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158件のスポット
鹿屋エリア(戦跡)

畑の中に残るかまぼこ型の掩体壕。コンクリート製で魚雷や砲弾、飛行機の部品などが入っていたと考えられます。 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS 関連エピソード 鹿屋第二航空隊の掩体壕作り

1958年(昭和33年)、小塚公園内に旧鹿屋航空基地特別攻撃隊戦没者慰霊塔が建立。1945年(昭和20年)3月11日から6月26日までに出撃した908名(陸軍17名も含む)の名前が刻まれています。(刻まれているのは16歳〜35歳の若い方々)。毎年4月第1週の土曜日に、特別攻撃隊の追悼式を行っています。 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS 関連エピソード

金浜海岸へ進駐軍が上陸したという歴史を語り継ぐため、高須地区の人々が協力し、2001年(平成13年)に記念碑が建てられました。 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS 関連エピソード

トーチカとはアメリカ軍の本土上陸に備えて作られた陣地のことで、コンクリート製のものや自然の地形を利用したものがあります。高須のものは自然石を利用し、錦江湾入り口の南の方に向けたのぞき窓のようなものが作られています。 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS 関連エピソード

人間爆弾「桜花」作戦を行った神雷部隊も泊まっていた旧野里国民学校の跡地です。 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS 関連エピソード 野里小学校と野里駅

旧野里国民学校跡地の道路向かいに建てられた碑です。石碑の文字を書いたのは鹿屋で2ヶ月ほど軍の報道員として記録を残した、作家の山岡荘八。建てたのは元特攻隊員の小城久作氏。国のために命をかけて戦った仲間のことを想い、今後の平和を願って、戦後33年目に小城氏が費用を工面し建てられました。 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS 関連エピソード 神雷部隊の出撃

1945年(昭和20年)3月19日、軍の荷物を運んでいる列車がアメリカ軍による空襲を受け、火災が発生。消火作業中に爆発が起き、駅は壊れかけました。100名余りが作業にあたっていましたが、この爆発により80名余りが死亡する大事故となりました。1987年(昭和62年)3月14日、国鉄大隅線が廃止されて、大隅野里駅も閉められました。 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS 関連エピソード 野里小学校と野里駅 下谷・上谷付近の様子 九死に一生を得た 野里駅の惨事
世界で鹿屋に一機だけ残る二式大型飛行艇(通称「二式大艇」)は、当時の日本の航空・造船などのあらゆる技術を結集して設計・開発され、世界一の高性能を誇った水陸両用の飛行艇。1人乗りの冷戦とは違い二式大艇は10人乗りで、終戦までに167機が製造された。大型飛行艇として前例のない7,200kmという航続距離とその巨体からは考えられない453.2km/hという高性能の速さで、戦後、二式大艇の調査に同行したアメリカ軍のシルバー中尉がその性能に驚嘆し、「日本は戦争に負けたが飛行艇では世界に勝った」と称賛した話は有名である。戦後、アメリカ軍から返還された二式大艇は、船の科学館(東京都)により約3年かけて修復・復元作業が行われた後、長く展示されていたが、2004年(平成16年)4月からは海上自衛隊鹿屋航空基地史料館に保管(野外展示)されている。 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS 関連エピソード
串良エリア(戦跡)

1969年(昭和44年)10月に建立。慰霊塔が建つ前には、地元の人で建てられた祠がありました。現在は毎年10月中旬に追悼式を行なっています。 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS 関連エピソード

アメリカ軍の志布志上陸に備えて造られた陣地で、海抜109mでまわりの台地より約40m高い場所にあります。串良の慰霊塔より南東約2kmに位置していて、大塚山山頂では360度のパノラマの景色を見ることができます。 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS 関連エピソード 大塚山に関する証言
串良基地跡地下壕第一電信室
串良エリア(戦跡)

地下壕第一電信室は、海軍航空隊串良基地の電信室として、特攻隊員の最後の通信を受信していました。部屋はコンクリート製で、大小二つの部分に区切られています。小さい区画には手回し式の発電機もあったそうです。2015年(平成27年)、市の文化財に指定されて、内部などを見学ができるように整備されました。 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS 関連エピソード
旧串良海軍航空隊々門跡の石碑
串良エリア(戦跡)

串良町有里には1989年(平成元年)7月に予科練串良八期会が建立した石碑があります。 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS 関連エピソード 矢柄の兵舎 串良基地門跡
笠野原エリア

ほぼ完全な形で残っています。川東掩体壕は、コンクリート製で上に土を盛り、芝を植え、小山のように見せかけました。この中には当時、零式艦上戦闘機(零戦)が入れられていたと言われています。戦時中、コンクリートには不揃いな川原の自然石などが混ぜられました。 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS 関連エピソード 掩体壕に関する証言
どっ菜市場(笠野原基地滑走路)
笠野原エリア

笠之原滑走跡地には現在、農畜産物直売所どっ菜市場があり、敷地内には当時の滑走路の一部であるコンクリート片を展示している。 住所 〒893-0023 鹿児島県鹿屋市笠之原町7517-1 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 笠之原IC 車約6分 駐車場 あり 営業時間 9:00~18:30 入場料・入館料 定休日 毎月第3水曜日・年始(1月1日~3日) TEL 0994-36-8899 URL https://ja-kagoshimakimotsuki.or.jp/shop/ SNS 関連エピソード 東西滑走路の補修
笠野原基地地下道入口跡
笠野原エリア

激しい空襲に見舞われながらも、東西に走っていた滑走路へ通じる地下道入口が現存しています。 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS 関連エピソード 笠之原基地の塔
観光スポット

「零式艦戦闘機五二型」や旧日本海軍創設期から先の大戦、現在の海上自衛隊に関する貴重な資料を見学できる施設です。また、史料館の屋外では海上自衛隊で活躍した航空機を展示しています。 住所 〒893-0064 鹿児島県鹿屋市西原3丁目11-2 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 笠之原ICより車で約15分 駐車場 あり 営業時間 9:00~17:00(入館は16:30) 入場料・入館料 無料 定休日 12/29~1/3 TEL 0994-42-0233 URL https://www.mod.go.jp/msdf/kanoya/toukatu/HPzairyou/1-8siryoukann/1-8siryoukann.html SNS 関連エピソード
鹿屋市観光総合物産センター
観光スポット

鹿屋の特産品やお土産、観光パンフレットを数多く取り揃えております。 住所 〒893-0064 鹿児島県鹿屋市西原3丁目11-1 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 笠之原ICより車で約15分 駐車場 あり 営業時間 9:00~17:00 入場料・入館料 定休日 12/29~1/3 TEL 0994-41-7010 URL https://kanoyashi-kankokyokai.jp/ SNS 関連エピソード

8haの広大な敷地に約35.000株のバラが植えられた日本最大級の規模を誇るばら園です。バラの見頃の春と秋にあわせて「かのやばら祭り」を開催しています。特に春の開花シーズンは、鹿児島の温暖な気候を生かし、全国に先駆けて毎年5月のゴールデンウイーク頃に満開を迎えます。 住所 〒893-0053 鹿児島県鹿屋市浜田町1250番地 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 笠之原ICより車で約20分 駐車場 あり 営業時間 9:00~17:00 入場料・入館料 大人630円、小中高生110円※団体料金(20名以上)あり※開花状況により金額変更になる場合あり 定休日 月曜日(祝日の場合は翌日休み)年末年始※ばら祭り期間は休園日無し TEL 0994-40-2170 URL https://www.baranomachi.jp/index.html SNS 関連エピソード
菅原神社(荒平天神)
観光スポット

砂の参道が海に突き出た小高い岩場へと続く、珍しい神殿です。学問の神様・菅原道真公が祀られており、受験シーズンには合格祈願に多くの人が訪れます。 住所 〒891-2313 鹿児島県鹿屋市天神町4014 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 垂水フェリーより車で約23分 駐車場 あり 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS 関連エピソード

神代三陵の一つとされており、全国でも珍しい岩屋の陵(塚墓)で神武天皇の御父君「ウガヤフキアエズノミコト」と御母君「タマヨリヒメ」の御陵です。 住所 〒893-1101 鹿児島県吾平町上名5250-1 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 笠之原ICより車で約25分 駐車場 あり 営業時間 8:30~17:00 入場料・入館料 定休日 TEL 0994-58-7257(吾平総合支所) URL SNS 関連エピソード

標高550mの公台にあり、鹿児島湾に浮かぶ桜島、霧島連山、太平洋、高隈山など360゜の大パノラマの絶景を一望できる場所です。バンガローやアスレチックなど各施設も充実しています。環境庁主催の星空継続観測(スターウォッチングネットワーク)では、過去7回日本一星空がきれいに見えるところに選ばれています。 住所 〒899-8511 鹿児島県鹿屋市輝北町市成1660-3 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 国分ICより車で約37分、野方ICより車で約30分 駐車場 あり 営業時間 入場料・入館料 定休日 月・火曜日 TEL 099-485-1900 URL https://www.kihokuuwaba.jp/ SNS 関連エピソード
ユクサおおすみ海の学校
観光スポット

旧菅原小学校を利活用した体験型宿泊施設です。宿泊、キャンプ、BBQ、SAP・カヤック、サウナ、カフェなどいろいろ体験できる施設です。個人、合宿、団体での利用も可能。錦江湾に沈む夕日を眺めながらゆったりした時間を過ごせます。 住所 〒891-2313 鹿児島県鹿屋市天神町3629-1 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 笠之原ICより車で25分 駐車場 あり 営業時間 入場料・入館料 定休日 11~2月火・水 3~6・10月水 7~9月休暇日無し 年始休み1/3~1/5 TEL 0994-31-8193 URL https://yukusa-ohsumi.jp/ SNS 関連エピソード
グルメ

住所 〒893-0009 鹿児島県鹿屋市西大手町9−15 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 「鹿屋」停留所からすぐ 駐車場 あり 営業時間 11時30分~14時00分, 17時30分~20時30分 入場料・入館料 定休日 火曜日 TEL 0994-43-3383 URL https://taketei.info/ SNS 関連エピソード

住所 〒893-0007 鹿児島県鹿屋市北田町9−5 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 「リナシティかのや」より徒歩3分 駐車場 あり 営業時間 11:00~14:00 入場料・入館料 定休日 火曜日 TEL 0994-42-2075 URL https://komatsu-shokudou.com/ SNS 関連エピソード

住所 〒893-0001 鹿児島県鹿屋市本町3−2 松屋ビル 1F Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 「リナシティかのや」より徒歩2分 駐車場 なし 営業時間 18:00~23:00 入場料・入館料 定休日 なし TEL 0994-36-8009 URL SNS 関連エピソード

住所 〒893-0005 鹿児島県鹿屋市共栄町16−7 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 鹿屋バス停から徒歩15分 駐車場 あり 営業時間 11:30~14:00, 18:00~22:00 入場料・入館料 定休日 月曜日 TEL 0994-42-4402 URL https://www.eiraku-net.com/ SNS 関連エピソード

住所 〒893-0053 鹿児島県鹿屋市浜田町1250 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 垂水港 車34分 駐車場 あり 営業時間 11:30~18:00 入場料・入館料 定休日 水曜日 TEL 050-5492-5642 URL https://fbvr700.gorp.jp/ SNS 関連エピソード

