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高取町観光マップ

高取町観光マップ

この観光マップは、町内の主要な観光スポットや歴史的名所をわかりやすく紹介しています。高取城跡や壷阪寺などの見どころをはじめ、土佐街道沿いの城下町の風情が残る街並みも紹介されています。

高取町Posted by高取町更新日:
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41件のスポット

史跡史跡

高取城跡

岡山の備中松山城、岐阜の美濃岩村城に並ぶ日本三大山城の一つ。城は標高583.9mある高取山の頂に築かれ、現在は緑に覆われ、石垣を留めるのみの姿ながら、本丸・二の丸跡の立派な石垣からは往時の栄華が感じられます。昭和28(1953)年に国の史跡、平成18(2006)年には日本100名城に認定された。春は桜、夏は新緑とヤマユリ、秋は紅葉、済んだ眺望を楽しめるスポットとして人気です。 ●公式サイトはこちらhttps://sightseeing2.takatori.info/takatorijyou-d/

市尾墓山古墳

全長66m、高さは10mに及ぶ、古墳時代の後期を代表する典型的な前方後円墳。奈良県立橿原考古学研究所が行った昭和53(1978)年の発掘調査では、後円部に横穴式石室が見つかり、凝灰岩製の巨大な家形石棺も確認された。昭和56(1981)年に国指定史跡となるも、現在は公園として整備され、外から内部を見学したり、墳丘に登ることも可能。高取町教育委員会による平成16年の再調査では、横穴式石室の閉塞状況などが改めて分かり、新たに石棺を石室の奥へ運ぶために掘られた墓道も確認された。全長9.45m、幅2.45mの石室は、玄室部分の高さが3mあり、長方形の平面形状から片袖式の横穴式石室となっている。石室の基礎石は全国の古墳でも数例しかない、非常に貴重なもの。納められた石棺は長さ2.61m、幅1.27m、高さ1.39mを誇り、奈良県内でも最大級の規模という。また、後円部から前方部にかけた墳丘一段目の平坦部を発掘したところ、円筒埴輪が出土。10cm間隔で並ぶように立つ埴輪の列は、当時の位置を保ったままと思われる。この他にも、「木の埴輪」と呼ばれる木製の鳥形埴輪も出土しており、平成19(2007)年には全長が3m近くに達しそうな板状の木製品が見つかったと発表され、話題となった。毎年夏には「高取町ふるさと夏まつり」の一環として幻想的な燈火会が行われている。 ●公式サイトはこちらhttps://sightseeing2.takatori.info/hakayama/

与楽カンジョ古墳

直径20m前後の円墳と見られていたが、平成20(2008)年の再調査によって一辺およそ36mの方墳と判明した。特筆すべきは横穴式石室の天井が極めて高いこと。明日香村の石舞台古墳(高さ4.8m)をも凌ぐ、5.27mという県最大の高さを誇る。同集落の鑵子塚古墳、寺崎の白壁塚古墳と共に、与楽古墳群として平成25(2013)年に国史跡となった。貝吹山の南麓に築かれた古墳は墳丘の崩落が激しく、原型や規模が分からないために円墳と思われてきた。ところが、高取町教育委員会が国の史跡指定を目指して行った再調査により、二段構造の方墳であったことが明らかに。古墳の床面に堆積していた土砂を除いたところ、石室の天井高は5.27mにまで達することも判明した。床面からは副葬品のミニチュア土器片など、渡来人系の古墳に多い遺物が出土しており、床面の中央には木棺を載せる棺台の跡も検出された。埋葬施設は両袖式の横穴式石室。石室を包む四方の壁には石が4~5段に積み上げてあり、高く取った天井部分は一枚の巨石から成る。このような石室の構造や渡来系の出土遺物は、カンジョ古墳が東漢氏の首長墓であった可能性を示唆する。更に平成27(2015)年の調査では、石室の入口を閉じる石の下から7世紀末~8世紀初めの土器片が出土。古墳の築造は6世紀末~7世紀初めと推測されるため、その約100年後に追葬があったと見られる。●公式サイトはこちらhttps://sightseeing2.takatori.info/kanjyo/

