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笠ノ原基地一帯の戦争遺跡
弾薬庫(民家として現存)を囲むコンクリート塀に多数の機銃の弾痕が残っています。(安藤広道) ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2018年3月14日
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川東掩体壕(鹿屋市指定文化財)
「掩体壕とは、敵機の空襲等から飛行機を守るために作られたコンクリート製の格納庫のことです。 この掩体壕は笠野原基地で使用されたもので、戦時中は零戦が入っていたと言われています。」・所在地:鹿屋市川東町8206-5・駐車場:あり・トイレ:なし(鹿屋市「鹿屋に残る戦跡」より引用) 「掩体壕とは、戦闘機等を敵の爆撃から守るために建設されたもので、コンクリート製でかまぼこ型のものが多い。笠野原基地では200基余り建設されたが、この掩体壕が当時の姿を残す唯一のものである。戦争の記憶や笠野原に航空基地があったことを後世に伝える貴重な戦跡である。(平成27年6月26日指定)」(鹿屋市「鹿屋市内の県・市指定文化財一覧」より引用) ※画像をクリックしてください。360度画像のポップアップウインドウが開きます。 ・さらに画面をクリックし、右下に現れるメガネ型アイコンを選択すると、PCでは全画面表示に、スマホではVR画面に変わります。 ・VR画面にしてからスマホをVRゴーグルに設置するとVR視聴が可能です。 鹿屋よかとこ探訪『【Part4】残していきたい記憶~鹿屋に唯一残る『川東掩体壕』~』2020年8月13日 ※画像をクリックしてください(Youtubeに飛びます)。 『行きたい♪が見つかる かごぶら!』 「川東掩体壕」 『ニッポン旅マガジン』 「川東掩体壕」 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2022年2月23日 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2016年12月4日 ・『福岡発‼九州観光ガイド』 鹿屋市笠野原周辺の戦争遺跡 2017年6月17日 ・『黒しばわんこの戦跡ガイド』 鹿屋市川東町に残る「川東掩体壕」 2021年2月22日
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笠ノ原基地地下道入口跡
「笠野原飛行場は、大正11年に大刀洗陸軍飛行場(福岡県)の離着陸用の民間飛行場として誕生しました。 昭和20年3月18日以降に米軍による集中爆撃を受けると、格納庫を始めとする基地施設は大きな被害を受けました。 東西・南北に一本ずつ滑走路が伸びていましたが、終戦後に払い下げられ、現在は地下道入口が残っているのみとなっています。」 ・所在地:鹿屋市笠之原町(笠野原小学校から南へ300m)・駐車場:なし・トイレ:なし(鹿屋市「鹿屋に残る戦跡」より引用) ・『黒しばわんこの戦跡ガイド』 鹿屋市笠之原町に残る「笠之原飛行場跡地」 2021年4月12日
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滑走路縁石の発掘調査
・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2018年12月19日
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神雷部隊の出撃
「三月二十一日の一式陸上攻撃機。畑に上がって木の上で、桜花を胴体に積んだ一式陸上攻撃機を見た。ゼロ戦は笠野原基地から回りながら上昇していき、一式陸上攻撃機と合流した。一式陸上攻撃機は鹿屋基地のほうからまっすぐ飛んできて、一直線で東に行った。ゼロ戦が衝突して一機墜落した。その日は全機帰らなかった。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、16頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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笠之原の空襲
「昭和20年3月頃、空襲が始まってから、高山の笠野の杉林(笠野交差点から串良方面へ300mほど)に机を並べ、7〜8軒の12〜13人で勉強をした。防空壕は4〜5か所あり100軒くらいで使っていた。家に掘った防空壕は、入口をたてに掘り、直角に横穴が掘ってあった。一坪くらいはあったと思う。 空襲警報が鳴ったら笠之原から壕まで約1km、必死で走った。自分たちを追いかけているような気がしたが、実際は狙われなかった。でも、グラマンが追っかけるようにきて側溝に避難したことがある。 現在の長﨑内科のあたりに70〜80軒位の住宅があり、焼け残ったのは5~6軒だけだった。家に帰ってみたら家は焼けてなくなっていた。飛行機のエンジンを保管する石造りの倉庫があったので、そこを狙ったのではないかと思う。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、16頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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笠之原基地の塔とその北の地下室
「あの塔が滑走路までつながる地下トンネルヘの入り口だったというのは誤りだろうと思う。軍関係者以外は誰も中に入った人はいないのだから。終戦前そんな技術と資材があったとは考えにくい。塔と道路を挟んで北側に地下室があったのは、私が確認している。地下の部屋は広さが十畳くらいだった。 戦後、私たちはめぼしい物を探すために地下室の中に入ったが、トンネルはなかった。米軍が爆破して、地下室はぺちゃんこにへこんでしまった。戦争中、町内会と軍人さんで運動会を滑走路でやってたが、そのころはあの塔はなかった。だから、終戦間際にできたのだろう。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、7頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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笠野原国民学校の兵隊宿舎