住所 〒891-2321 鹿児島県鹿屋市古江町7440−3 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 あり 営業時間 11:00~14:00 入場料・入館料 定休日 月曜日 TEL 0994-46-3020 URL https://jf-kanoya.com/pages/107/ SNS 関連エピソード

住所 〒893-0053 鹿児島県鹿屋市横山町1250 かのやばら園内 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 あり 営業時間 10:00~16:00 入場料・入館料 大人:350円・小人:180円 定休日 なし TEL 0994-41-8732 URL SNS 関連エピソード

住所 〒893-0004 鹿児島県鹿屋市朝日町3−9 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 笠之原IC 車15分 駐車場 あり 営業時間 18:00~23:00 入場料・入館料 定休日 火曜日 TEL 0994-42-2158 URL https://fb9b603.gorp.jp/ SNS 関連エピソード

住所 〒893-0002 鹿児島県鹿屋市本町5 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 なし 営業時間 18:00~0:00 入場料・入館料 定休日 日曜日 TEL 0994-44-4866 URL SNS 関連エピソード

住所 〒893-0005 鹿児島県鹿屋市共栄町17−20 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 野方I.C. 車24分 駐車場 あり 営業時間 11:30~14:00, 18:00~22:30 入場料・入館料 定休日 日曜日・月曜日 TEL 050-5484-7878 URL https://alpaca.gorp.jp/ SNS 関連エピソード

住所 〒893-0006 鹿児島県鹿屋市向江町2−19 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 向江町 徒歩2分 駐車場 あり(予約制) 営業時間 19:00~0:00 入場料・入館料 定休日 日曜日 TEL 0994-45-6510 URL https://eizo.owst.jp/ SNS 関連エピソード

住所 〒893-0008 鹿児島県鹿屋市西大手町10−1 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 あり 営業時間 20:00~23:30 入場料・入館料 定休日 日・月・火 TEL 0994-45-7766 URL https://letitbeersho.base.shop/ SNS 関連エピソード

住所 〒893-0014 鹿児島県鹿屋市寿4丁目13−6 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 寿北小学校東: 徒歩 7分 駐車場 あり(予約制) 営業時間 臨:休業中 入場料・入館料 定休日 TEL 0994-45-5235 URL https://saitogura.stores.jp/ SNS 関連エピソード

住所 〒893-1602 鹿児島県鹿屋市串良町有里3287−1 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 あり 営業時間 11:30~13:45, 17:30~20:30 入場料・入館料 定休日 木曜日 TEL 0994-63-2762 URL SNS 関連エピソード

住所 〒893-0013 鹿児島県鹿屋市札元1丁目27−9−1 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 大隅縦貫道 東原ICから車で10分 駐車場 あり 営業時間 11:00~14:00, 18:00~23:00(火曜日:9:00~14:00, 18:00~23:00) 入場料・入館料 定休日 月曜日 TEL 0994-41-0831 URL https://kagonmarche.com/ SNS 関連エピソード

住所 〒893-0012 鹿児島県鹿屋市王子町3963−4 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 串良鹿屋道路 笠之原I.C. 車4分 駐車場 あり 営業時間 11:00~14:00, 17:00~21:00 入場料・入館料 定休日 水曜日 TEL 050-5484-4439 URL SNS 関連エピソード

住所 〒893-1603 鹿児島県鹿屋市串良町岡崎3427−2 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス JR日南線 志布志駅 車28分 駐車場 あり 営業時間 11:30~14:00, 17:30~22:00 入場料・入館料 定休日 水曜日 TEL 0994-63-1494 URL SNS 関連エピソード

住所 〒893-1601 鹿児島県鹿屋市串良町細山田1662 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 立小野: 徒歩 4分 駐車場 あり 営業時間 11:30~13:30,(土日のみ 17:00~21:00 入場料・入館料 定休日 月曜日 TEL 0994-62-3300 URL SNS 関連エピソード

住所 〒893-0013 鹿児島県鹿屋市札元1丁目27−9 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 あり(予約制) 営業時間 10:00~22:00 入場料・入館料 定休日 月曜日 TEL 0994-41-5336 URL https://niku-kusuhara.com/ SNS 関連エピソード

住所 〒893-0012 鹿児島県鹿屋市王子町3952−2 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 鹿屋バイパス洋服の青山さん先の信号を左に曲がりすぐの所 駐車場 あり 営業時間 11:30~14:30, 17:30~21:00 入場料・入館料 定休日 TEL 0994-45-6450 URL https://chuzantei-ushinonakayama.com/ SNS 関連エピソード

住所 〒893-0013 鹿児島県鹿屋市札元2丁目3709−1 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 笠野原I.Cから車で約5分 駐車場 あり 営業時間 11:00~14:00, 17:00~21:30(日曜のみ: 17:00~21:30) 入場料・入館料 定休日 月曜日・火曜日 TEL 0994-40-0298 URL SNS 関連エピソード

住所 〒893-0063 鹿児島県鹿屋市新栄町2−7 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 あり 営業時間 11:30~14:00, 17:30~21:30(水曜のみ:17:30~21:30) 入場料・入館料 定休日 火曜日 TEL 0994-45-6229 URL https://www.yakinikugenji.com/ SNS 関連エピソード

住所 〒893-0037 鹿児島県鹿屋市田崎町2248−2 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 あり 営業時間 18:00~23:00 入場料・入館料 定休日 火曜日 TEL 0994-43-7437 URL SNS 関連エピソード

住所 〒893-0004 鹿児島県鹿屋市朝日町9−28 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 なし 営業時間 17:30~23:00 入場料・入館料 定休日 日曜日 TEL 0994-41-6888 URL https://kanoya-funato.com/ SNS 関連エピソード
お土産

住所 〒893-0007 鹿児島県鹿屋市北田町4−10 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 細山田IC: より16分. 駐車場 あり 営業時間 8時30分~18時30分 入場料・入館料 定休日 木曜日 TEL 0994-43-7109 URL https://kineya-montdore.net/ SNS 関連エピソード

住所 〒893-0037 鹿児島県鹿屋市田崎町2810−1 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 あり 営業時間 10時00分~18時30分 入場料・入館料 定休日 木曜日 TEL 0120-404-590 URL https://www.oimoya.com/p/search?gad_source=1&gad_campaignid=21954524130&gbraid=0AAAAADxdM9VfUcV6sfAJgXmb0eWcUiuea&gclid=CjwKCAjwmenCBhA4EiwAtVjzmj9-2a21FcrZAhWupw0o92-eKcBTb5_sQpynrUlDOk6YuOXgKMWStBoCxNQQAvD_BwE SNS 関連エピソード

住所 〒893-0064 鹿児島県鹿屋市西原4丁目12−12 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 あり 営業時間 9時00分~19時00分 入場料・入館料 定休日 なし TEL 0994-43-3948 URL https://www.festivalo.co.jp/ SNS 関連エピソード

住所 〒893-0009 鹿児島県鹿屋市大手町1−1 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 東原ICから車で約15分 駐車場 あり 営業時間 10時00分~18時00分 入場料・入館料 定休日 木曜日 TEL 0994-42-1820 URL SNS 関連エピソード

住所 〒893-0007 鹿児島県鹿屋市北田町8−9 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 細山田IC: より16分 駐車場 あり 営業時間 11時00分~18時00分 入場料・入館料 定休日 火曜日 TEL 0994-45-6168 URL https://kitadasarugga.shopinfo.jp/ SNS 関連エピソード
公共施設等

住所 〒893-1603 鹿児島県鹿屋市串良町岡崎2081 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS 関連エピソード

住所 〒893-0131 鹿児島県鹿屋市上高隈町262−1 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS 関連エピソード

住所 〒893-0045 鹿児島県鹿屋市田淵町1536−1 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS 関連エピソード

住所 〒893-0054 鹿児島県鹿屋市高須町1490−3 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS 関連エピソード
西原地区学習センター
公共施設等

住所 〒893-0064 鹿児島県鹿屋市西原2丁目2−3 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS 関連エピソード
大姶良地区学習センター
公共施設等

住所 〒893-0045 鹿児島県鹿屋市田淵町987−2 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS 関連エピソード
田崎地区学習センター
公共施設等

住所 〒893-0032 鹿児島県鹿屋市川西町3603−1 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS 関連エピソード
高隈地区交流促進センター
公共施設等

住所 〒893-0131 鹿児島県鹿屋市上高隈町262−1 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS 関連エピソード
エピソード

「山下集落の人たちは、戦時中は大津に引っ越していた。山下集落には防空壕がいくつもあり、その中に軍の司令部もあった。それで偉い人が来ると、必ず私の家に来られた。」 「私の家には特攻兵はもちろん、川端康成、山岡荘八もきていたと聞かされている。桜花の碑を建てた小城久作氏もよく来て、父に当時の様子を聞いていたらしい。」 引用元(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、2頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 桜花の碑 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「私が昭和二十五年に野里小に入学したときは、特攻隊の宿舎跡の校舎が残っていた。満々と水が流れていた用水路は洗い物などに使っていた。小さい子は泳いだりしていた。」 引用元(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、3頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 野里国民学校跡 大隅野里駅跡 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「私が鹿児島市から鶴峰小に疎開で転校したのは、小学校一年生で昭和十九年だった。当時は低学年までは奉仕作業はなかったが、高等科の生徒は、兵隊さんと一緒に作業をしていたようだ。また、兵隊さん等は戦争末期に召集された人たちで、年齢は比較的高く、下げていた短剣や飯ごうも竹で作ったものを使用し、武器も少ないので、敵機が来ても応戦もしない状況だった。 学校は戦争中だったので、行っても度々空襲警報のサイレンが鳴り、授業どころではなかった。防空壕は学校の近くにあった。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、3頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「今の玉泉寺公園付近の壕にエンジンの整備をする場所があって、エンジンが動く大きな音がいつも聞こえていた。」 引用元(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、4頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「論地に高射砲陣地があった。高射砲が一基、機銃が一基ぐらいだったと思う。笠之原の基地から来ていたのではないだろうか。五、六人の少人数で勤めていた。また近くには探照灯の陣地があった。同じく持田にも探照灯の陣地があった。」 引用元(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、6頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「学校(笠野原国民学校)には兵隊の宿舎が二棟あり、飛行機の整備員もいた。その南側に格納庫があった。住民は、飛行機が暖機運転をするのを見ていたものだ。国民学校の三分の一は兵隊の宿舎だった。学校の南には守衛さんがいた。守衛さんがまだ来ていない早朝に笠之原の住民は、飛行場の草切りに行っていた。 兵舎は矢野隊と前田隊で、機関銃隊と高射砲隊であり、それぞれ隊の炊事場を宿舎の後ろに持っていた。宿舎は杉の皮をかぶせて敵の目をごまかしていた。 国民学校で豚を養っていたので、笠野原国民学校の高等科の人たちは、残飯もらいに手車を押して行った。衛門を通るときは敬礼していた。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、7頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「あの塔が滑走路までつながる地下トンネルヘの入り口だったというのは誤りだろうと思う。軍関係者以外は誰も中に入った人はいないのだから。終戦前そんな技術と資材があったとは考えにくい。塔と道路を挟んで北側に地下室があったのは、私が確認している。地下の部屋は広さが十畳くらいだった。 戦後、私たちはめぼしい物を探すために地下室の中に入ったが、トンネルはなかった。米軍が爆破して、地下室はぺちゃんこにへこんでしまった。戦争中、町内会と軍人さんで運動会を滑走路でやってたが、そのころはあの塔はなかった。だから、終戦間際にできたのだろう。」 引用元(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、7頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 笠野原基地地下道入口跡 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「双胴の敵機が毎日来ていた。攻撃は決まったように朝八時か九時に始まり、午後は四時で終わる。それに対して、滑走路の東に前田隊長の機銃の陣地があったが、数はわからない。」 引用元(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、7・8頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「小学校五、六年生は毎日奉仕作業で滑走路に石を並べた。元滑走路の北側の道路は、戦後に滑走路のコンクリートを割って、入れて作った。私は光同寺に毎日、釣りや田んぼに行っていた。でも、二本目の南北にあったという滑走路は知らない。滑走路は爆弾が落ちて穴が空いては埋める。穴を埋めてその上に金網を張った。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、8頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) どっ菜市場(笠野原基地滑走路) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「笠之原の神社の前の杉山の中に、ドラム缶の燃料がたくさん隠してあった。今もその当時の大きな杉が二本は残っている。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、8頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「高射砲は旭原の岩川街道近く、今度できた高速道の西側にあった。高射砲が敵機を撃つ砲声を聞いていた人もいる。現在の池畑鉄工付近に高射砲の村田隊(海軍)がいた。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、8頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「橋口ミカン園付近に機銃の台座があり、南側の十字路から南西方向の松山の中に探照灯があった。この十字路の南北の線が「水道線」である。軍のための水道が引いてあった。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、8頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「笠之原基地は航空母艦への着艦訓練用だった。六人が白い襟巻で軍刀を持っているのを見た。 飛行機で吹流しを引っ張って、それを戦闘機で撃つ訓練をしていた。 笠之原の町は空襲で四月三十日に焼けた。 終戦二日前から、軍関係の書類をリヤカーやサイドカーで持ってきて、全部焼いた。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、8・9頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS
串良基地に関する証言
エピソード