大字与楽にある与楽鑵子塚古墳(ようらくかんすづかこふん)は直径28m高さ7.5mを測る円墳である。墳丘南面に横穴式石室があり、石室玄室は長さ4.2m幅2.8m高さ4.2mを測る。閃緑岩(飛鳥石)を7~8段積み上げた片袖式で、羨道の長さ5.4m幅1.4m高さ1.8mで羨道にある閉塞型傘訳1mが残存している。石室から金銅装・銀製耳環・ガラス小玉等、銀装指輪、金銅装鞍縁金具・鉄製轡・銀製杏葉・鉄製雲珠・鉄製辻金具等、鉄製釣針、鉄製刀子、須恵器、土師器等が出土した。杏葉は三葉文(パルメット)が施された鉄製の馬具である。土師器に竈・甑(こしき)・鍋のミニチュア炊飯具が含まれる。古墳の築造は6世紀後半と考えられる。 ●公式サイトはこちらhttps://www.library.pref.nara.jp/nara_2010/0855.html

貝吹山南麓に横穴式石室・横口式石槨を有する100基からなる与楽古墳群にある大字寺崎の寺崎白壁塚古墳は、墳丘の規模30m高さ9mを図る方台古墳である。尾根斜面を大きく造成し平坦地を作り、墳丘1段目は地山を整形し2段目は版築により盛土が施されている。墳丘背面に幅7m深さ2mを測るコ字形の掘割りがある。埋葬施設の内法は、幅1.1m長さ2.2m高さ0.9mを測る閃緑岩(飛鳥石)の巨石を組み合わせた横口式石槨に前室と羨道がついて全長11mを測る。石槨と羨道の石材間に漆喰が塗られている。石室から土師器平底甕、ミニチュア鍋・竈の破片と鉄釘等が出土した。古墳は7世紀中ごろに築かれ、背面は丘陵で大きくせまり、前面は開けるなど、風水思想の影響と考えられる。 ●公式サイトはこちらhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/273913

橿原市との境目に位置し、標高は210.3m。山頂には麓の人々が雨乞いをした「牛頭(こず)天王の塚」と呼ばれる直径約3mの円墳があり、南北朝時代には越智氏の山城が塚の上に築かれた。山城は元々、越智居城の詰め城であったが、後に本城となって高取城を詰め城にするまで発展した。貝吹の名はホラ貝を吹き、敵襲を知らせたことに由来。貝吹山とその周辺には数多くの古墳や御陵をはじめ、越智氏が代々崇敬した有南神社や菩提寺として建立された光雲寺など、中世豪族ゆかりの社寺も点在する。見晴らしのいい山頂には「貝吹山城址」と刻まれた石碑が立ち、現在は曲輪と石垣の一部を留めるのみながら、かつては主郭を中心に四方の屋根上にも諸郭が連なっていたという。そもそも貝吹山城は、越智谷にあった居城を守る櫓代わりに築城され、越智本城の北方に点在していた家城と呼応し、敵の見張り役を務めていた。それが天文期(1532~1555年)に入ると防備施設が強化され、戦になれば越智氏は本城を出て、この山城へこもるようになる。やがては高取城を詰め城とし、貝吹山城を本城とした。越智氏は応仁の乱が起こる前後、室町時代の後半に最盛期を迎えるも、戦国時代には争乱続きで貝吹山も戦場と化す。遂には永禄11年(1568)年、織田信長方の松永氏との合戦に敗れ、貝吹山は落城することとなる。 ●公式サイトはこちらhttps://sightseeing2.takatori.info/kaibukiyama/

