あるいてみつける豊岡復興建築群

豊岡の街並みについて 豊岡はもともと、神武山の麓を中心にした小さな城下町(陣屋町)でした。 1925年5月23日午前11時9分57秒、円山川河口付近を震源地とするマグニチュード6.8の直下型地震が突然襲います。お昼前だったこともあって焼失した家屋も多く、市街地の7割が被災しました。当時、町域を北側に拡げて近代的な都市にするため、円山川改修や丹後鉄道建設、上水道の敷設などとともに、都市計画(区画整理)を打ち立てた「大豊岡構想」を実現し始めたばかりでした。 おりしも関東大震災から2年後。国や兵庫県からの指導助言もあり、近代化を推し進めていくとともに火災に強い建物を増やすため「震災復興建築」を鉄筋コンクリート造で建てることにしました。駅通り(大開通)の中央に、シビックセンターとして町役場・警察署・郵便局・税務署・消防署などの公共施設を集めました。このうち町役場は「豊岡稽古堂」と名を変えて今も残されています。さらに、民家にも鉄筋コンクリート造の建物を建てさせようと、「防火耐震家屋建築に対する補助」制度を創設して建築延べ面積1坪につき50円を補助しました。この時、48人が手を挙げたということです。 豊岡中心市街地には、豊岡駅から北東に向けて斜線道路(寿通り)と、道路幅の広い格子状道路が走っています。また、大開通や町のあちこちに鉄筋コンクリート造の震災復興建築が残っています。鉄筋コンクリート造の建物の隣には、タイルを貼ったり、漆喰を塗ったり、軒下に銅板をかぶせたり、うだつを建てたりした防火の意識の高い木造建物も並んでいます。
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復興建築

震災後、5軒長屋として建設された2 階建ての店舗併用住宅。現在はそのうちの西側から3軒が残っている。2007 年(平成19)頃に東側の2軒(山下仏具店・今井歯科医院。山下仏具店は大開通り北西側に移転。今井歯科医院は廃業)が除却されたものの、RC 造の柱が残され長屋を構造的に支えている。 唐破風型のパラペットやアーチ窓、八芒星(はちぼうせい)のレリーフなど当時のモダンなデザインを今も見ることができる。

震災から3年後、まちのシビックセンターをつくる構想のもとに便局庁舎、警察署庁舎に次いで、1928年1月に豊岡町役場新庁舎として竣工された。2階建のコンクリート造で建設された。設計は原科準平、施工は大阪橋本組。 1952年豊岡町から豊岡市となった2年後に、木造で3階建に増築される。2005年に現在の豊岡市(1市5町が合併)が誕生した際には、曳家で建物を25m南側に引出し、その後ろ側に新市庁舎を作り現在に至る。「豊岡市稽古堂」と名付けられているのは豊岡藩校の名称であった稽古堂が由来。1階ロビーは展示・イベントスペースとして使われ、2階は市議会の議場に、3階は会議などの市民のスペースとして使われている。

2戸1軒の長屋で建てられた鉄筋コンクリート造3階建の店舗兼住宅。それぞれの間口が異なっているため、向かって左手の建物は2階の窓が4つ、右は3つになっている。同じく3階は左4つ、右1つで、窓の幅も異なっているが、窓の高さを揃えて連続性を持たせる工夫が見られる。

土蔵造を模して造られた木造瓦葺2階建の建物。間口が広くとられており、元商家として建てられた純和風の建物である。軒下周りに段をもうけて銅板で巻き、腰下には石を回し、屋根にはうだつをあげて両脇に袖壁を配すなど、防火意識の高い建物でありながら、商家らしい重厚な建物に仕上げられている。

公設市場の道を挟んで東側にある鉄筋コンクリート造2階建の震災復興建築。公設市場側の西角には塔をあげ、その各壁面に分銅型の木製飾りを付している。また、大開通りに面する軒下には福々しいえびす面も配しており、文字どおりこの建物の顔になっている。見ると思わず笑みが溢れるが、商売繁盛を願ったのであろうか。

2戸1軒の長屋形式で建設された、鉄筋コンクリート造2階建の震災復興建築。現在は橋本結納店となっているが、当初は南北のそれぞれが所有していた。 1階部分は改修によってかなり改変されているが、2階窓などに当初の装飾が残っている。間口が異なるため、よく見ると窓幅を変えて違和感が生じないように工夫している。3つ並んだ上げ下げ窓の間に立てられた柱のU字型断面形状が特徴的である。
RC造 耐火建築の住宅
復興建築

