Time Trip! 志賀島 文化財・観光ウェブマップ

志賀島の文化財情報を中心に、グルメ・アクティビティ情報まで紹介する、福岡市が運営するマップです。文化財を巡り、志賀島の悠久の歴史に浸る旅のお供にぜひこのマップをご活用ください。
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55件のスポット
歴史・文化
金印がこの付近で発見されたことを記念した公園です。公園には、金印のモニュメントとレプリカがあります。公園の頂上まではスロープで上がることもでき、海をはさんで能古島の也良岬(やらみさき)を臨むビュースポットとなっています。 ●金印が国宝になるまで 天明4(1784)年に志賀島で金印が発見されました。記録によると、島に住む農民が田んぼに水をひく溝を修理していたところ、偶然発見されたようです。 金印は当時の役所に届けられ、福岡藩の学問所「甘棠館(かんとうかん)」の学長であった亀井南冥(かめいなんめい)が鑑定を行いました。南冥は、中国の歴史書『後漢書』東夷伝を根拠に、光武帝が西暦57年に「倭奴国王」に贈ったものであると考えました。これは現在も金印を理解する定説となっています。 その後、金印は福岡藩主黒田家におさめられ、昭和6(1931)年、国宝に指定されました。現在は福岡市博物館にて公開しています。 発見以来、印面の読み方や志賀島で発見されるに至った経緯などについて、様々な説が唱えられており、今だに多くの謎が残っています。 ●印面の読み方 「漢委奴国王」=”かんのわのなのこくおう” 漢の皇帝から「倭(委)の中にある奴国の王」と認められたことを示すと解釈されています。 ●使い方 粘土に押すハンコ 大切な手紙などを入れた箱をひもで縛り、結び目に粘土をおいて上から金印を捺しました。届くまでの途中で開けられていないことを証明するためのものです。 また、粘土に押したときに文字が浮き出るよう、文字を彫りこんでいます。 ●価値 中国皇帝は、皇帝を頂点とするピラミッド型の秩序をつくるために各地へこのような印を授けました。印は地域や立場によって材質や持ち手の形が異なります。 金製で蛇の形をした金印は後漢王朝から見て南方の異民族の国王と位置付けられていたと解釈されています。 金印は、弥生時代後期(1世紀頃)の日本の対外交流の様子や東アジアでの立場を示す極めて貴重な資料です。
元寇で戦死した蒙古軍兵士の供養塔。 文永(ぶんえい)・弘安(こうあん)の役(1274・1281年)の古戦場とされ、かつては「首切塚」とも呼ばれていました。供養塔は昭和2(1927)年、戦死した元軍兵士を供養するため、日蓮宗の僧 高鍋日統(たかなべにっとう)の提唱により建てられました。塔には田中義一(たなかぎいち)や東郷平八郎(とうごうへいはちろう)らによる碑文が刻まれています。現在中央に据えられているものは平成17(2005)年に再建されたものですが、昭和2(1927)年当初のものも敷地内に保存されています。その他、張作霖(ちょうさくりん)書による「蒙古軍供養塔賛」の碑も建てられており、中世史だけではなく近代史を語るうえでも注目のスポットです。
蒙古軍退散祈祷の地。 弘安(こうあん)の役(1281年)の際、高野山から訪れた僧侶一行が、この地にこもって護摩を焚き、蒙古軍の降伏を祈ったといわれています。蒙古軍が退散し、僧侶一行が帰る際、不動明王の火焔形(光背)をこの地にとどめたことから、火焔塚と呼ばれるようになったと伝えられています。 ※注意 足元が不安定で危険な場所です。ご高齢の方や足腰に不安のある方の来訪はご遠慮ください。
臨済宗東福寺派の禅宗寺院。弘安元(1278)年に聖一国師(円爾)が開いたと伝えられており、本尊は延命地蔵菩薩像(えんめいじぞうぼさつぞう)です。現在は縁結びのお寺としても知られています。大永四年銘梵字板碑(だいえいよねんめいぼんじいたび)や銅造菩薩坐像(どうぞうぼさつざぞう)、木造観音菩薩立像(もくぞうかんのんぼさつりゅうぞう)は市の有形文化財に指定されています。 坐禅、写経、茶道、本堂の木材と天然石を用いた数珠作り体験ができます(事前に電話での連絡が必要です)。 本堂へ続く階段を登った先には、博多湾を臨む絶景が広がっています。 ●木造観音菩薩立像 (福岡市指定有形文化財) (もくぞうかんのんぼさつりゅうぞう) 平安時代前期に制作された量感豊かな一木造りの像で、九州独特の様式を備えています。 「一木造り」とは、1本の木材から仏像の全身を丸彫りした継ぎ目の無いものを言い、平安初期以前に主流であった方法です。平安後期ごろからは複数の木材を組み合わせて作る寄木造り(よせぎづくり)が主流になりました。 ●薬師如来立像 (やくしにょらいりゅうぞう) 鎌倉時代末期に制作された寄木造りの像。 眷属(けんぞく)の十二神将像が付属しています。眷属は仏法を守護したり、主尊を信仰する者に利益を与えたりする役割を担う存在です。
海の神である、綿津見(わたつみ)三神を祀る神社。神代から「海神の総本社」「龍の都」と称えられ、海上交通の安全や海産物の恵みをもたらすとして長く信仰されてきました。宮司は古代の有力氏族・阿曇(あずみ)氏の系譜を代々受け継いでいます。 神社には、国指定重要文化財の朝鮮製鍍金鐘(ときんしょう)、県指定文化財の宝篋印塔(ほうきょういんとう)、細形銅剣鋳型(ほそがたどうけんいがた)など多数の社宝が伝わっています。歩射(ほしゃ)祭や山誉(やまほめ)祭、神幸行事などのお祭りは県の無形民俗文化財に指定されており、いずれも古式をよく保っています。 ●鹿角庫(ろっかくこ) 境内の鹿角庫(ろっかくこ)には1万本を超える鹿の角を保管しています。その昔、神功皇后(じんぐうこうごう)が朝鮮半島での勝利を報告した際に、鹿の角を奉納したという伝承にあやかって、以来多くの武将が戦勝祈願に鹿の角を奉納しました。 ●綿津見(わたつみ)三神 阿曇族(あずみぞく)の祖神である綿津見三神は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の禊祓(みそぎはらい)によって出生しました。 伊邪那岐命が海の底の方に潜った時に生まれたのが底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)、中ほどにいた時生まれたのが仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)、水の表面で生まれたのが表津綿津見神(うわつわたつみのかみ)です。海の底、中、表を守り給う海の主宰神として祀られています。
綿津見(わたつみ)三神のうち「仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)」が祀られていたのが仲津宮です。同所には古墳が造られている、珍しいスポットです。 中津宮古墳は7世紀中ごろに造られた古墳で、勝馬を拠点とした海人集団の首長の墓と考えられています。 石室からは須恵器、鉄器、玉類などが出土したほか、耳環(じかん:耳飾り)が9つ出土していることから、少なくとも5体の埋葬が行われていたと考えられています。 海岸から続く道は木々がトンネル状になっており、探検気分で志賀島の山の空気を満喫することができます。
海人を統率した古代の有力氏族、阿曇氏の発祥の地と考えられ、綿津見三神のうち「表津綿津見神(うわつわたつみのかみ)」が祀られています。志賀島の北端にある陸けい島に位置し、古より信仰されてきました。 普段は海に隔たれていますが、干潮時の約2時間は志賀島と繋がり、上陸することができます。休暇村志賀島にて長靴の貸し出しを行っておりますので、ぜひご利用ください。
志賀海神社はもともとはこの表津宮(うわつぐう)の位置にあり、1800年ほど前に本殿が現在の位置に移されたと伝わっています。 割烹旅館浜幸屋裏の林の中にあり、小道を辿っていくと見えてきます。 社殿はありませんが、今なお地域の方々に信仰されている場所です。
万葉歌碑
万葉歌碑(志賀島第1号歌碑)
万葉歌碑