【証言1】串良基地の思い出 「終戦当時、私は国民学校六年生だった。私の家は飛行場が近く、自宅から山道を通って、二~三分で行けた。からいもや団子を特攻隊の宿舎に差し入れに行った。」 「五~六年生の時に、飛行場に柏原から砂を運んだ。掩体壕は二階建てくらいの高さに土を盛って、木の葉で隠した。」 【証言2】 串良基地の朝鮮飯場 「近くに朝鮮飯場があった。彼らは我が家の近くで親しかったので、どぶろくをよく買いに行った。」 「串良基地は朝鮮の人達と女性を使って造った飛行場だ。」 引用元証言1 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、10頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 証言2 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、15頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS
串良基地の滑走路造り
エピソード

「朝鮮人の宿舎が県道沿いにあった。それは朝鮮飯場だった。合計三百人ぐらいいただろう。滑走路造りにダイナマイトで山を崩す。砕かれた石をトロッコに乗せて、機関車で引いて基地へ運んでいた。彼らは家族と一緒に来ていて、子どももいた。」 引用元(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、10頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「私は終戦時に六年生だったが、学徒動員で防空壕掘り、掩体壕造りや出征兵士の家の農作業の手伝いにかり出された。機械などないので、もっこで土を盛る作業をした。昭和十九、二十年は学校の授業はほとんどなかった。玉音放送は青年学校の小使室で聞いた。この近辺も空襲が激しくて、東串良駅の近くに爆弾が落ちた時は青年学校にいた。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、12頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「串良から特攻に出撃していたということは、当時はわからなかった。航空隊の情報は機密で、民間には知らされていない。憲兵隊の詰め所が串良の岡崎郵便局から入った農協の前のお宅にあり、隊員が三人いたようだ。町内の海軍、陸軍を監視していた。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、12頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

【証言1】防空隊、採石場、朝鮮人労働者 「大塚山の北側には兵隊の宿舎があり、「防空隊」といっていた。 大塚山の東側の麓が岩盤なので、岩に発破を仕掛けて爆破した石をトロッコで航空隊まで運んで行き、滑走路を造った。爆発で危ないので移転を命令された家が何軒もあった。飛行場の工事はほとんど朝鮮人労務者が当たっていた。」 【証言2】滑走路建設のための採石場 「串良航空隊は東西と南北にほぼ一キロメートルずつの滑走路があった。大塚山の東側の「鹿屋谷の坂」という岩山を砕いて、トロッコで石材を運んで滑走路の敷石にした。」 「戦後、滑走路は砕いてしばらくはそのままだったが、その後水道線の道路の敷石になった。」 【証言3】 監視所・重砲陣地・壕 大塚山の山頂は監視所で、下に熊本の積三部隊の重砲陣地があり、中腹には壕があった。」 引用元証言1 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、11頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 証言2 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、12頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 証言3 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、13頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 大塚山陣地跡 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS
水道線付近の重砲陣地
エピソード

「重砲陣地は月読神社から航空隊に八幡迫をとおって水道線に上がるところにあり、大砲があった。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、13頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「海軍の兵舎は矢柄にいっぱいあった。串良中学校は青年学校の跡だが、そこも細山田中学校も上小原中学校も矢柄の兵舎を戦後ばらして校舎を造ったもの。串良商業高校も学校をよくしようと熱い思いで、女の子が瓦を一枚一枚運んで造った。戦後の第一回の運動会は、矢柄の兵舎の跡であった。それは今の串良基地隊門の石碑のあたりだった。」 引用元(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、13頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 旧串良海軍航空隊々門跡の石碑 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「飛行機を格納する掩体壕は星ヶ丘の付近が中心だ。滑走路から南の方向にあった。掩体壕は飛行機一機分の大きさで、入り口は互い違いにしてあった。私たちも六年生で掩体壕を造りに行った。その掩体壕は、今はもう残っていない。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、13頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS
甫木地区に関する証言
エピソード

【証言1】甫木谷の防空壕 「甫木の谷は防空壕だらけだった。」 【証言2】甫ノ木の池の上の防空壕 「甫ノ木の池の上の防空壕はとても大きいもので、食料倉庫のようだった。」 【証言3】 特攻兵の思い出 「この近辺には十七、八歳から二〇歳くらいの女性が多かったからか、明日沖縄へ出るという特攻隊員がよく遊びに来ていた。女性たちは布切れで人形を作ってあげていた。人形を二、三個ぶら下げた隊員もいた。その人形をぶら下げるのに紐をつけるが、当時は物不足できれいな紐が手に入りにくかった。ある日、それを知った特攻隊員が落下傘の絹紐をあげるから取りに行こうと、私を連れて滑走路の横を通って、地下通信壕近くまで歩いて行った。通信壕の近くの下の谷の防空壕まで行くと壕は三つあり、その中の―つの壕の中から紐を持ってきてくれた。近くにはパラシュートが干してあった。そのあとは一人で長い距離を歩いて帰った。私が渡した紐で女性達が人形をつるして特攻隊員にあげた。」 引用元証言1 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、13頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 証言2 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、13頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 証言3 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、14頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「戦時中は、「徴用」という言葉―つで軍隊が思うように何でもできるので、持ち主に断りなく航空隊の周辺の林は木材を切られる。戦車橋(林田橋)は宮ノ下の地主の家の持ち山の立木を全部切って、造ったものだ。辰喰の兵舎も、その付近の山をほとんど「徴用」という言菓―つで伐採され造ったもの。馬でさえも、いい馬は徴用馬として、軍に取られた。当時は翼賛体制で、右を向けと言ったら右だけむく。そういう時代だから、何事も一切批判することはできなかった。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、13頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「今の串良基地の隊門の石碑のところには、両側の門に兵隊が立っていた。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、14頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 旧串良海軍航空隊々門跡の石碑 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「串良基地の滑走路から飛び上がった飛行機は我が家の上空を、どんどん北の方へ通って行った。私はそれを真下で見ていた。時には馬小歴の屋根に上って見送ったりした。飛行機は頭の上を飛んで、今の細山田中学校の上あたりから志布志湾へ回って行った。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、14頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS
串良基地の土盛りの掩体壕
エピソード

「木製のにせものの高射砲を作って、そばに立つ兵隊もわら人形で作ってあった。土盛りの掩体壕も道路沿いにあった。造ったのは予科練の兵隊。高隈線と滑走路の線の交点あたりに上半身裸でもっこで運んで造っていた。壕がだんだん高くなると、走りこんで上のほうまで運んでいた。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、14・15頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「三月二十一日の一式陸上攻撃機。畑に上がって木の上で、桜花を胴体に積んだ一式陸上攻撃機を見た。ゼロ戦は笠野原基地から回りながら上昇していき、一式陸上攻撃機と合流した。一式陸上攻撃機は鹿屋基地のほうからまっすぐ飛んできて、一直線で東に行った。ゼロ戦が衝突して一機墜落した。その日は全機帰らなかった。」 引用元(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、16頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 桜花の碑 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

【証言1】 掩体壕の思い出 「現在でも川東の畑の中に掩体壕が一つ残っている。掩体壕は朝鮮人が徴用できて造ったものだ。あの掩体壕はまず土盛りをして、その上にコンクリートを流して形を造り、その後で土を外して造った。下面は塗ってない。コンクリート製の掩体壕はまだ三つ、四つあった。コンクリート製でない士盛りのコの字形の掩体壕はいつばいあった。そのうちの―つが私のおじの家の近くにあり、戦後壊しに行った。周りには掩体壕への誘導路があった。 飛行場は全部焼けたので、掩体壕が格納庫だった。掩体壕で飛行機の修理もしており、学校帰りに掩体壕に寄ると、搭乗貝と整備兵がゼロ戦の修理をしていた。同級生の男の子が五人でゼロ戦の整備を見ていたら、搭乗員がお前たちは姉がいるかと聞き、姉がいる子供には小さなキャラメルをくれた。おとりの飛行機をもうそう竹にむしろを巻いて作り、その飛行機は土盛りの掩体壕に置いた。」 【証言2】 掩体壕づくり 「昭和19年8月の夏休みには、笠野原の飛行場まで約10kmの道を歩いて、毎日掩体壕作りに行った。南町からは5~6人位だったと思う。朝から夕方まで土運びをした。場所は、今残っている川東掩体壕の近くだったと思う。木が1本もないところだった。トイレは、長い溝が掘ってあり、そこに板を渡し、むしろ(稲わらであんだもの)で仕切ってあるだけの簡単な作りだった。帰りには、田崎小学校の近くの湧水でのどを潤し、一休みして帰った。」 引用元証言1 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、16頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 証言2 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2017年、5頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 川東掩体壕 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS
掩体壕・電波探知機施設
エピソード

「私は田崎国民学校で、六年生ころから高等科一年まで基地の近くに掩体壕造りに行った。今の田崎学習センターの西の谷に、電波探知機の施設造りにも行った。これができれば戦争に勝つと言われた。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、17頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 田崎地区学習センター 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「高射砲は論地にあった。川東には二連の機銃があった。今の多目的運動場の西側で道路を少し入ったところだった。終戦になったら機銃はなくなったが、機銃の台が残っていて、ぐるぐる回るので子どもが遊んでいた。川東の田畑工業の南側に大きな家があって、ゼロ戦の修理工場になっていた。」 引用元(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、17頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS
国民学校に集めた御真影
エピソード

