大矢知地区ふるさとMAP

2020年3月に大矢知地区まちづくり構想推進委員会 歴史・文化の継承プロジェクトにて作成・発行したアナログ版のふるさとMAPをベースにスマートフォン等で利用できるデジタル版を作成した。
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53件のスポット
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忍藩陣屋跡 現 大矢知興譲小学校 [大矢知町】
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14代桑名藩主松平忠堯は、幕府の命により文政6年(1823) 武蔵国忍に転封。 桑名は白河より松平定永が 新藩主となる。本来、忠堯は 桑名で10万石を領していたが、武蔵忍藩では5万7千石しか石高がなく、不足の4万 3千石を元の桑名藩領地72カ村が飛び地となる。 これらの 領地を所管するために交通の要衝である大矢知に代官所 (陣屋 )を設置することになる。 幕末、武士の子弟を教育する ための「興譲館」が創設され、明治3年(1870)に忍藩の命で「興調堂」となる。 しかし、その翌々年、廃藩置県が公布され懲役場 (刑務所)になる。その後、明治9年(1876)の伊勢暴動で焼失、 明治13年(1880)に興譲学校として再建され、現在の校名に残されている。
大矢知城跡【大矢知町】
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北勢48家のひとり、大矢知遠江守経頼が、室町幕府の小守護代として16世紀中頃に築城し、この地を支配。 永禄10年 (1567)・永禄11年(1568)に織田信長の家臣、滝川一益に攻 められ落城、降伏する。その後、大矢知氏の一部は柴田勝家の 家臣団に組み入れられた。
教法山眞西寺(浄土真宗本願寺派)【大矢知町】
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開基は明応年間(1492~1500)、もとは天台宗。 寛文9年(1669) 本願寺第14代寂如法主より木仏阿弥陀如来像と寺号を賜り、浄土真宗に改宗。 境内には、忍藩陣屋建設工事安全のための聖徳太子を祀る太子堂、忍藩の藩士家族の墓碑37基が安置されている。また、山門をはじめ寺内には、忍藩松平家の家紋、三つ葉葵が使われている。
西南の役石碑【大矢知町】
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西南の役は、明治10年(1877) 西郷隆盛を中心とした士族 が、明治政府に反乱を起こし た戦いで、政府軍としてこの 地区からも多くの人が出征 した。 この石碑は、最大の 戦地である田原坂山鹿の 戦いでの戦死者を悼み後世 へ伝えるものである。
青木山照恩寺(浄土真宗本願寺派)【大矢知町】
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開基は天文4年(1535)。寛文10年 (1634) 12月9日、本願寺第13代良如 法主より阿弥陀如来像と寺号を授与される。 第15代住如法主より阿弥陀如来画像を下賜。 現本堂の創建は、宝暦年間(1751~1764) と伝えられる。 山門は桑名城内の城門のひとつで、蒔田の長明寺に移転後、大正15年(1926)に当寺に受譲される。

照恩寺より下りて正面にあるのが、この地区唯一現存 している郷倉である。 江戸時代 末期~明治時代初期の建築物と推察され、大矢知村の穀物倉庫として、 また、緊急非常用米を一時保管するためのものである。 そして郷倉は、郷倉番や五人組が管理した。 (五人組とは、江戸時代領主の命により、近隣五戸一組として犯罪取り締りや年貢納入の連帯責任を負わせる制度)
長倉神社(延喜式内社)【大矢知町】