市尾宮塚古墳

市尾墓山古墳と同じく、大型の横穴式石室を備えた前方後円墳として国の史跡に指定される。菅原道真公を祀る天満神社の境内にあり、石室を閉ざす柵に近付くと自動的に照明が点き、石棺の眠る玄室が見学できる。馬具や太刀の装飾品といった多数の副葬品が発見されており、斑鳩町の藤ノ木古墳を上回る豊富な遺物があったと見られる。平成9(1997)年10月から3ヶ月に渡り、高取町教育委員会と奈良県立橿原考古学研究所が発掘調査を実施。出土した遺物を見ても、全長44mの前方後円墳が築造されたのは6世紀半ば頃と考えられ、古代の外交に従事していた豪族首長の墓と発表された。両袖式の横穴式石室は全長が11.6mあり、壁面と石棺の外側は赤い顔料で塗られ、ノミの痕跡も残る石棺の前では木棺に用いる鉄釘も検出。追葬の木棺が安置された可能性も高いと推測される。ほとんどが盗掘されていながら、発見された遺物の数と種類は実に多く、中でも金銅製の鈴は奈良県内で二例目の出土品として注目を浴びることに。金銅製の鈴や耳環の他にも、刀の柄に装飾されていた水晶の三輪玉や冠を飾っていた魚形の銀製品などが出土。これら国際色豊かな遺物の数々は、当時の古墳でもトップクラスの内容を誇り、有力豪族の墓であった説を裏付けている。整備も兼ねた発掘調査によって石室は修復、石棺も復元されている。 ●公式サイトはこちらhttps://sightseeing2.takatori.info/miyatuka/

束明神古墳

草壁皇子の墓として管理される岡宮天皇陵の東南部、佐田集落の春日神社境内に残る。発掘調査の結果、凝灰岩の切石を積み上げた特殊な横ロ式石槨を持つ、大規模な終末期古墳であることが判明。また、出土品と歯牙の理化学的分析、文献や伝承などからも総合的に判断して、束明神古墳こそ草壁皇子陵であった可能性が高いと見られる。 昭和59(1984)年に奈良県立橿原考古学研究所と高取町教育委員会が発掘調査を実施。古墳は約60mの範囲で造成され、中央部の墳丘は終末期古墳の中でも天武陵の45mに次ぐ規模を誇る。現状の墳丘は直径10m程度ながら、実際は対角線の長さが30mある八角形墳であった。横ロ式石槨は緻密な構造になっており、切って積み上げられた凝灰岩の大きさは厚さ30cm、幅50cm、奥行き50cmにも及ぶ。石材を内側に傾斜させた家型の石榔は、終末期古墳において特色のあるものとされ、橿原考古学研究所付属博物館では復元模型が公開されている。古墳の周辺からは須恵器などが出土した他、青年期または壮年期の男性と推定される歯牙も検出。7世紀後半から末頃に築造された後、幕末までは古墳に玉垣を設け、草壁皇子の眠る岡宮天皇陵として祀っていたという伝承もある。現在の岡宮天皇陵は素盞嗚命神社の本殿が元々あった地に定められているが、考古学や古代史上では束明神古墳が岡宮天皇陵との説が有力。 https://sightseeing2.takatori.info/tukameijin

宮内庁が管理する斉明天皇とその娘・間人皇女の合葬陵。陵前には斉明天皇の孫娘にあたる大田皇女の墓も造られており、更には8歳で亡くなった皇孫の健王も自分の陵に埋葬するよう、斉明天皇が遺言を残したと伝わる。古代飛鳥で活躍した女性たちの痕跡を辿る「日本遺産」の中でも、家族愛に溢れた陵墓のひとつ。斉明天皇といえば、一度退位して再び皇位に就くという、日本史上初の譲位と重祚(じゅうそ)をなした女帝である。その陵墓については、『日本書紀』天智天皇6(667)年2月27日の条でこう記されている。「天豊財重日足姫天皇(斉明天皇)と間人皇女とを小市岡(現在の越智崗)上陵に合せ葬せり。是の日に、皇孫大田皇女を、陵の前の墓に葬す」。天智天皇こと中大兄皇子は、母である斉明天皇と妹の間人皇女を一緒に眠らせ、娘の大田皇女も寄り添うようにして陵前に葬ったとされている。また、斉明天皇は若くしてこの世を去った中大兄皇子の子・健王を可愛がっていたことから、「万歳千秋の後に、要ず朕が陵に合葬れ」と群臣に命じ、孫を想って挽歌も詠んでいる。宮内庁はこれまで、車木ケンノウ古墳を斉明天皇陵として管理してきたが、平成22(2010)年に成果が発表された明日香村教育委員会の発掘調査により、牽牛子塚古墳こそが天皇陵である可能性も高まってきている。 ●公式サイトはこちらhttps://sightseeing2.takatori.info/saimei/