「当時父は古江国民学校校長。田崎国民学校の教師がご真影を抱いて避難しようとして米軍の爆撃を受け亡くなった。その後、鹿屋市内の全学校のご真影は古江の防空壕(旧古江国民学校近く)に集められ、毎夜、市内の学校から二人の男の先生が交代できて番をされていた。絶対入ってはいけないという壕に父にせがんで一度だけ無理に入れてもらった。父の後についていくと一番奥に八畳くらいの部屋があり、床は畳、墜はきれいな板張りで一メートル位の高さの棚にずらりとご真影が並べられていた。 八月十五日の早朝、父と姉と軍人でご真影をトラックに積み、百引に運んで行った。なぜ父は姉を連れていったか、百引のどこに運んだか、戦後姉に何回聞いても、「その日の記憶がいっさい無い」と答えた。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、18頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 田崎小学校頌徳碑 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「私は、終戦前一か月位は、下谷のさつき苑の下の防空壕に保管してある二メートル位の機関銃をかついで運びだす仕事を毎日させられた。銃はとても重くて肩が痛くて痛くて大変だった。トラックは何台も待っていた。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、18頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「八月十五日母が「情報がおかしいから、今日は行かないで。」と止めるのを聞かずに出かけた。上谷に着くと、理由も言わず上司に「今日は帰れ」と言われ、鹿屋駅に行ったが、汽車は軍人で満員、屋根にも乗り、窓にもぶら下がっていて一般の人はとても乗れなかった。 国道を走って帰っていたら、高橋(現鹿屋市上野町)で避難してくる母とばったりあった。母は赤痢にかかっている三歳の三女を背負い、道々鍋のおかゆを食べさせながら歩いて打馬のおばの家に行く途中だった。一歳の四女は、見かねてかわいそうに思われた軍人さんが背負って毎と一緒にきてくれていた。軍人さんと代わり、鍋をもって時々妹におかゆを食べさせながら叔母の家にいった。父も打馬の叔母の家にきて、それから高隈へ行った。赤痢の妹はその後二年間位歩く事が出来ず小学校入学前にやっと歩けるようになった。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、18・19頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「女学校一年生の時は、厳しい礼法(作法)、なぎなた(専門家の指導)、英語もあった。翼賛農場が東原にあり、あけてもくれても農作業だった。さつまいもを作り、自分たちも食べたが、余った分はどこに持って行かれたかは知らない。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、20頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「はっきり記憶していないが、(女学校)一年生の終わりごろだったか、掩体壕造りに行って朝から夕方まで土運びをした。場所は、西原の今坂町の上あたり、国道より南側だったと思う。いった大豆がおやつで、お弁当はさつまいも。(私の家は今の市の体育館やテニスコートなどがあるあたりに広い畑を持っていたので、まだよかったと思う。)竹やり訓練やだんじょう訓練があった。だんじょうは一メートルあまりの棒、その棒で何をしたかは覚えていない。吾平山稜まで行く訓練もあったが、体が弱く参加しなかった。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、20・21頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「父は胃腸が弱く、薬を飲もうと「ことぼし」(あかり)をつけたら、憲兵隊がどなりこんできた。憲兵隊は、今の桑波田病院のあたりにいた。刀は長く、長靴をはき、服ですぐ憲兵隊とわかった。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、21頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS
鹿屋基地に関する証言
エピソード
2021年2月18日配信 --> 2019年7月27日配信 --> 2021年8月6日配信 --> 引用元朝日新聞「声 語り継ぐ戦争」 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS
機銃掃射の下の登下校
エピソード

引用元朝日新聞「声 語り継ぐ戦争」 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS
鹿屋駅付近に関する証言
エピソード
引用元朝日新聞「声 語り継ぐ戦争」 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS
娘を呼びつつ息絶えた母
エピソード

引用元朝日新聞「声 語り継ぐ戦争」 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「鹿屋国民学校五年生の時は、講堂に続いた二階の教室だった。徴兵検査が講堂で実施されている時、勉強中に異様な物音が続いた。なぜあんな音がするのか、聞いてはいけないような気がして黙っていた。戦後になって教えてもらったら、悪い病気にかかって徴兵検査に合格しない人が叩かれ床に倒れる音が、二階まで響いていたところだった。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、21頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「家があった向江町の裏通りで、若い上官が通ると年上の召集兵は立ち止まって通り過ぎるまで敬礼をしているのを見た。ある時、通り過ぎない内に動いたのかよくわからないが、私たちの目の前で若い上官が召集兵を叩いた。鹿屋中の生徒も先生方に立ち止まって敬礼をしていた。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、21頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「戦時中、高山高等女学校の生徒で、鹿屋基地に勤労動員で仕事をしていた。高山高等女学校の寮は西原小学校のグラウンドにあった。特攻隊員の寮もあった。今の寿のダイソーのところにカンケイ倉庫(飛行機の部品庫)があり、そこから瀬戸町坂へ向かっているときグラマンが飛んできて、機銃掃射が始まったので今の小浜病院の近くの民家の床下に逃げ込んだ。突然猫の鳴き声と鶏の鳴き声が聞こえ、怖かったのに女子学生数人で吹き出してしまった。 カンケイ倉庫はその時爆弾が落ち、三日くらい燃えていた。その倉庫に私は勤務することになっており、かろうじて命拾いした。その後は、今の鮫島病院の下の崖に掘ってあった防空壕で仕事をした。 私は補給隊所属で、よく兵隊さんから牛乳をもらったものだ。隊長さんは最終的に特攻に出られて、そのまま帰ってこなかった。 通信をしていた女生徒については知らない。おそらく私の下級生だろうと思う。それぞれの配属先で仕事が全く異なるので、他の生徒が何をしているかは分からなかった。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、22頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「戦時中、高山高等女学校の生徒で、鹿屋基地に勤労動員で仕事をしていた。高山高等女学校の寮は西原小学校のグラウンドにあった。特攻隊員の寮もあった。今の寿のダイソーのところにカンケイ倉庫(飛行機の部品庫)があり、そこから瀬戸町坂へ向かっているときグラマンが飛んできて、機銃掃射が始まったので今の小浜病院の近くの民家の床下に逃げ込んだ。突然猫の鳴き声と鶏の鳴き声が聞こえ、怖かったのに女子学生数人で吹き出してしまった。 カンケイ倉庫はその時爆弾が落ち、三日くらい燃えていた。その倉庫に私は勤務することになっており、かろうじて命拾いした。」 引用元(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、22頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

【証言1】 1945年3月19日の空襲 「私は終戦を小学四年生で迎えました。高須では昭和二十年三月十九日早朝から空襲警報が嗚りました。いつものように三人の弟を連れて、町内の山手側にある祖父の家に急ぎました。祖父の家には防空壕があり、私たちはその防空壕に避難しました。 当時はいざという時の消火のために、だれかが一人は家に残る決まりになっていたので、母は一人だけ自宅の庭に掘った小さな地下壕に潜りました。ところが、母は十時頃になって今日の飛行機の音はいつもと違うと言って、私たちのところへやって来ました。その後、高須の町に四十余りの爆弾が落ちました。 私の家は駅の近くでしたが、駅付近には八個もの爆弾が落ちました。母が最初に入っていた自宅の地下壕にも爆弾が直撃していたので、母は命拾いをしました。そして、すぐ近くにあったお医者さんの家の大きな石の門柱がとんでもないところまで飛んでいました。また、線路向こうにあった旅館のおかみさんが自宅の地下壕に入っていて、生き埋めになりましたが人々によって助け出されたそうです。 低空飛行で機銃掃射してくるグラマンは本当に怖かったです。火の弾がビュンビュン飛んでくるのです。それはそれは恐ろしい光景でした。あの日のことは忘れることができません。それまでどんなに言っても防空壕になかなか入らなかった一番下の弟が、それを見てからすなおに入るようになってくれたので助かりました。 家がなくなってしまってから、毎日毎日空襲で、私たち家族は防空壕で生活しました。私たちだけでなく、町中の人々もほとんどが防空壕生活になったのです。町内の谷間という谷間は防空壕だらけでした。防空壕での生活は、終戦後もしばらく続き、小さな弟たちに体調のすぐれない母親で大変でしたが、父が兵隊から帰ってきてやっと解放されました。」 【証言2】 高須の空襲 「昭和二〇年三月に旧制中学校三年を終わった(当時五年生まで)。三月十八日の空襲の時、米軍の飛行機を見ておもしろがっていたが、機銃掃射で子どもの足が切断されたと聞いてから「怖い」と思うようになり翌日から防空壕に避難するようになった。爆弾はひっきりなしに落ちたが、高須には二五〇キロ爆弾が四十二個落ちた。その十日後高須で約五〇戸が焼けた。我家は石垣で囲まれていたのと風が陸から海に吹いていたため、火災からは免れた。」 【証言3】 3月29日の高須の空襲 「3月29日の高須の空襲による大火の日は、防空壕に逃げるうちにわが家に火がついた。家の裏のすぐ近くにある防空壕に行くのに足が震えた。公民館で火は止まった。お寺も燃えてしまった。お寺には2回も爆弾が落ちた。その時は、防空壕は高須の人たちでいっぱいだった。当時は藁屋根や平木葺きが多く、40軒くらいが燃え落ちてしまった。お寺が燃えてからは、基地の材木が払い下げされて再建されるまで、祖父がお寺の総代だったので私の家が仏さんを預かり、お寺の代わりだった。」 引用元証言1 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、5頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 証言2 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、24頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 証言3 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、12頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS
下谷・上谷付近の様子
エピソード

「四月、旧制中学校の四年生になり、学徒動員に行った。第二十二海軍航空廠に行き、ゼロ戦の脚の解体にあたった。志布志にも行ったが、串良の飛行場には行ったことは無かった。笠野原で仕事をしている時爆撃された時は「死ぬ」と思った。国分第一航空基地には、トラックの荷台に乗って行き、ゼロ戦の脚の回収をした。 通常は汽車通学で、空襲警報の時は学校に歩いて行ったが、警戒警報が発令された時は行かなくても良いことになっていた。下谷の通信室の裏の谷が集合場所で、雨の日には特攻隊員との交流もあった。年が二~三歳しか違わない人達で、恩賜のタバコを吸っており、明るい表情だった。上谷に組立班があり(今の文化会館近く)、基地の周囲は防空壕だらけだった。爆弾が次々落ちるのがとても怖かった。野里駅に着いたら空襲警報が鳴り、駅から飛行場を横切り三・五キロメートルぐらい走って防空壕に入った時が一番怖い思いをした。基地には自由に入れた。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、24頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 大隅野里駅跡 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS
第五航空艦隊司令部に関する証言
エピソード