「学校(笠野原国民学校)には兵隊の宿舎が二棟あり、飛行機の整備員もいた。その南側に格納庫があった。住民は、飛行機が暖機運転をするのを見ていたものだ。国民学校の三分の一は兵隊の宿舎だった。学校の南には守衛さんがいた。守衛さんがまだ来ていない早朝に笠之原の住民は、飛行場の草切りに行っていた。 兵舎は矢野隊と前田隊で、機関銃隊と高射砲隊であり、それぞれ隊の炊事場を宿舎の後ろに持っていた。宿舎は杉の皮をかぶせて敵の目をごまかしていた。 国民学校で豚を養っていたので、笠野原国民学校の高等科の人たちは、残飯もらいに手車を押して行った。衛門を通るときは敬礼していた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、7頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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鹿貫谷の地下壕群
「われわれは川東の田んぼに行くのに、基地の東側の谷沿いの道路を通っていた。この東側の谷が「鹿貰谷」である。今の寿光園の東側の谷には、がけに壕がたくさん掘ってあった。最近、ソーラー発電施設ができた場所付近である。基地の東の端は、数年前がけ崩れがあり車の転落事故があったところだ。そのとき、がけにコの字の壕が見つかった。鹿貰谷には水源地があった。その北側には病院があった。また、近くの大きな壕には食料がたくさん入っていた。病院などは軍の施設だから、誰も入れなくて見た人はいないが、農学校の生徒で肥え汲みに行った人は知っている。壕を掘ったのは朝鮮の人達である。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、8頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 「基地は爆撃でほとんど焼けた。鹿貫谷に壕がたくさんあり、兵隊はそこにいた。病院の壕もあった。終戦後、病院の壕にいい箱があったと取りに行ったら遺骨の箱だったそうだ。軍の壕の上が私の家の畑だったので下を見ると、夕方に机を出して飯を食べていた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、16・17頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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笠之原基地のこと
「笠之原基地は航空母艦への着艦訓練用だった。六人が白い襟巻で軍刀を持っているのを見た。 飛行機で吹流しを引っ張って、それを戦闘機で撃つ訓練をしていた。 笠之原の町は空襲で四月三十日に焼けた。 終戦二日前から、軍関係の書類をリヤカーやサイドカーで持ってきて、全部焼いた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、8・9頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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笠之原基地東西滑走路の補修
「小学校五、六年生は毎日奉仕作業で滑走路に石を並べた。元滑走路の北側の道路は、戦後に滑走路のコンクリートを割って、入れて作った。私は光同寺に毎日、釣りや田んぼに行っていた。でも、二本目の南北にあったという滑走路は知らない。滑走路は爆弾が落ちて穴が空いては埋める。穴を埋めてその上に金網を張った。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、8頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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高射砲陣地
「双胴の敵機が毎日来ていた。攻撃は決まったように朝八時か九時に始まり、午後は四時で終わる。それに対して、滑走路の東に前田隊長の機銃の陣地があったが、数はわからない。 昼は何かかぶせて隠してあった。西側の山にもあったが、戦後になって付近を切り開いて農地にされたので場所はわからない。西側の「とぶ迫」に機銃の台座(穴)が四から五個あった。場所は、今の窪田組の物置付近である。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、7・8頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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掩体壕に関する証言