元町通の角に建つ鉄筋コンクリート造2階建の復興建築。当初は商店だったが今は住宅へと改修されており、隅切りされた形に昔の面影を見ることができる。震災復興当時の書類のいくつかが残っており、1930年(昭和5)の竣工だったことがわかる。 震災前は自転車屋を営み時計などの精密機械の修理も行われていたそうで、被災した懐中時計や古銭なども大切に保管されていた。
RC造耐火建築の住宅
復興建築

鉄筋コンクリート造3階建の震災復興建築。1階の店舗部分は改修されており当初のようすを伺えないが、2階および3階は、ほぼそのままで残されている。 3つ並んだ上げ下げ窓の間に立てられた柱のU字型断面形状が、通りを挟んで建つ橋本結納店とよく似ており、同じ設計者によって建てられたものと考えられる。

社屋は木造瓦葺2階建の建物であるが、前面をタイル葺し腰石を貼って防火対策をとっていることがわかる。玄関の軒角を丸く処理して円柱で支える形状にするなど、モダンな建物に仕上がっている。 また隣接する住居は同じく木造であるが漆喰塗りの和風建築とし、2階の南東隅には袖壁を付して銅板で覆い、重厚感を持たせている。

震災以前はここに警察署があった。震災後に中江種造が自身の社交場として京都の料理人を呼んで、松和亭という料亭をこの場所に開いた。当時目の前には付け替えられる前の円山川が流れ、眼下には「宵田いと」があって、船着場や物流拠点にもなっていた。 のちに料理人であった和田兵助(ひょうすけ)が、見世物として「とど」をはく製にして飾ったことから、「とゞ兵」とあだ名で呼ばれるようになり、それがそのまま屋号になった。 現在はその名を引き継ぎ、鉄筋コンクリート造の建物には鞄店が、またイベントスペースやカフェ、飲食店などが入る複合施設になっている。

鉄筋コンクリート造3階建の震災復興建築。1階の店舗部分はかなり改修の手が加わっており往時のようすを伺うことはできないが、2、3階のシンメトリーに配された上げ下げ窓や、屋根に掲げられた両脇に巻き物のような意匠を携えた看板などが特徴的な建物である。 昭和中期くらいまでは宵田通りに3階建の鉄筋コンクリート造の建物が軒を並べていたが、現在では残り少なくなった復興建築の一つである。

創業100年を超える老舗のクリーニング店で、震災以降、南側(右)の店舗で営業していたが、近年、北側の店舗も入手して改修し、鞄専門のクリーニング店としている。 南側の建物は木造瓦葺2階建で看板建築風の建物、北側は鉄筋コンクリート造2階建である。この建物はアーケードで隠れているが、壁面に意匠が見え隠れする。改修の際には二つの建物の雰囲気を合わせるように工夫されている。

間口約60m×奥行約6mの11軒が一体で建築された震災復興建築。11軒の店舗がそれぞれ個性的な外観で、昭和初期の趣をもつ商店街のイメージを印象づけている。11軒の中には建築当初のイメージを崩さないよう、新たなレリーフや看板文字、日よけカバーなど、外観を調和させて改修した店もある。
旧兵庫縣農工銀行豊岡支店
復興建築

震災復興がほぼ成し遂げられた1934年(昭和9)に建てられた銀行建築で、設計者は商船三井ビルや綿業会館などで知られる渡邊節。施工は合資会社清水組(現清水建設」)。外壁はタイル貼りで腰および四隅を石貼りにしている。正面に壁柱を並べ、重厚な外観をもつ。 長らく銀行として利用されていたが、豊岡市の所有となり2014年にオーベルジュとして改修された。1階吹抜けは結婚式や音楽会場としても活用されている。

大正14年の北但大震災後、復興事業として建築され、木造の市場としては日本最古とされている。南北70mに連なった店舗は古くから市民の台所として親しまれた。 2003年(平成15)にアーケード形式の合掌造り、敷石、のれんなど町屋風に改装された。昭和の中ごろは、通路をすれ違うのに買った物を頭の上に持ち上げなければならないくらい賑わっていたが、後継者不足などで一時店舗数が減少していた。最近では昭和レトロを求めて移住する若者たちが入店するなど、賑わいを戻しつつある。