草壁皇子が葬られたと考えられる陵墓。柿本人麻呂に求めた挽歌はのちの持統天皇の息子への情愛が伺われる。

五百羅漢像

仏陀に付き従った500人の弟子の姿を岩壁に彫り込まれている、周辺には五百羅漢のほかに曼荼羅などのレリーフも岩壁に彫り込まれてあり、どれも周辺の木々と調和した姿となっている。 ●公式サイトはこちらhttps://www.tsubosaka1300.or.jp/place19.html

猿石

城跡本丸へ続く登城道の道沿いに佇む猿を模したとされる石造。城の石垣に転用するために明日香から運ばれてきたという節があるがはっきりとわかっていない。高取町の指定文化財。

国見櫓跡

城跡本丸へ続く登城道の途中にあり、大和を一望できる眺望を楽しむことのできるおすすめスポットです。

飲食店飲食店

町屋カフェnoconoco

高取城へ向かう土佐街道沿いに佇む、戦前の米蔵を改造して作られたカフェ、食数限定のランチメニューが大人気。ペット同伴OKのテラス席もあります。 ●電話番号 0744-52-4771●営業時間 11:00 - 16:00 L.O. 15:30●定休日 木曜日●公式SNSはこちらhttps://www.instagram.com/cafe_noco_noco_/

すこ。

土佐街道筋の古民家で営まれているスコーンが主役のカフェ。店の名前の由来にもなっている手作りのスコーンとヘルシーなランチプレートは完全予約制の人気の一品。そのほかにも手作りスイーツもまたいろんな触感を楽しめるのでおすすめ。 ●電話番号:050-3188-1628(予約可能)●営業時間 10:00〜テイクアウト 11:30〜14:00(ランチ) 14:00〜16:00(15:30 L.O)(カフェタイム)●定休日 第一第二火曜日、第三第四木曜日 その他不定休あり●公式SNSはこちらhttps://www.instagram.com/suco_maru/

やまと吉永

土佐街道沿いの古民家を改装した落ち着いた店内で日本酒や創作料理を楽しめる古民家居酒屋です。ランチメニューと夜のディナーの両方を楽しむことのできる町内でも数少ない飲食店です。 ●電話番号 0744-52-1008●営業時間 ランチ 11:30~13:30(要予約) ※火曜日はランチ無し ディナー 17:00~22:00(予約可)●定休日 月曜日

点心カフェ 花水土香

5月から10月までの期間限定で営まれる点心と台湾茶を楽しめる小さなカフェ。皮から手作りの点心やおいしい台湾茶のほか、イチゴ農家であるオーナーが作ったイチゴを使ったスイーツを楽しめます。 ●電話番号 0744-47-4247(一部料理は要予約)●営業時間 11:00〜16:00 (5月から9月までの土日月のみの営業)●定休日 火・水・木・金 10月頃〜4月下旬頃(苺の繁忙期)●公式サイトはこちらhttps://hanamizuka.com/

そば切り麓香庵

土佐街道から登り壷阪寺へ続く道沿いの民家で休日限定で営まれている手打ち蕎麦を楽しめるお店。趣のある店内で温蕎麦やざる蕎麦をいただくことができます。 ●電話番号 0744-52-2206●営業時間 11:30〜14:30(土日のみの営業)●定休日 月~金

大淀・吉野方面へ向かう国道169号線沿いに佇むミシュランにも紹介された人気のうどん店。手作りの麺を使い、店主のこだわりを感じさせる上品な味わいの出汁が魅力の一杯です。 ●電話番号 0744-52-4332●営業時間 ランチ 11:30〜13:30 ディナー 18:30〜20:00(日曜日・祝日は18:00からスタート) 麺切れ時は早く終了●定休日 月曜日