【証言1】 司令部での仕事 「十六歳の時、聴力検在・思想調査があり、戸籍抄本を持って行った。一ビルの前で入隊式をし、当初一ビルで仕事をしていたが、その後、新生町の地下壕に移った。勤務は三交代制で、串良・笠野原・出水・佐世保・呉・海軍省等からの情報をメモして持っていく仕事。電信室、電話室、作戦参謀室を行き来した。一人一人ボックスで囲まれていた。「作戦電話室です」と伝え防空情報を受け、各基地ヘ情報を流した。具体的には、「〇〇日黎明攻撃がある」と各基地へ連絡した。「我突人す」「油が切れて不時着した」「都井岬上空(または佐多岬上空)敵機来襲」等の受信。はじめ台湾沖航空戦だったが、だんだん沖縄にきた。どんどん飛行機が少なくなった。 新生町の地下壕の中は電気がついていて、壕の中は広くいろいろな部屋があった。朝から晩まで機銃掃射があった。休み時間は、敵のレーダー妨害のための銀紙作りの仕事をした。外へ洩らさないよう機密保持の為に全員宿舎に寝泊りした。しばらく三角兵舎だったが軍が新生町の民家を借り上げて、雑魚寝をした。食事は、新生町にあった烹炊場で三食軍人さんと同じで、司令部付だったのでよかった。(例ごはん、汁、肉じゃが)自分たちの分は、当番で配膳して食器洗いをした。 (高山高女は別の家) 毎月一晩帰宅が許された。仕事を終えて五時に帰ると冬場は真っ暗で、途中から一人になるので怖くて、くねくねの山道を走って帰った。朝ごはんを食べたら昼ごはん前に隊に帰る。三月からは米軍の空襲をうけ、隠れながら新生町の壕に帰った。仕事は、お国のためにと一生懸命、楽しく頑張った。今は男女交際をしているが、当時は「男の人と話をしてはいけない。近所の人とも…」と言われていたので、兵隊さんとも話したことはなかった。」 【証言2】 作戦電話室の仕事 「鹿屋高等女学校在学中、第五航空艦隊司令部へ動員で行く際、打馬町の春日神社で全校生徒そろっての壮行会があった。仕事は、有線電話で各基地に連絡した。笠野原、串良、知覧(無線は、軍人さんがしていた)。電話は地下壕の部屋の片側に十台、両方合わせて二十台置かれていた。―つのボックスに―つの机、一台の電話があり、二人で担当した。六人一組のグループだった。作戦電話室は板張りで、通路は土だったと思う。司令室に行ったことは無かった。通信で今でも記憶から離れないのは、「ひとまるまるまる(一〇:〇〇)まるだい発進」という言葉。今から特攻が飛ぶという合図だったと思うが、これを言った後、壕の外を何機も飛行機が「ゴー」とものすごい音をたてて飛んでいった。壕の入口で、金 モールをつけた偉い人が頭を垂れていた姿が忘れられない。(*まるだい…「桜花」は大田正一発案によるためこう呼ばれた) 地下壕の近くに寮があった。食事は軍人と同じもの。帰宅の許可が出ると乾パンや缶詰を持って帰るので妹たちが楽しみに待っていた。負けるのではないかと思ったことは無かった。終戦は宿舎で聞いてみんな泣いた。自分たちがこんなに働いてがんばったのに…と思った。」 【証言3】 第五航空艦隊で勤務 「昭和20年6月頃、鹿屋の第五航空艦隊に移った。横須賀から一緒に20人くらい来たが電信室には4人しか入らなかった。防空壕の中で仕事をした。上の方の基地には1回も行った事がなかった。3交代8時間勤務。第五航空艦隊にはレーダー探知機があった。モールス信号で受けるので意味は分からず、受けたとおり受信紙に書くだけで解読は別だった。戦艦からか基地からかということも分からなかった。 例えば、発信元は「トミ3」というのがあった。分かったのが「キン」というのは「緊急」の意味で、「サキ」というのは、「作戦電信」ということだった。交信は、暗号文の通り打つだけだった。電信長は佐世保では中尉くらいの階級の人だったが、鹿屋ではどの人か分からなかった。」 引用元証言1 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、25頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 証言2 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、26頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 証言3 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、4頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS
第五航空艦隊司令部に関する証言
エピソード

【証言1】司令部壕の建設 「・僅か4日違いで海軍へ 旧制鹿屋中学校(現鹿屋高校)を卒業後は陸軍に入隊することになっていたのですが、入隊4日前に海軍施設部に合格したため、18歳で海軍に入りました。佐世保で建築技工士として勉学の傍ら、訓練をみっちり受けました。1年後には武官転用試験を受けて、下士官となりました。 ・司令部の壕造りを指揮 昭和20年1月、故郷・鹿屋へまさかの赴任。配属された部隊は軍人が隊長以下6人のみで、あとは約600人の工員でした。工員の大半は朝鮮半島出身者で、3つの中隊に分かれ、壕造りや採石・採砂、基地滑走路の補修等に当たりました。 私が中隊長として任されたのは地下壕造り。赴任当初は、これが第五航空艦隊の司令部の壕になるということは知りませんでした。隊長から「シラスは崩れやすいから掘るのは難しい」と言われましたが、「私はシラス台地で育った男だから、小さい頃から扱いは慣れている」と答えたのを記憶しています。 地下壕造りは工員約200人が3交代制で24時間行われる突貫工事。しかも終わりの見えない工事でした。工員は一生懸命に働いていましたが、重労働であったため、少しずつ目標を決めて、達成したらその都度休みを入れるように心掛けました。 私たちは地下壕近くの民家を接収して寝泊りしていたのに対し、工員は郷之原の宿舎から現場を往復する毎日。工員の外出・外泊は原則禁止でしたが、独断で許可証を発行し、息抜きをさせることもありました。工員との信頼関係を保つのも、工事を進める上で大事なことでした。 ・特攻隊員の言葉 工事がまだ半分も進んでいない頃から、第五航空艦隊司令部の機能が地上から徐々に地下壕へと移ってきて、軍人と高等女学校挺身隊員らが出入りするようになりました。 地下壕の近くに三角兵舎もあり、出撃前の特攻隊員も多く見ました。彼らと言葉を交わすことはほとんど無かったのですが、ある時、名も知らぬ特攻隊員が、「この戦は勝ちっこないが、君は命を大事にして長生きしなさい」と私に言い残して、飛んでいきました。地下壕の中で涙をこらえながら、ただただ手を合わせて拝むしかありませんでした。 ・思い出す、ある旧友のこと 特攻隊員のことを考えると、旧制中学時代の旧友のことも思い出します。校内に貼り出された柔道の昇段試験結果に自分らの名前が載っていなかったので張り紙をはいで肝属川に投げ捨てたため、謹慎させられた2人の旧友がいました。謹慎が癪しゃくにさわったのか、2人は退学してすぐに航空兵になりましたが、その後、ともに台湾沖で亡くなったと聞きました。2人とも頭も体格も良い男でした。 ・命からがら故郷へ 終戦時は人吉にいました。混乱の中、駅は列車を待つ人でごった返し、列車の屋根にも無数の人々がしがみ付いていました。私は目の前に止まった郵便車両に死にものぐるいで乗り込みました。車両では、あの混乱の中にあっても、2人の職員が郵便物の仕分け作業をしており、この時はさすがに頭が下がる思いでした。私は車中で難を逃れ、故郷に生きて帰ってくることができましたが、列車の屋根にしがみ付いていた多くの人々は、トンネルで命を失ったと思います。 私はあの悲惨な戦争から生き残った身。生き延びた以上、失った多くの命のためにも、戦争中の体験を伝えることが、私の使命だと思っています。」 【証言2】 作戦電話室での仕事 「・高女から学徒通信隊へ 戦局が険しさを増す昭和19年9月、旧制鹿屋高等女学校(現鹿屋高校)に在学していた私は、学徒動員で海軍鹿屋航空基地の学徒通信隊に入隊しました。16歳の時です。 入隊に際しては、体格や聴力の検査はもちろん、軍の機密事項を扱う部署であったため、家庭環境などが細かく調べられ、鹿屋高等女学校から25人が選抜されました。このほか高山・末吉・志布志の各高等女学校からも集められていました。 ・重要な任務 通信業務は基地内のビルの一室に設けられた作戦電話室で行われ、海軍省からの電話の内容を書きとめ参謀室に伝えたり、参謀が立てた作戦を串良や国分、出水などの各航空隊へ伝えたりする重要な任務を負っていました。秘密を守ることも徹底されていました。 ・通信隊の勤務と生活 隊員は24時間3交代制の勤務で、共同生活を行っていました。入隊して1か月は板張りの三角兵舎に寝泊りし、その後は軍が借り上げた大きな民家に皆で住んで、毎日職場まで往復しました。月に1度実家に帰宅することができましたが、勤務を終えた後に1晩泊まって翌朝すぐに出て行くので、家族との会話はほとんどできませんでした。 職場での服装は長袖のシャツとモンペで、3着を着回しました。白の長袖シャツも持っていましたが、外に出ると目立つからと、のちにカーキ色に染められました。 ・空襲を期に司令部ごと壕へ 昭和20年2月には、鹿屋航空基地に第五航空艦隊の司令部が置かれ、私たちも司令部配属に。 そして同年3月頃から、米軍による鹿屋市への空襲が始まると、司令部ごと基地近くの山に掘られた地下壕へ移ることになり、以降、私たちは地下壕の中で通信業務に当たりました。 ・特攻隊の出撃命令を伝える 戦況悪化に伴い、特攻隊の出撃命令が増え、これを各航空隊に伝えることが、私たちの主な業務となりました。特攻隊の出撃命令は、「明日、黎明攻撃」というふうに伝えていました。 私たちは皆、「お国のために」と一生懸命に働きましたが、私たちと同じくらいの年の特攻隊員もいて、「かわいそうだね」と通信隊仲間で話すこともありました。 ある時、出撃前の特攻隊員から「あそこにいる女性に渡してほしい」と手紙を渡され、顔見知りでない電話交換手に、緊張しながら、その手紙を届けたことがありました。最期に何をしたためたのでしょう。 ・終戦・解散 7月下旬に司令部が大分に移った後も、鹿屋高等女学校出身の隊員だけは、引き続き地下壕の中で任務に当たっていましたが、その後すぐに終戦となり解散。「米軍が上陸したら女性や子どもは捕らえられる」との連絡が入ったため、皆急いで家に帰りました。 家に帰ると、父が外で待っていました。近所の多くの人たちが、山奥の杉林に逃げていたことも覚えています。 ・仲間たちと続く友情 通信隊は厳しい規律の中での業務でしたが、皆本当に仲良しでした。地元に残っている旧友たちで「すみれ会」と称して、戦後まもない頃から今日までずっと、月に1度集まって顔を合わせています。人数は年々減ってきていますが、皆、この集まりを楽しみにしています。 通信隊での体験は決して忘れられません。私たちは命を大切にしなければなりません。」 引用元証言1 (元海軍2等技術兵曹 『広報かのや』2017年8月号 より引用) 証言2 (元学徒通信隊 『広報かのや』2017年8月号 より引用) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「われわれは川東の田んぼに行くのに、基地の東側の谷沿いの道路を通っていた。この東側の谷が「鹿貰谷」である。今の寿光園の東側の谷には、がけに壕がたくさん掘ってあった。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、8頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 「基地は爆撃でほとんど焼けた。鹿貫谷に壕がたくさんあり、兵隊はそこにいた。病院の壕もあった。終戦後、病院の壕にいい箱があったと取りに行ったら遺骨の箱だったそうだ。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、16・17頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS
田崎国民学校に関する証言
エピソード