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祭神は応神天皇・大山祇命・天照大御神・倭姫命ほか 3柱を合祀。創建年代は不明。朝明郡24座のひとつに数 えられ、忍藩時代には藩公が斎主となり祭典を行い、武運 長久、御陣屋繁栄、領内安全を祈願。 久留倍郷忍藩総社と して藩公の手厚い保護を受ける。 藩公からの弓矢等の献納品がある。嘉永6年(1853)より元治2年(1885)まで、陣屋の代官が代拝を行った。 明治41年(1908)には斎宮神社・桜神社ほかを合祀、昭和6年郷社に昇格。明治時代初めから鈴鹿市下箕田より伝承された獅子舞があり、毎年10月の第2日曜日に、五穀豊穣、氏子の家内安全、無病息災 を祈願して、奉納演舞が行われている。 戦後は、 女子小学生による稚児舞や楽人による雅楽も奉納されている。
大矢知砦跡【大矢知町】
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南北朝時代(1331~1392)、北勢地区は南朝方の北畠氏(伊勢国 守)の支配下だったが、足利幕府(北朝)は、伊勢守護を仁木義長に 命じ、文中元年(1372) 大矢知に砦を築き、伊勢攻略の足掛かりと した。 この時、富田の南部頼勝が北朝方の仁木氏に味方し、大矢知砦に立て籠り、一旦は南朝軍を破るが、 垂坂山の合戦で敗北、廃城になる。 長倉神社の背後の山一帯にあったと思われる。
桜神社跡 (延式内社)【大矢知町】
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朝明郡24座のひとつで、 文化7年 (1810) 以前の古い記録によれば、 富士権現とあり、桜神社を通称と していたと考えられる。 忍藩時 代には、 大矢知陣屋代官が代拝を 行ったと記されている。 明治41 年(1908)には長倉神社に合祀さ れた。
久留倍官衙遺跡【大矢知町】
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伊勢湾を臨む丘陵上に位置する。 飛鳥・奈良時代の (役所)跡として、正殿、脇殿からなる政庁、租税として徴収した稲などを納めた倉庫群である正倉院が 確認されている。 政庁と正倉院が一体で発掘された ことに併せ、建物が東向き(伊勢湾方向)に建てられて いたことは全国で殆ど前例がなく、一躍脚光を浴びる こととなる。 特に政庁の入り口である門は、格式が高 いとされる八脚門であることから、古代朝明郡の役所 跡と考えられている。 朝明郡は、天武元年(672) 壬申 この乱の際には大海人皇子(後の天武天皇)が、天平12年 (740) には聖武天皇が訪れたとされている。 ※国指定記念物 (史跡)
天武天皇遥拝所跡【大矢知町】
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「日本書紀」に天武元年(672)の6月27日に、 朝明郡太川辺で天照大御神(伊勢神宮)を選拌と記されている。 壬申の乱の時、大海人皇子(後の天武天皇)が、戦勝を祈 願した地と伝えられている。このことから「天武天皇 呪しの松」と言われている場所をもって、 天武天皇遥拝 所跡としている。 ※県指定記念物 (史跡)
教西坊(説教場)【下之宮町】
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寺院名は西導寺と言い、説教 場として文明5年(1473)に 三重郡川越村当新田より移 築される。 103代後土御門 天皇の時代である。 明治9年 (1876) の調査によると、宝暦9年(1758) 本願寺派に属し て龍谷山 西坊として所在 明記がある。もともと、無住職で主に西寺の住職が派遣され、法話が 開かれていた。
耳常神社 (延喜式内社)【下之宮町】
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【下之宮町】 祭神は神八井耳命。 創建 年代は不明。 ご神体は、 平安時代の木造男神坐像 と木造女神坐像の2体で 江戸時代に「春日大明神」 と称して奉祀された。 代々、伊勢船木氏の子孫、 西脇氏が神主として守っ てきた。 かつて広永町に あった耳利神社を上之宮 と呼んだのに対し、当社を 下之宮と呼んだことが地 名の由来となった。 明治41年(1908)に地区内にあった山神 耳利神社を合祀。 ご神体の男神・女神坐像は、平成31年3月に市指定有形 文化財(彫刻)になった。