土佐街道から登り壷阪寺へ続く道沿いの池のほとりに佇む薬膳料理の楽しめるお店。景色と落ち着いた店内で味わう薬膳弁当は絶品。 ●電話番号 0744-52-2289●営業時間 月・水・木・金の場合 11:30〜14:30 ランチ 17:00〜21:00 ディナー 土曜日・日曜日の場合 11:30〜21:00●定休日 火曜日

燻し鯖寿司 万松

店主こだわりの燻し鯖寿司は奈良県産のヒノヒカリと、五島列島のブランドさばの中で厳選された物を吉野桜のチップでスモークし、冷凍熟成させた鯖を使った極上の一品。商品は予約販売のみのため、必ず来訪する前日までにお問い合わせください。 ●電話番号 090-5654-4049 または 0744-52-2288●営業時間 10:00〜20:00 (予約販売のみ)●定休日 不定休●SNS FaceBook

甘み処ゆすら梅

店主こだわりの四季折々のテイストを加えた、ふわっとしたかき氷が楽しめるかき氷店。季節に応じて、かき氷以外のメニューもご用意。古都の風情を感じながらお食事をお楽しみいただけます。 ●営業時間 12:00-16:30●定休日 火曜日・水曜日●SNS Instagram

Ma Maison n°8

高取町のチャレンジショップで2024年2月からオープンしているお店。丁寧に作られたローストビーフ丼や煮込みハンバーグのほか、こだわりのスイーツを楽しむことができます。 ●電話番号 080-9682-7692●営業時間 11時00分~16時00分●定休日 土曜日●公式SNSはこちらhttps://www.instagram.com/ma_maison_no.8

retro café Bikke

駅から降りてすぐのところにある週末だけオープンしている民家を改装したカフェ。ケーキとコーヒーを楽しめます。 ●電話番号 0744-33-9618●営業時間 12時00分~16時00分(金曜日・土曜日・日曜日の営業)●定休日 月曜日・火曜日・水曜日・木曜日●SNS Instagram

高取の出入り口の一つ、壺阪山駅を降りてすぐのロータリー内にある大衆食堂。うどんからにゅう麺やかつ丼など豊富なメニューが魅力です。 ●電話番号 0744-52-2238●営業時間 10時00分~17時00分●定休日 水曜日・木曜日

寺社寺社

壷阪寺

創建は大宝3(703)年、西国三十三所観音霊場の第六番札所として古くから信仰を集め、清少納言からも霊験あらたかな寺として称えられ、寛弘4年(1007年)には左大臣藤原道長が吉野参詣の途次に当寺に宿泊している。お里・沢市の夫婦愛をうたった人形浄瑠璃『壺坂霊験記』の舞台でもある。境内にはインドで行っているハンセン病患者救済活動への尽力に対する返礼として、インド政府から贈られたレリーフや石仏像があり、春になると境内の桜が満開を迎えることで見ることのできる桜大仏は観光スポットとして人気である。 ●公式サイトはこちらhttp://www.tsubosaka1300.or.jp/

光雲寺

南北朝時代初期の貞和2(1346)年に興雲寺と称し、越智氏の菩提寺として建立されたのが始まり。その後、室町初期の文安3(1446)年に復興開基されて繁栄するも、天正年間に越智氏の没落で衰退。元禄11(1698)年に再興してからは寺号を光雲寺と改めた。本堂は県の重文に指定されており、山門前には樹齢1000年近い厄除け杉がそびえる。 ●公式サイトはこちらhttp://www.kouunzenji.jp/index.html