【証言1】掩体壕の思い出 「現在でも川東の畑の中に掩体壕が一つ残っている。掩体壕は朝鮮人が徴用できて造ったものだ。あの掩体壕はまず土盛りをして、その上にコンクリートを流して形を造り、その後で土を外して造った。下面は塗ってない。コンクリート製の掩体壕はまだ三つ、四つあった。コンクリート製でない士盛りのコの字形の掩体壕はいつばいあった。そのうちの―つが私のおじの家の近くにあり、戦後壊しに行った。周りには掩体壕への誘導路があった。 飛行場は全部焼けたので、掩体壕が格納庫だった。掩体壕で飛行機の修理もしており、学校帰りに掩体壕に寄ると、搭乗貝と整備兵がゼロ戦の修理をしていた。同級生の男の子が五人でゼロ戦の整備を見ていたら、搭乗員がお前たちは姉がいるかと聞き、姉がいる子供には小さなキャラメルをくれた。おとりの飛行機をもうそう竹にむしろを巻いて作り、その飛行機は土盛りの掩体壕に置いた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、16頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 【証言2】掩体壕づくり 「昭和19年8月の夏休みには、笠野原の飛行場まで約10kmの道を歩いて、毎日掩体壕作りに行った。南町からは5~6人位だったと思う。朝から夕方まで土運びをした。場所は、今残っている川東掩体壕の近くだったと思う。木が1本もないところだった。トイレは、長い溝が掘ってあり、そこに板を渡し、むしろ(稲わらであんだもの)で仕切ってあるだけの簡単な作りだった。帰りには、田崎小学校の近くの湧水でのどを潤し、一休みして帰った。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2017年、5頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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機銃と修理工場
「高射砲は論地にあった。川東には二連の機銃があった。今の多目的運動場の西側で道路を少し入ったところだった。終戦になったら機銃はなくなったが、機銃の台が残っていて、ぐるぐる回るので子どもが遊んでいた。川東の田畑工業の南側に大きな家があって、ゼロ戦の修理工場になっていた。馬頭観音(葉山どん)の裏に旋盤の施設があり、鉄工所みたいだった。おとりの高射砲もあり、鉄かぶとにわら人形を造り衣装を着せてあった。それにうまくだまされ、グラマンが機銃掃射した。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、17頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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川東掩体壕ストリートビュー
※画像をクリックしてください。 Google Mapのストリートビューがポップアップします。
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笠ノ原基地地下道入口付近
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笠ノ原基地について
【笠ノ原海軍航空基地の概要】 ・1922年に町営笠野原飛行場として設置されました。1925年以降、陸軍・海軍共同で利用されるようになり、1936年に笠ノ原飛行場と名称を改め、1942年に海軍基地になりました。 ・1941年には、この基地で真珠湾作戦の空母着艦の訓練が行われたと言われています。 ・民間の飛行場であったため、鹿屋基地や串良基地に比べ滑走路が短いのが特徴です。そのため小型機の発着が中心となっており、設置された掩体壕も二つの基地に比べて小規模になっています。 以下、八巻聡さんの『鹿児島県の戦争遺跡 航空基地編』(八巻聡2000)より、概要を引用します。 ・建設年:1922年 ・主任務:作戦 ・滑走路: 800×50m×2本(コンクリート) ・格納庫:19446㎡ ・掩体壕: 中・小型無蓋 210基 ・収容施設: 士官220名 兵員2000名 ・工場施設:有り ・教育施設:無し ・送信所・方位測定所:無し ・基地施設: 指揮所・通信所・弾薬庫・ 燃料庫・倉庫 航空基地概要 大正時代に私設飛行場として建設された飛行場である。 その後、軍に使用されるようになり、数々の航空隊が練習に使用した。真珠湾攻撃に参加した第2航空戦隊艦爆隊もこの飛行場を使用していた。 戦争が始まると南方との中継基地となっていた。 昭和20年3月18日の空襲により、格納庫などの基地の施設が破壊され、大きな損害を受けている。 「兵器引渡目録 笠ノ原基地」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08011084100(原資料:防衛省防衛研究所)31・32頁より ※この図と航空写真や現地との対応関係の解明が課題です。(安藤広道) ・桜と錨『海軍砲術学校』「笠ノ原基地」2018年4月29日 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2018年12月22日 ・アメブロ『海とひこうき雲-日本海軍好きのゆるゆる日記です。』 鹿児島の旅 笠之原海軍航空基地跡 2012年8月6日
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海軍笠ノ原航空基地 1945年3月18日撮影
National Archives and Records Administration:243-I-10-55-018-02(鹿屋市所蔵)を一部改変。 ※「海軍笠ノ原航空基地1945年3月18日撮影」アーカイブマップへ
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笠ノ原基地の空襲
以下の地図は、笠ノ原基地の空襲に関する米軍の記録から作成しました。 ただし、笠ノ原基地に対する空襲の全てではありません。 ※画像をクリックしてください。ポップアップウィンドウが開きます ・1945年4月18日 National Archives and Records Administration:341-NM15-217-657-58417より作成 ・1945年4月29日 National Archives and Records Administration:341-NM15-217-670-59187より作成 ・1945年4月30日 National Archives and Records Administration:341-NM15-217-670-59190より作成 ・1945年5月3日 National Archives and Records Administration:341-NM15-217-696-61476より作成 ・合成 ※以上の地図は、地理院地図Vector(試験公開版)より作成