栄林山法寺(浄土真宗本願寺派)【川北町】
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寺伝によれば、応仁2年(1468) 朝明郡の郷士、加藤左衛門萬隆 の開基。 応仁の 乱で兵馬の間を 奔走するも、世 この無常を感じ 弓刀を投げうち、本山第8代運如上人の伊勢巡教に際し、 同上人より六字尊号を賜り、朝 明川南岸に真宗道場を創むとある。 また、明治時代にな り、桑名の大塚本陣上段の間を含む一部を移築した書院 があり、六字号が掛けてある。

祭神は大己貴命(大黒天)。創建年代は不明。寛文年間(1661~1672)中頃に、朝明川の洪水で被害を受けた。 当時は朝日町埋縄村と隣接していたがその後、今の地に一村移転し建立。 平成9年より毎年10月、町内住民繁栄と無病息災五穀豊穣を祈願して子供神輿が行われている。
丹波修治頌徳碑【川北町】
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修治は、文政11年(1828)、尾張 国愛知郡一色村生まれ。 19歳 の時、本草学 蘭学を学び、21 歳で医家、丹波衛門の養子と なる。 嘉永7年(1854)6月の地 で、朝明川の堤防が決壊した 為、私財を投じて修復の大事業 を完成。翌年、大庄屋格の領内堤防取締役として活躍したが、再び安政4年(1857) 朝明川の大洪水で堤防が決壊。 藩に修復を懇願し、再 度修復した。 明治3年(1870) に忍藩の学問所「興譲堂」 が開校すると、教鞭をとり教頭となる。
龍王山宝性寺(無宗派)【蒔田町】
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伊勢西国三十三観音 第28番霊場。開基は天平12年 (740) 第45代聖武天皇巡幸の折、この地に立ち寄られ、勅願により宝性寺を建立。 ご本尊十一面観世音菩薩 は「夜中参り」の起こりとして信仰されており、蒔田の観音さんと呼ばれている。 ※市指定有形文化財(建造物)
笠取池跡(鏡が池)【蒔田町】
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天平12年(740)11月、聖武天皇がこの地を訪れた折、突風により天皇は笠を池に吹き落され、 村の少女がその笠を拾い上げた。以降、笠取池という。 去られるとき、その少女がお見送りし、馬上の天皇のお姿、伏し拝む姿が池に映って美しい光景であったことから、 鏡が池と呼ばれている。

大正7年(1918)帝国在郷軍人会大矢知村分団により設置され、緒言によると出村戦没者を弔い、従軍諸氏並びに殉職諸氏遺族の労を後世に伝えるとある。 かつては大矢知興譲小学校校庭東側にあったものを平成18年現在地に移築された。 明治40年(1907)建立と伝えられる。日清戦役従軍記念碑が併設されている。
朝明殿長明寺(浄土真宗本願寺派)【蒔田町】
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宝徳元年(1449) 豊田郡(現 川越町豊田) 潮音寺に滞在した 本願寺第8代蓮如上人より阿弥陀仏画像を賜り、弟子の浄空は長福寺を創建。 浄土真宗に改宗。 寛永元年(1624) に木山を下賜される。 慶安4年(1651)、領主より現寺地を 賜る。 明暦2年(1656) 長明寺と改称。 宝暦13年 (1763) 勧修院宮より 「朝明殿」の山号を賜る。 昭和25年3月、不審火に より、本堂書院御殿 などを焼失、類焼を免れたのは、山門(昭和初期建立)鐘楼(延宝年間(1673-1680)建 立)だけだった。 現本堂は、 昭和33年9月に再建されたものである。
輝子頌徳記念碑【松寺町】