子嶋寺

壺阪寺に次ぐ古刹。創建については諸説あるが、寺伝では孝謙・桓武天皇の病を癒した報恩大徳により、天平勝宝4(752)年に開かれたとする。一時は21坊もの伽藍を誇り、大和国の観音霊場として信仰を集めた。山門は高取城二ノ門を移築したもの。子島曼荼羅の通称で知られる国宝「紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅図」は、日本三大曼荼羅の一つ。 子嶋寺は金剛峯寺を本山とする、高野山真言宗の寺院。本尊は大日如来である。当初は寺号を子嶋山寺と名乗り、平安時代の中期以降からは観覚寺、江戸時代には子嶋山千寿院と称した。現在の子嶋寺へと名を改めたのは、山門に高取城二ノ門を移して再建された明治36(1903)年のこと。二ノ門は唯一現存する高取城の建造物であり、極めて貴重な遺構が山門に存在することは、寺が本多・植村氏ら高取藩主の厚い庇護を受けていた史実の裏付けとも見て取れる。延暦14(795)年に報恩大徳から2代目を継いだ延鎮は、山城国(京都)東山の霊場で修行中に坂上田村麻呂と出会い、後に2人で東山に清水寺を建立したことが『扶桑略記』に記されている。清水寺を末寺に置く子嶋寺は以後、坂上田村麻呂の蝦夷征伐と清水寺の縁起を描いた謡曲「田村」の発祥地として有名に。奈良国立博物館に寄託された国宝曼荼羅の他、国指定の重要文化財「木造十一面観音立像」は東京国立博物館が保管する。

光永寺

街道沿いにある寺院。境内には、もてなしの場の装飾として作られたとされ、明日香の宮殿を訪れたペルシャ人の顔とも言われている「人頭石」があります。人頭石は門の内側にあるので、閲覧希望の方は境内住職までご連絡ください。 ●電話番号 0744-52-2967●公式サイトはこちら

波多甕井神社(はたみかいじんじゃ)

平安時代の法令集「延喜式」神名帳に記載がある、高取町で唯一の由緒ある式内大社(しきないたいしゃ)。『続日本記』などによると、神護景雲4(770)年には存在したとされる。下方の井戸谷にある、清水の湧き出る井戸が地元の水甕(みずがめ)として使われてきたため、甕井(みかい)神社と呼ばれる。文化庁が認定する高取町の「日本遺産」。

常楽寺

奈良の昔話として語り継がれる「身代わり地蔵」は、谷田地区の常楽寺に安置されている。かつての村には寺の年貢米を育てる田があり、上と下で半分ずつ田を世話する作人が2人いた。ある夜、下の作人が自分の田から水を盗んでいると疑った上の作人は、夜の山で待ち伏せして怪しい人影に矢を放つ。翌朝、寺を参るとその矢は地蔵に突き刺さっていたという。10枚ほどの小さな田があった池の谷は水利が悪く、上の田に比べて下の田はいつも水不足だった。それにも関わらず、信心深い下の作人は、上の作人より多くの米を寺に納めていたという。日照りが続いたある年の朝、上の田には水がないのに下の田だけは一面に水が満たされていた。上の作人は、下の作人が夜な夜な水を取っているに違いないと思い込み、弓矢を持って夜の山で待ち伏せる。すると、上の田に来る人影が見えたので矢を放ち、手応えを感じて家路についた。翌朝になって田を見に出た上の作人は、下の作人が元気に働く姿に驚く。上の作人は昨夜の話を詫び、2人で参った寺で横に倒れた地蔵を目にする。その肩には折れた矢が突き刺さっており、それ以来地蔵は「身代わり地蔵」と呼ばれるようになった。今も地元の人々によって守られている木造地蔵菩薩立像は、奈良県教育委員会が行った平成25(2013)年の調査により、制作は平安時代の中期と判明。貴重な古像として注目を浴びる。 ●公式サイトはこちらhttps://sightseeing2.takatori.info/jyourakuji

因光寺

浄土真宗の妙好人(みょうこうにん、信仰の厚い人のこと)として、称えられた清九郎が生誕した地であり、因光寺は菩提寺とされます。敷地内には銅像や清九郎にまつわる資料を公開している記念会館があります。