【証言1】 田崎国民学校の空襲 「昭和20年、私は13歳でした。初めて空襲があった3月18日の朝は寒く霜が降りていました。飛び起きると飛行機が空中戦をやっていました。日本は勝つものだと教えられていましたが、空中戦の途中で火が付いて落ちた飛行機は、日本の零戦でした。 4月8日の日曜日、田崎国民学校が空襲にあった日のことをよく覚えています。その日は曇りで暖かい日でした。 私は高等科2年(現在の中学2年生)でした。同級生は92人で、全校生徒は700人から800人いたと思います。前日の4月7日が入学式でした。 その頃学校では、うさぎ・豚・やぎ・にわとり・牛を飼っていました。最上級生だった私たちは牛の当番でした。 朝8時過ぎに学校に行き、同級生の中村君と一緒に、学校東側の実習田へ、牛を引いて運動させに行きました。 そこはレンゲ草が繁茂していたので、牛に食べさせました。もう1人の同級生の牧野君が来なかったので、家に呼びに行こうということで、大正橋の近くの桜の木に牛をつなぎ、その同級生のいる集落まで向かった時です。空襲警報のサイレンが鳴りました。 私たちは、慌てて牛を走らせて引き返し、学校の正門にたどり着きました。その時、鍵をもって奉安殿に行かれる途中の大石先生に会いました。「牛を早く牛舎に入れて、奉安殿の横の防空壕に入らないか」と言われましたが、牛を牛舎につなぎ、私たちはそれぞれの家に帰りました。私の家は学校から100mの場所にありました。帰る途中、私の叔父・末盛が警防団服を着て鐘を叩きに警防団詰め所へ走って行く後ろ姿を見かけました。それが叔父を見た最後の姿となりました。 家に帰ると、姉2人が洗髪などをするために釜でお湯を沸かしているところでした。これは危ないと思い、慌てて水をかけようとした途端、ドドドンという大音響と爆風で、一瞬にして真っ暗闇になりました。何秒か何分経ったかわかりませんが、気がついた私は釜小屋の戸袋に吹き飛ばされていました。自宅と牛小屋はすべて吹き飛び散乱している状態でした。 幸いにして私は怪我なく無事でしたが、「助けてくれ」という姉の悲鳴を聞き竹山に行くと、爆風の破片で背中を負傷していたので、着物で止血し防空壕へ連れて行きました。 爆弾は、学校とその周辺にいくつも落とされていました。大石先生は御真影を抱いたまま校長住宅下の防空壕で、中村先生は小使室と職員室の渡り廊下で亡くなったそうです。学校の奉安殿も、爆弾の直撃を受けていました。もし、横の防空壕に入っていたら死んでいたと思うと、ぞっとします。 避難警鐘を打ち鳴らしていた叔父は、警鐘台から降りる途中に爆弾の破片で左足を負傷し、出血多量で死にました。当時の永田市長が現場に見舞いに来られ、「やられたかよ!しもたなぁ」と言われたことを覚えています。 それから終戦を迎えるまで、家を失った私たちは防空壕での生活を送りました。 今の年齢まで生きられた私は、運が良かったのだと思います。戦争は絶対に起こしてはいけません。平和であることが何よりも大切なことです。」 【証言2】 田崎国民学校の空襲 「戦争が始まった昭和16年から1~2年は勝ち戦が続いていました。嬉しかったのはシンガポールが陥落した時。ゴムの産地ということもあり、女子生徒だけにゴムまりの配給があったからです。しかし戦況が悪くなると、学校に弁当を持ってこれなくなり、学校の校庭に植えた芋の代用食だけになるなど、学校生活も厳しくなりました。 昭和20年4月、私は田崎国民学校の高等科1年(現在の中学1年生)でした。4月8日は、下堀の生徒に週番がまわってきた日でした。学校に行って、職員室を掃除し各教室を見回り、花を飾りました。学校に水道がなかったので、近くの池の水を汲むのも週番の仕事でした。 水汲みから帰り着いた時、職員室で出勤していた大石先生と中村先生に会いました。「あなたたちはまだいたんですか。空襲警報が出ているので早く帰りなさい」と大石先生から言われたので、私たち4人は慌てて学校を出ました。 学校の近くには急坂があり、坂の上には鉄道が通っていました。その坂を上りかけた時です。ドーンという音がして、上から何か降ってきました。私たちはビックリして左に杉山があったので山の中に駆け込みました。そこは集落の人たちた避難していた防空壕の入口でした。その入口まで走った時、大きな爆風を受けました。上から横から何が降ってくるかわからず、倒れこんで防空頭巾をかぶった頭を4人で合わせました。私は「死ぬときは4人一緒。怖くはないよ」と自分に言い聞かせました。 飛行機の音がしなくなるまでどのくらい時間が過ぎたかは分かりません。音がやむと、防空壕に避難していた人たちが次々と出てきました。 「学校が空襲を受けたらしい」という話しを聞き、すぐに学校のほうへ引き返してみました。東の校舎は残っていましたが、西の校舎は倒れていました。奉安殿も爆弾で見る影もなく吹き飛んでいました。火災は起きていませんでした。学校にいた先生たちがどうなられたか気にはなりましたが、自分のことで精一杯で、学校を後にして走り出しました。 もしあの時杉山に入らなければ、たぶん命はなかったでしょう。なぜなら、直前まで前を歩いていた男の人が、首が無い状態で亡くなっているのを見たからです。私たちは怖くて何がなんだかわからず、走り去ることしかできませんでした。 永野田に通じる松林の県道に差し掛かった時です。近くの山の上から飛行機が3機、音をたてて飛んできました。米軍機が引き返してきたと思うと生きた心地がしませんでした。道路脇の茶畑に隠れてのぞくと、飛行機に日の丸が見えました。今のうちに帰り着かねばと、1里以上もある畑の中の道を懸命に走りました。 なんとか家に帰り着くと、親の顔を見るなり、思い切り泣き出したことを覚えています。家には近所の人たちが集まっていました。私の顔は爆風ではれていたそうです。 大石先生と中村先生が亡くなったことは、あとで聞きました。自分の命よりも奉安殿の御真影のほうが大事だった時代でした。2人の先生方の生前の最後の姿・様子が今でも忘れられません。戦争がいかに怖いものか、子ども心に感じた当時の記憶は、私の心から消えることはありません。」 引用元証言1 ( 『広報かのや』2018年8月号 より) 証言2 ( 『広報かのや』2018年8月号 より) 田崎小学校頌徳碑 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

大原喜八郎さん(向江町) 南日本新聞「証言 語り継ぐ戦争」 2020年8月18日配信 引用元 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS
鹿屋基地に関する証言
エピソード

〈戦後77年 戦争遺跡を歩く〉芙蓉之塔=鹿児島県曽於市大隅 南日本新聞「証言 語り継ぐ戦争」 2022年8月8日配信 「白菊」で特攻隊員養成」 井ノ久保武義さん(宮崎市熊野) 南日本新聞「証言 語り継ぐ戦争」 2020年9月3日配信 「学徒通信兵として鹿屋から福岡へ」 樋渡カズエさん(曽於市末吉町) 南日本新聞「証言 語り継ぐ戦争」 2020年9月16日配信 「私たちに青春はなかった」 木原信雄さん(旧川辺町) 南日本新聞「証言 語り継ぐ戦争」 2022年11月21日配信 引用元 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS
九七艦攻と天山の修理
エピソード

丸目南兵衛さん(志布志市有明町) 南日本新聞「証言 語り継ぐ戦争」 2021年2月14日配信 引用元 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

岩元 和さん(野里町) 南日本新聞「証言 語り継ぐ戦争」 2021年9月12日配信 引用元 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「郷之原には、軍隊の飯場(烹炊場)があった。つわや食べられる草を持っていけば乾パンをくれた。」 引用元(『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、6頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「ダグラス機を航空隊から誘導路を使ってみんなで掩体壕に引っ張ってきた。コの字型の掩体壕はこの辺に47あった。誘導路は荒平石を割ったのを敷いてローラーで固めてあった。」 「戦後、掩体壕を壊すのが大変だった。掩体壕はスコップで壊していた。1つ壊したらいくらと値段がついていた。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、6頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS
西原地区の爆弾集積場
エピソード

「戦後、10月10日、西原地区には爆弾が積んであり、落下傘もあった。子どもだから信管をはずすというのも知らないので、爆弾の下の落下傘を取ろうとして爆発し4人の死傷者がでた。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、6頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS
爆弾集積場の爆発事故
エピソード

「郷之原の山に囲まれた区域に爆弾を集めて置いていた場所があり、米軍が1人見張りをしていて、近づくとピストルを空に向けて撃っていた。1945年11月8日、爆弾が大爆発を起こし、翌日まで燃えていた。このため、郷之原上地区に火の粉が飛び、60戸位全焼した。懸命に水をかけてたった1軒だけ残った。この時2人亡くなった。サツマイモの収穫時期だったのでほとんどの人が畑に出ていた。牛や馬などの家畜の多くが犠牲になったと考えられる。また、谷の向こう側の松橋集落の一部も燃えた。」 引用元(『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、6頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS
海軍航空廠総務課に勤務
エピソード