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輝子は伊勢国朝明郡松寺村にて佐藤庄九郎の一女として弘化3年(1846)4月4日に生まれた。 25歳の時の夫が他界。「五十年一日の如し」輝子は裁縫等の教育をし門者千数百人に及ぶと言う。(実際は3千人ほどの子弟がいたとも言われる。) 大正6年(1917)11月13日72歳で世を去り、翌年3月に門人によってこの碑が建てられた。
蒔田館(城)跡【蒔田町】
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寿永年間(1182~1185)に伊勢平氏の一族の平家資が富田館の同時期にこの地に築城、四方を素掘りで囲んであった。 平氏が滅亡すると源頼朝は各地の平氏掃討を行い、鎌倉幕府方の大内氏に攻められ、富田館・蒔田館ともに落城する。 その後この地は後白河院の領地となり、都より守護職として藤原宗勝が蒔田に居館し、蒔田相模守宗勝と名乗る。 宗勝は深く、仏教に帰依し、この地のお堂を建立し、長明寺の基となる。 現在、宗勝の墓所は西富田町の三光寺本堂南側にある。
弘法山田村寺(真言宗醍醐派)【西富田町】
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創立は江戸時代末期。寺伝によれば平安時代初期の武将、坂上田村麻呂が東征の帰路この地で休息した。 江戸時代に田村麻呂公の霊を弔い、草庵を開くとある。明治時代に大師堂を建立。寺号も田村寺となる。 本堂には弘法大師と不動明王が安置され、天井には家運隆昌を祈り、檀・信徒の家紋が奉納されている。 毎年、冬至の日には中風除けの祈祷会で「カボチャぜんざい」が振舞われ、カボチャ大師の日として親しまれている。 また、節分の日には法話と豆まきが行われ、多くの人が参拝する。
木下山三光寺(浄土真宗本願寺派)【西富田町】
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創建は建久元年(1190)平氏滅亡後、この地は後白河院領となり、都より藤原宗勝が蒔田館に入り、蒔田相模守宗勝を名のり統治する。 その後仏門に入り、建久元年(1190)2月、真言宗「宗勝院」を創建し、三光寺の開基となる。 承久3年(1221)現三光寺の地に埋葬、墓碑は天保6年(1835)時の住職、蒔田慈雲により建立。慶長11年(1606)真宗本願寺派に属する。 享保2年(1717)に木下山三光寺と寺号を授与される。その後、安政地震により倒壊、再建したが、昭和37年2月に不審火により全焼する。 現本堂は昭和47年に再建。
若宮八幡神社【西富田町】
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祭神は応神天皇・大山祇命。創建年代は不明。当社は元治元年(1864)に氏子相計り應神天皇を鎮め神として奉祀。 明治41年1月6日、境内社山神社・同稲荷社・村社若宮八幡社へ合祀の上、若宮八幡社と単称することの許可を受け、同年二月一六日合祀。 また、祭神大山祗命については、当社創祀と同時代のある住民が大山祇神社(愛媛県越智郡大三島)より御神霊を拝受し、当社に収め合祀したことが大山祇神社史にみえている。
垂坂山観音寺(天台宗)元三大師【垂坂町】
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開基者は慈恵大師良源。延長6年(928)比叡山延暦寺慈恵大師の大乗受戒に際して朝明郡の領主、舟木良見の援助を受け、垂坂に伽藍を建立。寺域は東西2Km、南北2Kmの壮大なものであった。 境内には坊や院が24あり、周辺を合わせると54もあり、伊勢天台別院として栄えた。 天正3年(1575)8月、織田信長の兵火により焼失。元禄4年(1691)桑名城主、松平定重公により再建。 慈恵大師は正月3日に入滅したため、元三大師という。 国指定重要文化財(彫刻)の慈恵大師座像をはじめ県や市指定有形文化財が複数ある。
立阪神社(延喜式内社)【垂坂町】
