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大桑村 史跡散歩 中部地区

大桑村 史跡散歩 中部地区

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武者小路実篤の碑

大桑小学校昭和42年度卒業生が、卒業記念として贈った記念碑。当初は旧大桑小学校入り口庭園に設置されていたが、小学校統合移転、村役場移転により、現在の役場裏に移設された。 当時の学校長矢崎信氏が武者小路実篤の主宰する「新しき村」の会員であった縁もあり、学校長を通して碑文を依頼。さぬき岩を台石として石英斑岩に「天に星、地に花、人に愛八十三歳実篤」という文が浮き彫りにされた銅板がはめ込まれている。裏面には「卒業記念としてこの碑を贈る昭和42年度卒業生」とある。 碑の言葉は『武者小路実篤全集』第十一巻(「詩千八百」、小学館、1989年)にあるもの。 なお寄贈したのは昭和42年度の卒業生であるが、在学中には完成せず、卒業式では目録のみを贈呈。序幕式は昭和44年1月19日に行われた。 参考文献 大桑小学校百年記念事業実行委員会『大桑小学校百年誌』昭和47年11月1日 昭和42年度卒業生『記念文集 築山と詩碑』昭和48年9月 中日新聞昭和44年1月21日「武者小路氏の文章を刻んで 大桑小に卒業生が記念碑」

古瀬國之助氏造林頌徳碑

古瀬国之助氏は、大桑村第三代村長で、大正4年6月7日から昭和9年5月10日まで村長を務めている。 村長在職中に村有林の育成に尽力したことから、それを称えた造林頌徳碑として旧役場前広場に建立され、昭和37年7月20日に除幕式が行われている。建立時の村報では大桑村役場前広場に建立とあり、2014年のストリートビューでは旧大桑村中央公民館横に設置されていたことが確認できる。現在は役場新庁舎裏に移設されている。 参考文献 「村の新聞(大桑村広報)」第39号 昭和37年8月20日(月) グーグルマップストリートビュー2014年9月

大桑中学校歌碑

大桑中学校の校歌は昭和31年6月10日に制定された。 作詞作曲は岡本敏明であり、昭和時代に活躍した日本の音楽家であり近隣を含め様々な学校の校歌を作られた。 この石碑は昭和52年10月29日に校門と一緒に設置されたそうである。 岡本先生は「どうぞ皆様が朝に美しい山を迎ぎ夕べに静かな川辺を散歩するとき、口笛ででもこの校歌を愛唱して下さい。」と書かれている。 参考文献 大桑中学校沿革誌委員会『大桑中学校沿革誌創立20周年記念』(1968)

大桑村マンホール

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観世音菩薩の碑(かんぜおんぼさつのひ)

旧中山道沿い、八幡神社参道入口付近の中山の山裾にある。 正面の中央に「観世音菩薩」、右側に「京都 馬別當四人」、左側に「馬四疋(ひき) 明治十一寅五月日立之(1878)」の文字が彫られている。 馬別當(うまべっとう)は、馬の世話をする役職のことで、詳細は不明だが、碑の隣に建てられている自然石とともに、京都から来た四人の別當と四頭の馬の供養塔ではないかと思われる。

大桑小学校碑

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大桑小学校碑

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中山座(なかやまざ)

現在の大桑中学校の南側、八幡神社の参道脇に明治5年から昭和初年まであった芝居小屋。 回り舞台が作られ、県内の明治時代に建てられた芝居小屋では2番目に古い。八幡神社の秋祭に奉納する芝居が上演されていた。 昭和の初めに不況のため売却され、老朽化した客席部分が先に解体され、回り舞台が残っていたが、昭和15年に解体され、部材は中津川の劇場に移して使用された。 芝居小屋の遺構はなく、昭和初年に撮影されたと思われる遠景写真1枚と、わずかな記録しか残っていない。 2008年に弓矢分館の天井裏から、大量の芝居の背景画と、座席の予約を書いた板が発見され、板に書かれた文字から中山座で使用された物と判明した。 文献 志波英夫 1978『大桑村の歴史と民話』(私家版) 記録数行 大桑村 1990『写真で見る100年』 P33

双体道祖神(そうたいどうそじん)

東外向、桶野氏宅の山側にある。沢沿いの道から上がった所の大きな石の上に祀られ、上に平らな石の屋根が載せられている。碑の側面には元の石を割った時の矢の痕が残っている。 正面に手をつないだ男女の像と施主名、側面に「慶應三丁卯三月吉日(1867)」の年号が彫られている。像の彫刻は非常に繊細で優れている。 板状の石を笠のように載せた例は、非常に少ない。 男女の像を彫った双体道祖神は、県内では安曇野地域などで多く見られるが、村内では長野東地区に2体、西地区に1体ある。東地区の2体はいずれも当時の地区の端にあたる場所に建てられている。 小出久和 2003 『信濃路の双体道祖神』敬和