街道街道

土佐街道

高取藩2万5千国の城下町として栄えた高取町のメインストリート。当時は500軒もの商家が軒を連ねたといい、今も低い軒先に連子窓といった古い家並みの随所に往時の繁栄ぶりを偲ぶことができる。両脇に水路が流れる町筋の石畳には阪神淡路大震災の復旧工事で出た石が活用され、ところどころに埋め込まれた薬草タイルを見て歩くのも楽しい。街道に土佐の名が付く由来は、飛鳥時代の初期にまで遡る。大和朝廷の都造りに駆り出された土佐(高知)の人々が帰郷できず、この地に住み着いたことが起源とされている。土佐の名は古くから住民に愛着がもたれており、明治22(1889)年に町村が合併した際には「高取」か「土佐」かで村名が争われたほどである。高取山を正面に望む細長い城下町は、現在の上土佐と下土佐を中心に発展。寛永7(1640)年に植村氏が藩主となって以後、山城での生活は不便と藩主や家臣の屋敷は街道筋に移された。ほとんどが平屋の商家と町家は、2階部分を屋根裏程度の空間に留めた「つし2階建て」。殿様を見下ろさないよう虫籠窓が設けられ、家々の隙間は壁で塗り込めたり、板を張って行列を襲う者が忍ぶことを避けた。城下町の風情を一層高める石畳は、平成7(1995)年の震災後に行われた復旧工事の際、大量に出土した阪神国道線の敷石。埋め込まれたタイルには9種の薬草が描かれ、薬の町としても賑わった高取の歴史を伝えている。 ●公式サイトはこちらhttps://sightseeing2.takatori.info/tosakaidou/

公園公園

松の門(高取児童公園)

土佐街道沿いにある旧小学校跡の公園。入口にある松の門はかつて高取城にあったものを移築していたが、昭和19年の火災で一部消失、その後残存部を用いて復元したもの。街道の散策や城跡へのハイキングの休憩スポットにもなり、毎年11月23日にはこの公園で火縄銃や殺陣の披露が行われる。

上子島沢砂防ダム公園

高取川の上流、ちょうど高取城への入口に当るところにあり、ハイキングシーズンには高取城へ上る際の最初の休憩地点として休憩されています。敷地にある桜は毎年開花すると公園内を美しく彩る隠れスポットです。 ●公式サイトはこちらhttps://sightseeing2.takatori.info/saboukouen/

施設施設

くすり資料館

観光案内所の裏にある蔵の一部を改造して作った配置売薬や製薬の資料を展示した施設です。はるか昔に製薬につかった道具のほか、レトロな薬のパッケージや看板を展示しています。 ●公式サイトはこちらhttps://sightseeing2.takatori.info/kusuri/

石川医院(藩主下屋敷門)

石川医院は今から250年以上を遡る江戸時代の享保年間より高取藩の御殿医として仕えた歴史があります。施設は高取藩主下屋敷の表門が移築された重厚な建物で、現在も皮膚科疾患の診療を行う診療所として町外からたくさんの人が訪れます。 ●公式サイトはこちらhttps://ishikawaiin.jp

植村家 長屋門

長屋門は近世の上級武家屋敷の門形式の一つで、使用人や家臣を住まわせる長屋を左右に構えた門のこと。植村家長屋門は文政9年に建てられた高取藩筆頭家老の屋敷門。40m近い間口、一重入母屋瓦葺き造り、なまこ壁が重厚感を漂わせ、奈良県の重要文化財に指定されています。現在は旧藩主上村氏の子孫の居宅の一部で、外部見学のみ可能です。 ●公式サイトはこちらhttps://sightseeing2.takatori.info/uemurake/

宿泊施設宿泊施設

民家を改修して作った町内唯一のゲストハウス。レンタルスペースや各種体験も実施。 ●電話番号 090-6967-7718 ●公式サイトはこちらhttps://ghume1111.com/

店舗店舗

観光案内所『夢創舘』

城下町の観光の拠点として、大正時代に呉服屋として栄えていた旧山崎邸を改修し、平成14年にオープンした高取町観光案内所「夢創舘」。高取町の観光情報の提供やお土産の販売をしています。100名城スタンプや城カードもこちらにあります。高取城跡への行き帰りや街並み散策の憩いのスポットとして、土佐街道に訪れた方に喜ばれています。 ●公式サイトはこちらhttps://sightseeing2.takatori.info/musoukan/

ルートルート

紀伊国(和歌山・三重方面)へ続いた古代幹線。この沿線上に古墳や寺院・瓦窯跡などが見つかっている。 ●公式サイトはこちらhttps://asuka-japan-heritage.jp/jitou/spot/紀路(巨勢路)/