「昭和18年4月21日、海軍航空廠の総務課に配属されて軍法会議事務所に勤めた。法務官は大尉ほか、タイプを打つ私を合わせて4人いた。聴取記録をタイプで打ち直し、大尉が間違いないか確認してから、封筒に入れ「何々部隊のだれだれに持って行きなさい」と言われて、新生町か下谷にある防空壕へ持って行った。川べりには「○○部隊」「○○部隊」と書かれた防空壕がいっぱいあった。 このときは、基地内にある二階建ての寄宿舎にいた。寄宿舎にはいろんな部署の工員がいた。食事は麦ごはんや粟ごはんだったが、ひもじい思いはしなかった。事務所は「城山」と呼んで、自転車通勤をした。」 「3月18日の初空襲の日は、基地内にある寄宿舎にいた。朝5時か6時頃火の玉がどんどん飛んでいた。機銃の弾だったのかも知れない。「退避!退避!」という号令で今坂の神社の竹山の中に身を隠した。近くに壕は無かった。後から、朝鮮人の女の人が赤ちゃんを抱いて竹山に避難してきたが、赤ちゃんのお腹を機銃の弾が貫通して、死んだ赤ちゃんを泣きながら抱いていた。」 引用元(『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、7頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「学徒動員で川西の畑で農作業をしていたら、川西に住む伯母が「空襲だから早く帰って、防空壕に入りなさい」と言われたので、私たちは田崎小学校の横にある墓の近くの防空壕に逃げ込んだ。爆弾の威力はすごいもので、砂煙がドーンと上がる。私は爆風で息もできなかった。防空壕の近くに消防の見張り台があり、鐘を打っていた消防団の人の足に爆弾の破片が当たり、重傷を負い、私たちの防空壕に運ばれてきた。当時、私たち女学生は三角巾、脱脂綿を袋に下げていつも持っていた。それを止血に使われた。自分の帯も止血用に使われたが、亡くなった。戦後、職場でその方の息子さんに会って、お互いに驚いたことがある。 小学校の校長先生が奉安殿のご真影を抱いて亡くなられた。大きな穴が3つもあいていた。道路の反対側に爆弾が落ちていたら、私たちは死んでいた。米軍は田崎小学校を軍事工場とまちがったらしい。」 引用元(『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、8頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 田崎小学校頌徳碑 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「私たちは3年生の終わり頃の昭和19年から終戦まで、鹿屋の上谷の総務課付属の印刷工場だった。「機密第○○号様式」という文書があって、原稿を見ながら活字を拾っていた。その活字を植字工が文書の形に整える。それができたら一枚一枚足踏みで印刷していた。印刷が上がったら、各部署に配布していた。 動員は私の同級生が4人位で、他に志布志高女からも2人挺身隊で来ていた。鹿屋中学校からも4人が来ていた。専門の工員もおり、その手伝いに2人の女性がいた。数名は総務課勤務として動員され、上谷の壕の中に電気が引いてあり、そこで事務をしていた。 私たちは上谷から上がっていき、左側に印刷工場があった。今の鹿屋市文化会館の近くで、当時は畑だった。印刷工場へは汽車で鹿屋駅を降りて、歩いて行っていた。工場は平屋建てで広かった。30人足らずが働いていただろう。印刷したのは軍の関係文書で20年の終戦まで工場にいた。」 引用元(『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、8頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「8月15日、女子青年団で大姶良町の壕堀りの奉仕作業に行っていたが、終戦のラジオは聞いた。戦時中「鬼畜米英」と言っていたので「米兵が来る」と鹿屋の人たちが逃げてきた。田崎辺りの人が逃げてきて、私が小さい頃は蚕を飼っていたので養蚕室があったが、養蚕室や隠居に2日くらいいて静かになった。 獅子目より先の南部の地下壕には、食べ物が隠してあって、部落の人がとりに行った。手車や荷車に箱ごと積んできて、一時不自由しなかったそうだ。 戦後、米兵がジープに乗って通訳を連れて、焼酎を買いに2回位来た。来た時は、チョコやいろんなお菓子などをくれた。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、9頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「4月18日自宅が空襲にあった。警戒警報が鳴る前に空襲が始まった。その時、私たち家族は兵隊の防空壕に避難していた。7つ違いの上の兄貴が私たちがいた防空壕に「家は全部燃えとったど」と位牌だけ全部抱えてきた。空襲後は、防空壕では生活できないので、畳3枚の土間もない小さな掘っ立て小屋を建てて、そこに5、6人が寝泊まりした。 敵の艦載機がよく低空で飛んできた。人を見かけては襲ってきたが、近所には機銃掃射で死んだ人はいない。7月28日、夫の父親が腹に爆弾の破片が当たって即死、また、おばさんも怪我をした。もう少しで終戦だったのに。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、10頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「小松城跡の所に5~6本、軍の防空壕が掘ってあった。そのうち1本は貫通していた。国道に近い方の2本に集落の人を入れた。7軒だったと思う。2本は施設部のドラム缶が入れてあった。」 向かい側で国道269号の下の方(現在、孟宗竹林となっているあたり)に、三角兵舎が2棟あり、その東の大きな建物には、軍の偉い人たちがいた。」 「掩体壕に入った飛行機にガソリンを入れるタンクローリーがあった。それにはねられ、子どもが1人亡くなった。燃料車は何台も来た。」 引用元(『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、11頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「戦後、女性は国鉄を一人辞め、二人辞め、私が最後まで残ったと思う。駅には、アメリカ兵がよく遊びに来ていた。私の隣に椅子を持ってきて、英和辞典のようなものを広げて語りかけたり、切符を切る真似をしたりしていた。 終戦後の9月3日、高須から浜田まで海岸に白旗が立った。上陸する米軍に対して立てたらしい。 終戦後も古江まで通った。9月4日の進駐軍上陸の前には女性はみんな暴行されないように、顔に真っ黒の墨を塗って夜逃げた。私は、夜に桜原に逃げた。5日くらいはいただろう。9月中旬、アメリカの船が台風で金浜海岸で座礁した。それ以降、船の近くの道路脇に、テントを張ってアメリカ兵の歩哨がいた。黒人兵がいて、3時、4時頃通勤で近くを通ると、英語で何か言いながら追いかけられたこともあったので、それ以降遠回りをして山道を通った。そのうち我が家も上浜田に疎開して、そこまで歩いて往復していた。」 引用元(『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、13頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「昭和20年3月頃、空襲が始まってから、高山の笠野の杉林(笠野交差点から串良方面へ300mほど)に机を並べ、7〜8軒の12〜13人で勉強をした。防空壕は4〜5か所あり100軒くらいで使っていた。家に掘った防空壕は、入口をたてに掘り、直角に横穴が掘ってあった。一坪くらいはあったと思う。 空襲警報が鳴ったら笠之原から壕まで約1km、必死で走った。自分たちを追いかけているような気がしたが、実際は狙われなかった。でも、グラマンが追っかけるようにきて側溝に避難したことがある。 現在の長﨑内科のあたりに70〜80軒位の住宅があり、焼け残ったのは5~6軒だけだった。家に帰ってみたら家は焼けてなくなっていた。飛行機のエンジンを保管する石造りの倉庫があったので、そこを狙ったのではないかと思う。」 引用元(『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、16頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「家の隣には、探照灯が2基、高射機関銃が2台あった。探照灯の灯が当たるように木は途中から切ってあった。海軍の兵舎も2棟あった。陸軍は通ってきていた。敵機が来れば高射砲で撃つので、家のあるあたりは、町の方より空襲がひどかった。町では、豊栄劇場という映画館に爆弾が落ちた。 空襲は、朝早く、下小原から大坪部落を空襲し、同日続いて岡崎が空襲を受けた。当時は、藁ぶき屋根が多かったので、家がよく燃えた。自宅も裏の方にあった家々も燃えた。瓦葺の家は燃えなかった。」 「高射砲がグラマンを撃ち、グラマンが串良の田んぼに墜ちた。見に行ったら「子どもは来るな」と言われた。大人は畦きりやら藁切りやフォーク等を持って行った。米兵は2人生きていて、家の近くの壕に連れてこられた。部落で掘ったもので兵隊はこの壕には避難しない。壕の上には兵舎があり、炊事場になっていた。米兵は若く背が高くて、けがはなくやけどして顔は赤くしていた。日本人が英語で話しかけていた。夕方には鹿屋に連れて行かれた。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、17頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「柳谷から1㎞位の所には、高射砲隊がいた。現在のさくら温泉の北500mに谷になっている所があり、下の所に電波探知機があり田島隊が、上の所に高射砲陣地があり大沼隊がいた。 電波探知機は、鉄の骨組みで高さ約2m、長さ約15mの高圧線みたいな形をしており、回転していた。 高射砲陣地は直径10m位の丸い穴で、周囲は高さ2m位の土手に囲まれていた。100m間隔で6基あった。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、18頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「陸軍は、柳谷の所に防空壕を作っていた。積部隊は大きくて柳谷に来ていたのは30人ほどで横穴式陣地を作っていた。ヒノキの山に隠れるようにテントや兵舎もあった。弾薬庫があったが、戦後進駐軍が処分した。 地下壕近くの北に施設部があり高山高等女学校の生徒が動員で来て、兵隊の料理作りをしていた。」 引用元(『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、18頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS
佐世保海軍施設部串良工事事務所
エピソード

「串良の航空隊ができるということで、家にいたら細山田に大きな事務所ができて、製図員や技工士など航空隊の工事関係者がたくさんいて、そこに来ないかと言われ、4月から勤めた。それは「佐世保海軍施設部串良工事事務所」だった。急ピッチの仕事だった。今の農協の細山田支所あたりだ。用材担当の事務所もあり、基地の用材がいっぱいきていた。セメント・釘・材木など大きな倉庫があった。」 引用元(『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、21・22頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS
鹿屋航空廠の見習い工員
エピソード

「20年3月下名の高等科を卒業して、鹿屋航空廠で見習い工員として採用され、寮に入った。寮には30人ほどがいて下名小学校から8人くらい、西俣や吾平など、いろんな学校からも来ていた。 食器は、紙で作ったような食器で、ご飯粒は数えるほど、麦や押しつぶした大豆が入っていた。おかずは味噌汁。自分たちは家が近かったので、親が炒った大豆や落花生を届けてポリポリ食べていた。 特に仕事は無くて、勉強だったが、それも飛行機の絵を先生(軍人)が書いて、詳しく説明した。 毎日のように米軍機が来て、宿舎から、西原小方面の谷に逃げた。逃げる途中、はちまきを落としたら、きつく叱られた。米軍が来たら、所構わず、溝や畑にうつぶせになってやり過ごした。夜、焼夷弾が落とされた時は、昼間みたいにとっても明るくなった。爆弾が落ちた時のために、「目と耳を抑える」方法は習った。機銃掃射を受けたことや、近くに爆弾が墜ちたことは無かったが、とにかく恐ろしかった。 西原には、1か月半くらいいて空襲が激しくなり、当時、吾平の青年学校(現吾平中学校)のあったところが分散工場になり、そこに配属されて家から通った。歳上の女の人たちは、旋盤で金物を削ったり、機械を使ったりして仕事をしていた。ここでも仕事らしい仕事は無くて、天気の良い日は、カボチャやナスビ、サツマイモの畑に行った。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、23頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS
女学校の挺身隊の仕事
エピソード

「女学校の挺身隊では、串良の岡崎で飛行機の部品を作っていた。学校に一旦登校して、挺身隊として揃って汽車で行っていた。そのころはまだ汽車は空襲を受けない頃だった。飛行機の部品は、三角形で5cmほど。それを紙やすりみたいなもので磨く仕事で、一つあたりの時間はかからないが、ひたすら一日中やっていた。当時、それが何になるのだろうと言っていたのだが、何だったかは今でもわからない。 挺身隊としてあちこちにいろんな仕事に配置されるなかで、串良の基地にもおにぎりを握りに行った。朝から昼まで熱いご飯を握るので、手は真っ赤になった。握る量が多いのに交代する人もいなくて、手の痛さに泣きたかった。今では当時の場所はよくわからないが、隊員宿舎で特攻隊におかずも作った。朝早く行って、朝と昼の分を作った。朝は基地から学校にトラックで迎えに来て、一クラス全員40人くらいが一緒に行く。農作業の手伝いにも行った。それまでやったこともないのに田植えも田車押しも、稲刈りまでやった。田んぼには蛭が多くて怖くて困った。時には、怖い蛇もいて逃げ回った。また、学校から連れて行かれて、がけに壕をコの字型に掘っていた。」 引用元(『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、26頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「私の家には鹿屋の航空隊から毎週土曜日に、明日特攻隊で死ぬという兵隊さんが3人ずつ来ていた。兵隊さんが来たら、私たちは嬉しいものだった。」 「隊員が帰るときは「あなた達には決してけがもさせない、きっと私たちが守る。行ってきます」と言って航空隊に帰って行った。」 引用元(『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、26頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「高山高等女学校は1クラス60人位で、イ組からハ組まで3クラスあった。 寄宿舎の人は、県外出身者が多かった。 集落には60軒位、商店があったが、裁縫するにも布が無かった。母は、女の子は裁縫があるからと木綿の反物を買いためていた。皆は人絹を持ってきて、ズレズレして縫いにくいようだった。 在学中、自分用のたこつぼをそれぞれスコップで掘った。しゃがんで顔が隠れるようになっても「もっと掘れ、もっと掘れ」と言われた。自分用なので念を入れて掘った。でも木の根があってうまく掘れず、「まだ掘れ」と言われた。学校が済んで帰る時は、手は汚れ、まめができていた。夕方、こっそり母が手伝って掘ってくれた。途中に足をかけて出るくらい深く掘った。「敵機襲来!」のサイレンがなって、自分のたこつぼに走っていくと人が入っていて喧嘩になったが、米軍は飛んでくるので、空いているのに入らざるを得なかった。自分たちが空襲にあったことは無かった。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、29頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS
女子挺身隊としての仕事
エピソード