神明神社

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神明神社

中山道、念三夜の碑から江戸方面に向かって右手の山中にある。大島集落の旧家大島家の氏神として屋敷内に祀ってあったものを、享保14(1729)年に現在地に建立したとされる。かつては大島集落全体でお祀りしていたが、現在では例祭は行われていない。。境内には拝殿と、その奥に覆殿におおわれた本殿があり、その規模から、往時は多くの人が訪れたであろうことをしのばせる。祭神は豊受大神である。豊受大神は伊勢神宮外宮の祭神でもあり、食事及び産業の神とされる。境内入り口には「須原区有地分割記念」の碑があり、この地籍の境界を定めた経緯が記されている。また、境内右手には推定室町時代のものとされる五輪塔がある。この五輪塔はもとは現在地よりもやや下ったところにあったものを、水田開墾にあたり現在地に移設したものとされる。なお、その横には山の神の祠もある。参考文献大桑村教育委員会『大桑村の神社調査報告書』昭和56年大桑村教育委員会『大桑村の絵馬』平成12年五輪塔祠棟札吉川弘文館『国史大辞典』昭和54年

道標

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道標

撮影日|2025.10.02

双体道祖神

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双体道祖神

撮影日|2025.10.03

八幡神社入口の碑

撮影日|2025.10.07

弘法様祠

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弘法様祠

撮影日|2025.10.5

五輪塔

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五輪塔

撮影日|2025.09.28

延命地蔵

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延命地蔵

撮影日|2025.09.28

祠跡

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祠跡

撮影日|2025.10.5

石碑

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石碑

撮影日|2025.10.5

石碑

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石碑

撮影日|2025.10.5

石碑

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石碑

撮影日|2025.10.5

屋敷神祠

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屋敷神祠

撮影日|2025.10.3

八幡神社 鳥居

撮影日|2025.10.15

八幡神社 灯篭

撮影日|2025.10.15

馬頭観音

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馬頭観音

撮影日|2025.11.19

屋敷神

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屋敷神

撮影日|2025.11.19

石仏

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石仏

撮影日|2025.5.14

五輪塔

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五輪塔

撮影日|2025.10.10

八幡神社

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八幡神社

長野東にある神社で、長野地区全体と大島地区を氏子としている。八幡神社は八幡神をまつる神社で八幡宮ともいう。 八幡神はもともと農業の神とされていたが、しだいに仏教を保護する神、国を守る神、特に鎌倉時代の源頼朝が鶴岡八幡宮を建立し幕府の守護神としたため、戦いの神としてもまつられるようになった。八幡神社の祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)とされている。これは応神天皇のことである。この地の八幡神社は、木曽義仲六代目の孫である木曽(沼田)家教が1316(正和5)年、館の乾(北西)にあたる見張山(兼平山)の麓に八幡宮を勧進して祀ったとされる。社殿は1943(昭和18)年の大島大火で焼失し、現在の建物は1944(昭和19)年12月に再建されたものである。百人一首の絵馬が奉納されているが、これは、1945(昭和20)年に奉納されたものである。 参考文献大桑村教育委員会『大桑村の神社調査報告書』昭和56年8月大桑村教育委員会『大桑村の絵馬』平成12年3月『総合百科事典ポプラディア第三版』平凡社2021年11月

屋敷神祠

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屋敷神祠

撮影日|2025.10.28

子安観音

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子安観音

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善光寺

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善光寺

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三峯様祠、秋葉様碑

撮影日|2025.10.5

念三夜(ねんさんや)の碑

撮影日|2025.10.2 神明神社下の旧中山道沿い、道路山側にある碑。自然石に「念三夜」の文字を彫り、上部に日と月、左下に「講中」、裏面に弘化二年乙巳四月(1845)の年号が彫られている。 二十三夜講は旧暦二十三日の夜に集まり、行や食事をしながら月の出を待ったり、月を拝むまつりを行ったもので、全国的な広がりがあった。 大桑村では江戸時代後期の文政年間(1818〜31)以降、昭和の初めまで、「二十三夜」、「念三夜」などの碑が十数基建てられていて、村内の各地でこのまつりが行われていたことが伺える。「念三夜」の文字を彫ったものは3基あり、この碑が最も新しい。 この碑のある場所は、大島地区の端にあたり、碑の上の平らで小正月のお松焼きが行われている。地元の人は、この碑を「さいのかみ」と呼んでいる。 二十三夜の月待の碑と、集落の端に祀られて外から悪いものが入るのを防ぐ、さいのかみのまつりが一緒になったものと思われる。 参考文献 庚申懇話会編1980『日本石造文化事典(第二版)』雄山閣出版 石造文化財調査研究会2011『石造文化財研究会』ニューサイエンス社