大正ロマンあふれる建物の中でも、特に個性を放っている鉄筋コンクリート2階建の震災復興建築。縦長の段窓と化粧柱を連窓で正面に配置する復興建築の共通したデザイン様式と、その上に載せた「鈴」と「木」のモチーフを配したシンボルは、圧倒的な存在感で建物に調和して、この時代のエネルギーを感じさせる。 震災直後に起きた火災から町を守れなかったことを憂いた消防団長が、防火帯としての役割を持たせようといち早く建設を申請したと伝えられている。
中江種造翁像とロータリー
復興建築

豊岡駅から北東にのびる寿通りのほぼ中央に位置し、大正時代にパリのエトワール広場を参考に造られた。日本では数少ない信号のないロータリー交差点で六叉路になっている。 中央部の公園には上水道建設費を全額寄付し、まちの発展に大きく貢献した中江種造翁の銅像が建てられており、近代化へ進む転換期の一端がうかがえる。

1927年(昭和2)に芝居小屋として建てられた鉄筋コンクリート造の復興建築。八芒星のレリーフや外観の意匠に当時の面影が残る。 80 年以上親しまれてきた映画館であったが2012年に閉館。しかしながら閉館を惜しむ声が多く、2014年に地元有志により復活プロジェクトが立ち上がり再開した。 現在では映画上映だけではない、新しい場としても活用されている。

昭和初期に但馬貯蓄銀行本店として建てられ、その後銀行支店を経て労働基準監督署として使われてきた。漆喰壁と和瓦の和風建築に洋風建築を組み込んだ折衷様式で袖うだつや軒下、ギリシア風の化粧柱などの意匠が当時の姿を伝えている。 2012年 (平成 24)からは1階を医院、2階をギャラリーとして利用されている。

震災復興を象徴する建築で、兵庫県における鉄筋コンクリート造建築の黎明期をつくりあげた代表的な建物のひとつ。3戸は1軒の建物として造られたが、それぞれに意匠を凝らした装飾窓や軒下飾りがみられる。 建築申請時の書類を大切に保管されており、その図面には設計者(あるいは建設者)の小谷豊吉という名前が残されている。図面から、木造を挟んで東側の2戸1軒の建物も同じ設計者が手がけたものであることが判明した。

3階建の鉄筋コンクリート造の震災復興建築。1928年(昭和3)完成。正面や側面の壁には石積みの目地を表現しているのが特徴で、2階の窓上部も円形窓を意識した石積みを表現している。3階中央の窓の上には羽ばたく鶴を正面から描き、その下部にSKを付したメダリオンを配している。これも左官技術のひとつである鏝絵(こてえ)によって整美に表現されている。よく見ると、細部に左官職人の心意気を感じ取ることができる。 つるやの屋号は、建設時に施主の祖母の名前からとったとのこと。

11軒長屋に隣接して建てられている鉄筋コンクリート造2階建の震災復興建築。中央を高くし、壁の表面を縦方向の凸凹にして縦のラインが強調されるようなデザインとしているのが特徴。震災前にすでにあったともされている。

木造の長屋を挟んで西側の3軒長屋と同じ設計者が建てた2戸1軒の鉄筋コンクリート造の2軒長屋。二つの長屋は軒高を揃えていることがわかる。 こちらの建物には3軒長屋のように装飾窓ではなく、メダリオンを配しているのが特徴。西側の建物には正方形を二つ組み合わせた八芒星、もう一方の建物には菱形を配している。軒下飾りも異なった形を採用するなど、それぞれの意匠の違いを楽しむことができる。

豊岡市街地の北東、いわゆる鬼門に位置する曹洞宗の寺院。震災によって本堂は倒壊、付属の建物はすべて焼失した。『元禄十五年豊岡城下絵図』(1702年)によると、北・東・南には堀が設けられていたことがわかる。 震災前から進められていた円山川改修工事によって、養源寺周辺の小田井区民の大半は移転することになっていた。その中で起きた震災では被災を免れた建物もあったため、小田井神社までの南北道路、すなわち養源寺境内を貫く直線道路を敷設することを移転同意の条件にした。この工事の調整はかなり難航したようだが、道路は完成をみた。

