=柊元洋会長=が中心になって資金を集め、約百七十万円をかけて毘沙門天境内に建てた。 除幕式では、トランペットによる鎮魂曲が流れるなか、鎌倉市からかけつけた吉満栄二さん(六八)が「今の日本の繁栄があるのは、戦争犠牲者のおかげ。これからもずっと弔っていきたい」と遺族を代表してあいさつ。参列者らは、慰霊碑に刻まれた犠牲者名を確かめながら、平和の尊さをかみしめた。 同地区は当時、畑や田が広がる田園地帯。空襲が日曜日だったことから、農作業に出掛けていた大人たちは難を免れたが、家にいたお年寄りや子供たちが犠牲者の大半を占めたという。 長女の範子ちゃん=当時(三っ)=を失った小牧フメさん(八○)=田上五丁目=も農作業に出ていた。「空襲警報が鳴らず、友軍機と思って皆手を振っていた。爆撃が始まり、みるみるうちに道路や電柱が壊され、線路もあめのように曲がっていた。捜し出した時は既に事切れていました」と戦争の悲惨さを語っていた。(『南日本新聞』1995年4月9日 朝刊 22面)