馬頭観音

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馬頭観音

撮影日|2024.09.28

屋敷神祠

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屋敷神祠

撮影日|2025.10.21

道標

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道標

撮影日|2025.10.21

馬頭観音

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馬頭観音

撮影日|2025.10.5

八幡神社 石鳥居寄附金人名記の碑

撮影日|2025.10.15

平和公園

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平和公園

撮影日|2025.11.20

屋敷神祠

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屋敷神祠

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天長院

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天長院

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三智の碑

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三智の碑

人の世に三智がある。 學んで得る智、 人と交って得る智、 みずからの體験(たいけん)によつて得る智がそれである。 昭和46年度大桑中学校卒業生が卒業記念品として学校に送ったものである。言葉は郷土の文豪であった島崎藤村の言葉が一番いいということで刻まれた。石は当時の先生方が見つけた御岳安山岩である。PTAの有志で川から引き揚げたそうだ。彫ったのは弓矢の石屋である南山浦太郎だそうだ。 島崎藤村は現在の岐阜県中津川市妻籠で生まれた詩人、小説家である。本名は島崎春樹。 参考文献 大桑中学校生徒会誌『清流』第19号(1971)

水害記念碑

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水害記念碑

大正12年7月18日、前日より降り続いた雨によりサヨリ沢と上田沢が氾濫し、土砂崩落による濁流により長野地区では殆どの家屋が被害を受け田畑も水に浸かり9名の人命が奪われた。この惨事を後世に残し災害に対する警戒を怠らないようにするため、災害から一年後の7月18日に長野区青年会によってこの碑が建てられた。碑には災害の概要に加え、住民の努力と近隣の支援により短期間で同地区の復興が成し遂げられたことが記述されている。大桑村全体の被害としては、特に伊奈川田光発電所付近での被害が甚大だった。伊奈川支流の水澤川が氾濫し42名が死者・行方不明者となった。これら被災者の霊を供養するため、伊奈川田光発電所横にも水害供養塔として地蔵尊が建てられている。

出雲神社

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出雲神社

場所|長野中地区、善光寺の上にある出雲神社と彫られた常夜灯を過ぎて、200mほど休耕田のあぜ道を上り、右手の山にはいります。急な坂道を上ると、20分ほどで尾根道にでます。そこから、尾根に沿って南東方向に登ります。途中、送電線の鉄塔を過ぎて、巻き道に入り、20分ほど登った山の中腹に小さな広場があります。出雲神社の小さな祠はその上にありまする。 沿革|最初は、木曽義仲が木曽南部の安定を祈願して、現在の須原定勝寺の前身であった観心坊の僧に祀らせたといわれています。その後、出雲神社の祀られている山のふもとに円行寺(現在の善光寺)という寺を建て、そこの僧に守らせたと伝えられています。明治の初めに神仏分離政策のもと、建物も壊され、ご神体とされていた仏像も一部焼かれてしまったそうですが、昭和3年に現在の建物で再建されました。昭和3年の再建に携わった人たちの銘板は建物の横にかけられていますが、長年の風雪に墨の色は落ちてしまっています。 宝物など|この神社に伝わる三鈷杵、五鈷杵は鎌倉、室町時代のものと推定され、ともに村が文化財に指定しています。祭日は旧暦の9月15日で、30年ほど前までは、山中の祠の前で、湯立ての舞などが行われていたそうですが、現在は行われていません。記録|木曽路名所図会(文化2年:1805 秋里籬島)には以下のように記述されています。「出雲明神社祠(いづもみやうじんのやしろ) 村民(そんみん)これを祀(まつ)る。いにしへ木曽殿(きそどの)これを建(た)つる。其頃(そのころ)は須原(すはら)観心房(くわんしんぼう)守(まも)る。例祭(れいさい)八月(ぐわつ)十五日(にち)。阿弥陀堂(あみだだう) 出雲祠(いづものやしろ)の境内(けいだい)にあり。弥陀(みだ)の大像(だいざう)を安置(あんち)す。本地仏(ほんぢぶつ)とす。」*本地仏…本地垂迹説(神道の神が、本来は仏教の神であったという考え方)において、祀られている神道の神の本来の姿とされる仏や菩薩をさす。参考文献大桑村の神社調査報告書 長野県木曽郡大桑村教育委員会 昭和56年『大日本名所図会 第2輯 第1編』大日本名所図会刊行会 編 大日本名所図会刊行会 大正8年八十二文化財団 文化財・文化施設検索HP 2025/7/19閲覧

山の神祠

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山の神祠

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