「学徒動員で女子挺身隊として吾平の青年学校の工場で仕事をした。飛行機の落ちたエンジンを分解して汚れたのを油で磨く仕事だった。山奥に持って行って試運転をしていた。分解するときネジが回らない時は、男子中学生に頼んでひねってもらった。高山から吾平青年学校までは歩いて通った。汽車はなかなか来ないし、駅から吾平青年学校まで遠いので、駅まで歩くうちにだいぶ高山に近くなるので歩いた。金持ちの人は自転車で行った。」 引用元 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、29頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS
鹿屋第二航空隊の掩体壕作り
エピソード

「そのあと野里の第2航空隊の掩体壕作り、朝、登校して1年生はモッコ、3年はスコップとみんなで出かけた。コの字の土の掩体壕の基礎部分にモッコで土を運んだ。7、8基は作った。機械で土を盛ってあり、上級生がスコップでモッコに入れた。だいたいが近くに盛ってあり、遠くても掩体壕から100m位の近い場所に土の山があった。」 「私たちが作った田崎の掩体壕は今も一部残っている。コンクリートまでは生徒はできないから基礎つくりだった。10基くらいはあったろう。ゼロ戦を入れると言われてそのつもりで作っていた。」 引用元(『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、32頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 田崎掩体壕 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS
爆弾集積場の爆発事故
エピソード

「終戦後大隅各地に布陣した陸海軍は戦後の処理を行った。ところが戦後処理班の手により、大隅地区のあらゆる爆弾、弾薬類は郷之原のバッツに次々と集められた。バッツは、郷之原と松原の低地である。戦時中は飛行機の誘導路が造られ、飛行機の隠れ場所としては絶好の場所であった。 十一月八日、午前十時頃、突然大きな爆発音とともに大きな火災が発生した。場所はバッツであった。弾薬に火が付き、次々と爆弾や弾薬が爆発し始め、爆発音はものすごい花火大会のように鳴り響き、市街までをも揺るがした。その爆風は、周辺のあらゆる物を吹き飛ばし、破片は郷之原、大浦(松橋)に雨あられの如く降り注いだ。丘一つ越えた郷之原上部落は、戦時中は被害をほとんど受けなかったにもかかわらず、終戦後二ヶ月余りで大空襲を受けた以上の惨事にみまわれたのである。農作業の人々は家に帰ることもできず、家にいた人たちは戦時中使っていた防空壕に身を潜め殆どの家財道具を持ち出すことができなかった。当時は、まだ藁屋根の家が多く、真っ赤に焼けた破片が降り注ぎ、あっという間に火の手が上がり、綱をきって逃げ出す牛もあった。しかし、逃げ遅れた牛は焼死しており、その数は相当数に上った。この時の犠牲者は、畑目の○○さん只一人が焼死された。家屋のほとんどは全焼したが、○○○○氏宅一軒だけは焼け残った。」 引用元 (『郷土史 郷之原』郷之原を語る会、1992年、100・101頁より:原本は鹿屋市立図書館で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「昭和二十年三月十八日朝、私の耳をつんざく大砲みたいな音がしました。 「志布志湾にアメリカ軍が上陸したのでは」と考えていると、道路の向かい側かた〇〇〇〇叔父さんが「空襲やっど、早よっ防空壕に入らんか」と大きな声で知らせてくださいました。艦載機が郷之原丘の上空を旋回して、航空隊めがけて突っ込み、機銃を撃ちながら爆弾を落とす、あっちこっちの高射砲陣地から迎え撃つ音を防空壕の中で、生きた心地もしない状態で一日中聞きました。 あんな激しい空襲は後にも先にもありませんでした。やがて鹿屋航空隊から特攻機が出撃するようになりました。私の家には、東京から持ち帰った姉のミシンがあったので、二十歳位の明日とも知れない特攻隊員が、「マフラーの端を縫ってくれ」と言って遊びにきました。岩手県の軽石さんは、「義姉の弟に似ている」と言って可愛がられました。 兵隊さんたちは「僕たちは日本の将来のために死んで行くから、君たちはそれを忘れないでくれ」と女学生だった私達に言われたのを思い出すたびに目頭が熱くなります。」 引用元 (『郷土史 郷之原』郷之原を語る会、1992年、102頁より:原本は鹿屋市立図書館で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「あの日は、大姶良の青年学校へ通学していた昭和二十年、確かな月日は覚えていませんが四月末か、五月の上旬だったように思います。その日の実習作業も終わり級友と一緒に帰る途中のことでした。 空襲の危険を避ける為に、第二航空隊の所を通って帰らず、横山集落を通り「きこだ」を経て霧島ヶ丘下の物影が多い所伝いに、麓のえんたい壕「飛行機を待避しておく所」までくるとその一角に、いつもは見かけない小さな飛行機の形をしたのが置いてある。なんだろうと話し乍らよく見ると、その姿形からして「特攻機人間魚雷」だと気付いたのです。 近くから見るのは初めてだったのでその時はびっくりしました。恐いながらも級友と少し近付いてしばらく見ていましたが、いつあるかわからない空襲が気がかりで、その場を急ぎ足で帰ったのです。」 引用元(『山下集落史』山下集落史編さん委員会、1997年、38頁より:原本は鹿屋市立図書館等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「昭和二〇年の三月二〇日前後は、野里をはじめ鹿屋市が米軍による大空襲を受けております。私も米軍機に狙われ九死に一生を得た思い出があります。 私達は汽車通学をしていましたので、三月十八日のご前八時半ごろだったと思います。私と〇、それに○○と〇の四人でした。野里駅の少し手前の通称「ぎい山」の所で立ち止まり、上空で繰り広げられていたアメリカのP51かグラマンと、有軍機の空中戦を見ていました。 急旋回から急上昇しながらの切り返しなど、追いつ追われつの華麗な巴戦に見とれているうちに、敵機と有軍機の見分けが付かないようになります。突然そのうちの一機に「パッ」と白煙があがり激しい黒い煙を吐きながら落ちてきます。○○が、「あれは敵機だ」と言う声に「やったあバンザイ」と歓声が挙がります。しかし、飛行機の高度が下がり目を凝らしてよく見ると、翼に鮮やかな日の丸のマークが見えるではありませんか。「あいやあいや有軍機やらい」と束の間の喜びは落胆に変わりました。 我にかえると、金属性特有の軽快な爆音が聞こえて来ます。見回してみると大津の方から私たちがいる方向を目掛けて飛行機が低空で突っ込んで来ます。 明らかに私たちを狙っている様子に、無我夢中でそばの溝に飛び込みました。その瞬間「プス、プス」と機銃弾が突きささる音がします。遠ざかる爆音に頭を上げてみると、日常的な空襲によって見慣れているグラマンでした。 起き上がってみると、私たちが伏せていた所から一間(約二メートル)も離れていない土手に、等間隔で付いている機銃掃射の弾痕による穴がありました。敵機は空中戦に見とれている私たちを、少し離れた上空で旋回しながら狙っていたものと思われます。いま考えますと敵機が、動かない的をはずしたのも腑に落ちないところがあります。近付いて非戦闘員の少年であることが分かり、わざと外したのかも知れません。いずれにしても、九死に一生を得た終戦の頃の思い出です。」 引用元 (『山下集落史』山下集落史編さん委員会、1997年、110・111頁より:原本は鹿屋市立図書館等で閲覧できます。) 大隅野里駅跡 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS

「 野里駅の惨事 鹿屋市市史・平成七年発行の八四三頁に、「三・十九午後惨事空襲警報が出て、午後十時に解除、野里駅など破壊され死傷者八十人」と記載されている。 この野里駅の死傷者の中に、高須出身で二級先輩で、駅員であった、故〇〇〇〇(十七歳)が殉職した。 この空襲で、国鉄職員十七人が殉職した。内女性二人で、西俣小高等科卒の、故○○○〇〇さん十四歳もいた。 当時、野里駅に勤務していて、命拾いをした同級生の、「○○○○さん」(平成十一年死亡)は、次のように証言している。 「艦載機の来襲で防空壕に退避した。機銃掃射が終わり壕から出てみると、機関士が足を負傷していた。軍需物資を満載した貨物車が火災を起こし、消火作業と軍需物資搬出のため、駅員・予科錬生(海軍)・労務者(朝鮮半島出身者)など百数十人が当たっていた。私は、駅長から被害の様子を鹿屋駅に連絡するように命令された。行く途中ですごい爆発音が聞こえ振り返ると黒煙が上がっていた。 鹿屋駅に連絡後帰ってみると、駅も貨物車お救出に当たった人も全て吹き飛ばされ、人体は黒焦げになっていた。」と話した。 真実を知りたい 「野里駅の惨事」については、多くの犠牲者八十人以上出ているのに、鹿屋市市史には「軍事・鹿屋航空隊・鹿屋市の戦災」の欄に僅か二行に纏められている。 多くの犠牲者を出したのに詳しい記録がないのは、空襲による被害でなく、駅構内の軍需物資の搬出中に起きた大事故であったので、秘密裏に処理されたものと思われる。 駅には、他に航空燃料・秘密兵器の人間爆弾もあった。 (中略) 空襲後に消火作業に当たり、県内で最大の犠牲者を出したのは野里駅だけである。」 引用元(「高須は戦場だった」立元良三『高須町民 私の戦争体験』戦争を風化させない高須町民の会、1999年、59・60頁より引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 大隅野里駅跡 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS
3月18日・19日の高須の空襲
エピソード

「 高須の初空襲 昭和二十年三月十八日早朝、警戒警報が出されてすぐ空襲警報のサイレン、初めての敵機来襲である。超低空で艦載機グラマンの機銃掃射。操縦士がはっきり見える。初めての空襲で恐さも知らないで面白がって見ていたが、近くの幼児が足を直撃され出血多量で死亡。各地で死傷者がでたとの情報が入り、空襲の恐さが分かり次からは家庭用防空壕に逃げるようになった。」 「 高須に爆弾投下 三月十九日、前日に引き続き空襲、防空壕にすぐ逃げ込む。次々に爆弾投下、すごい爆発音と同時に防空壕の土砂が崩れ落ち生き埋め寸前になる。戦争の恐さを再確認する。空襲警報解除のサイレンで外に出て見ると隣の家が倒壊している。防空壕より数米離れた所に爆弾が落され、直径十米・深さ十米程の穴が出来ていた。直撃でなく生き延びた。 二五〇キロ爆弾が町内各地に投下され、確認されている分が四十二個であった。 特に波の上神社附近に沢山落され、大きな穴が次々に出来地下水が湧いていた。 爆弾の直撃により、破壊された家が約四十棟・死亡者・負傷者が数名、家庭用防空壕は危険となり、町民の殆どが周辺の山に掘られた横穴お防空壕で生活するようになった。」 引用元(「高須は戦場だった」立元良三『高須町民 私の戦争体験』戦争を風化させない高須町民の会、1999年、57・58頁より引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 住所 Googleマップ Googleマップで確認する アクセス 駐車場 営業時間 入場料・入館料 定休日 TEL URL SNS