万葉歌碑とは、日本最古の歌集、「万葉集」に記された歌が刻まれた石碑のこと。歌に詠まれた地名にあやかり、県内各地に多数建立されています。志賀島では、島内に9基、みちきりを挟んで大岳に1基建てられています。海を中心として、志賀島の自然や古代の人々の生活を詠った歌が多く、はるか昔の志賀島を偲ぶことができるスポットとなっています。
万葉歌碑(志賀島第2号歌碑)
万葉歌碑
万葉歌碑とは、日本最古の歌集、「万葉集」に記された歌が刻まれた石碑のこと。歌に詠まれた地名にあやかり、県内各地に多数建立されています。志賀島では、島内に9基、みちきりを挟んで大岳に1基建てられています。海を中心として、志賀島の自然や古代の人々の生活を詠った歌が多く、はるか昔の志賀島を偲ぶことができるスポットとなっています。
万葉歌碑(志賀島第3号歌碑)
万葉歌碑

万葉歌碑とは、日本最古の歌集、「万葉集」に記された歌が刻まれた石碑のこと。歌に詠まれた地名にあやかり、県内各地に多数建立されています。志賀島では、島内に9基、みちきりを挟んで大岳に1基建てられています。海を中心として、志賀島の自然や古代の人々の生活を詠った歌が多く、はるか昔の志賀島を偲ぶことができるスポットとなっています。
万葉歌碑(志賀島第4号歌碑)
万葉歌碑