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祭神は天照大神ほか6柱を祀る。神社名については近くの垂坂山観音寺と訓が似ているためという説や観音堂の傍らにある山王権現八幡宮に「多留阪神社」という額があることから立阪神社呼ばれるようになったと考えられる。 また、市指定無形民俗文化財の「立阪神社獅子舞」は弘化元年(1844)に伊勢神宮より北勢で専売を許されていた垂坂の麹作りが鈴鹿郡玉垣村との間に訴訟が起こり、 その裁きに勝訴したことを祝って、箕田流の獅子舞を舞ったのが起源である。
金剛山持光寺(浄土真宗本願寺派)【垂坂町】
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天正6年(1578)2月圓正律師の開基。寺伝によれば当初は天台宗であったが祖師 親鸞聖人のご化導により、興善寺を草創した。 4代目の時、金剛山持光寺を建立。さらに第8代蓮如上人に帰依し、本願寺派に、その後、員弁郡治田郷に移り、4代目を相続。 明治9年(1876)7月、本地に移転。
垂坂分校跡地【南垂坂町】
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明治20年(1887)立坂尋常小学校として開設。明治43年(1910)に大矢知興譲小学校の分校となる。大正13年(1924)に校地拡張、新校舎完成。4年生まで就学し、5年生より本校に通学する。 昭和22年大矢知村立興譲小学校垂坂分教場となる。昭和50年3月に廃校となり、垂坂の児童は大谷台小学校に通うことなる。 跡地にある銅像は生川清一郎先生で大正12年(1923)から昭和26年まで28年間、分校で教鞭をとられ児童の貧富・体格・学力などの格差はつけず、全ての児童に平等に接し尊敬されていた。 昭和34年に子弟により銅像が建立された。
垂坂山古戦場跡【垂坂町】
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南北朝時代に文中元年(1372)に大矢知砦の南部頼勝と北朝方守護、仁木義長 対 南朝方の朝倉氏(茂福城)見永氏(下野山城)、北畠氏の合戦場。 当初、北朝軍は大矢知砦に立て籠り、南朝方の朝倉・見永軍の攻撃を退け、朝倉氏の茂福城を取り囲んだ。 朝倉氏は救援を北畠氏に急ぎ頼み、北畠氏は家臣の大宮入道に2千の兵を与え、垂坂山に布陣する。北朝軍は茂福城から垂坂山に攻め上がるが山上より弓矢・槍の攻撃を受け敗退多くの兵士が戦死、その慰霊碑がある。 また、戦国時代には茂福合戦や織田信長の北伊勢侵攻で垂坂山に逃げ込んだ住民が火攻めされたと伝えられている。
元三大師旧跡(もっこ塚)【垂坂町】
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垂坂の観音寺は延長6年(928)に元三大師(慈恵大師)によって建立された。 創建当時の伝承では垂坂で勢力を持っていた行者が若い元三大師(17才の頃)との法力比べで行者はくわに土を盛り、法力で小高い山を作ってみせた。 大師はもっこに土を盛って法力をかけ、行者より大きな山を作って見せた。これに法力自慢の行者も驚き、兜と脱いだというものである。
縁華山有縁寺(真言宗・観音山観音寺)【大矢知町】
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伊勢西国三十三か所番外札所。 創立・開基は不明。明治22年(1889)頃までは東谷の久留倍郷にあり、その地区の小字名に大門・八セ町という地名が残っており、大矢知村民の信仰の中心地だった。 江戸時代に庄屋山にあったところに移転し、今日の観音山となった。 ご本尊の十一面観音は頭の周囲に菩薩面を三面、念怒面を三面、狗牙上出面を三面大笑面が一面、そして頭の上に仏面が一面の合計十一面がある。 それらは全ての方角を見て、観音の慈悲で人々を救い、病を除き、罪を滅すると信じられている。

ひとつのお堂の中に仏様と神様が一緒に祀られている。お堂の左側に妙見菩薩、右側に天満宮(天神様)が安置されている。 古文書によれば武蔵国・忍藩から大矢知陣屋に赴任してきた役人が、学問の神様・天満宮と武術の神様・妙見菩薩を祀ることが記されている。 以前は妙見山にあったが、その北側の大日山へ移転、その後現在の観音山に移築した。


