万葉歌碑とは、日本最古の歌集、「万葉集」に記された歌が刻まれた石碑のこと。歌に詠まれた地名にあやかり、県内各地に多数建立されています。志賀島では、島内に9基、みちきりを挟んで大岳に1基建てられています。海を中心として、志賀島の自然や古代の人々の生活を詠った歌が多く、はるか昔の志賀島を偲ぶことができるスポットとなっています。
万葉歌碑(志賀島第5号歌碑)
万葉歌碑
万葉歌碑とは、日本最古の歌集、「万葉集」に記された歌が刻まれた石碑のこと。歌に詠まれた地名にあやかり、県内各地に多数建立されています。志賀島では、島内に9基、みちきりを挟んで大岳に1基建てられています。海を中心として、志賀島の自然や古代の人々の生活を詠った歌が多く、はるか昔の志賀島を偲ぶことができるスポットとなっています。
万葉歌碑(志賀島第6号歌碑)
万葉歌碑
万葉歌碑とは、日本最古の歌集、「万葉集」に記された歌が刻まれた石碑のこと。歌に詠まれた地名にあやかり、県内各地に多数建立されています。志賀島では、島内に9基、みちきりを挟んで大岳に1基建てられています。海を中心として、志賀島の自然や古代の人々の生活を詠った歌が多く、はるか昔の志賀島を偲ぶことができるスポットとなっています。
万葉歌碑(志賀島第7号歌碑)
万葉歌碑

万葉歌碑とは、日本最古の歌集、「万葉集」に記された歌が刻まれた石碑のこと。歌に詠まれた地名にあやかり、県内各地に多数建立されています。志賀島では、島内に9基、みちきりを挟んで大岳に1基建てられています。海を中心として、志賀島の自然や古代の人々の生活を詠った歌が多く、はるか昔の志賀島を偲ぶことができるスポットとなっています。
万葉歌碑(志賀島第8号歌碑)
万葉歌碑
万葉歌碑とは、日本最古の歌集、「万葉集」に記された歌が刻まれた石碑のこと。歌に詠まれた地名にあやかり、県内各地に多数建立されています。志賀島では、島内に9基、みちきりを挟んで大岳に1基建てられています。海を中心として、志賀島の自然や古代の人々の生活を詠った歌が多く、はるか昔の志賀島を偲ぶことができるスポットとなっています。
万葉歌碑(志賀島第9号歌碑)
万葉歌碑
万葉歌碑とは、日本最古の歌集、「万葉集」に記された歌が刻まれた石碑のこと。歌に詠まれた地名にあやかり、県内各地に多数建立されています。志賀島では、島内に9基、みちきりを挟んで大岳に1基建てられています。海を中心として、志賀島の自然や古代の人々の生活を詠った歌が多く、はるか昔の志賀島を偲ぶことができるスポットとなっています。
万葉歌碑とは、日本最古の歌集、「万葉集」に記された歌が刻まれた石碑のこと。歌に詠まれた地名にあやかり、県内各地に多数建立されています。志賀島では、島内に9基、みちきりを挟んで大岳に1基建てられています。海を中心として、志賀島の自然や古代の人々の生活を詠った歌が多く、はるか昔の志賀島を偲ぶことができるスポットとなっています。
自然景観
志賀島の「浦島太郎」の伝説では、志賀島の勝馬に住んでいた「太郎」と、村娘「姫子」が愛を誓い合った場所とされています。海岸に下りた場所に浦島太郎伝説について紹介している看板があります。
神功皇后の伝説が残る砂浜。神功皇后が朝鮮半島への旅の安全を祈願するため、志賀島の阿曇磯良丸(あずみのいそらまる)を召し出そうとここで7日7晩神楽を奏したことから、舞能ノ浜(まいあざのはま)という名がつけられました。阿曇磯良丸は顔にカキやアワビの貝殻がついていることを恥じていたためなかなか姿を現しませんでしたが、神楽の楽しそうな様子を見て決心し、白い布で顔を隠して亀に乗って神功皇后の前に現れたとされています。
グルメ
カフェ
宿泊
体験
「休暇村志賀島」の敷地内に所在。「しかのしま資料館」を前身として、令和5(2023)年にリニューアルしました。玄海国立公園の中心地として自然公園のすばらしさを紹介するとともに、新たにデジタルサイネージなどのデジタル技術を活用し、志賀島の観光案内として展示解説や情報提供を行いながら地域の魅力を発信しています。島の木の実やシーグラスなどを使ってものづくりを体験できるワークスペースも。
ショッピング
情報
志賀島から西戸崎を経由して博多ふ頭を結ぶ航路で、1日15往復運航。全行程の所要時間は約30分です。自転車の積載台数は船舶により異なります。 (大型船:10台、小型船:5台)













































