海軍串良航空基地アーカイブマップ

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鹿屋市の戦争遺跡をめぐる公共考古学的研究のため

update date: 2025.04.30

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Number of spots : 29spots

  • 串良基地一帯の戦争遺跡 串良基地一帯の戦争遺跡

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     串良基地周辺には、見学はできないものの、複数の戦争遺跡が残っています。  そのいくつかを紹介します。 【地下司令部壕】  公開されている地下第一電信室に類似した構造と規模をもつ地下壕です。司令部壕と伝えられていますが、実際にどのように使われていたのかは不明です。 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2017年9月16日 【発電室】  発電室と伝えられる構造物が残っています。 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2017年9月16日 【滑走路の舗装のカケラ】  民家の石塀などに再利用されているところがあります。 ・アメブロ『海とひこうき雲-日本海軍好きのゆるゆる日記です。』 鹿児島の旅 串良 甫の木道 2012年8月6日

  • [串良基地]九七艦攻と「天山」の修理。整備を終えた機体は枇榔島を敵基地に見立てて試験飛行。年の近い同僚が帰ってこなかった。兵舎の入り口に「戦死」と書いて弔った。 [串良基地]九七艦攻と「天山」の修理。整備を終えた機体は枇榔島を敵基地に見立てて試験飛行。年の近い同僚が帰ってこなかった。兵舎の入り口に「戦死」と書いて弔った。

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    丸目南兵衛さん(志布志市有明町) 南日本新聞「証言 語り継ぐ戦争」2021年2月14日配信(画像をクリックしてください)

  • 串良基地について 串良基地について

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    【串良海軍航空基地の概要】 ・串良航空基地の建設が始まったのは1943年。戦局の悪化によって航空隊の養成が急務となるなか、新しい飛行場の建設が必要だったのです。 ・1944年4月には、飛行機の搭乗、整備、通信を訓練する串良航空隊が開隊します。しかし1945年になると航空隊の養成は中止され、沖縄戦の航空特攻作戦の出撃基地となりました。串良基地から出撃した特攻作戦の死者は573名に達すると言われています。 以下、八巻聡さんの『鹿児島県の戦争遺跡 航空基地編』(八巻聡2000)より、概要を引用します。 ・建設年:1944年 ・主任務:  作戦・教育(整備) ・滑走路:  1500×50m×2本(コンクリート)、  1200×50m(芝張り) ・格納庫:  15628㎡ ・掩体壕:  中・小型無蓋 48基 ・収容施設:  作戦:士官220名 兵員2000名、  教育:士官250名、兵員9100名 ・工場施設:有り ・教育施設:有り ・送信所・方位測定所:有り ・基地施設:  指揮所・通信所・弾薬庫・  燃料庫・倉庫・魚雷調整場 航空基地概要  航空機の整備員養成を目的として建設され、多くの若者がここで学んでいたが、戦局の悪化に伴い作戦基地へと変わっていった。  菊水作戦の時には大分の宇佐空、兵庫県の姫木空等の各基地から部隊が進出してきており、沖縄戦に参加していった。 「昭和20年10月15日現在 引渡目録 串良基地」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08011083900(原資料:防衛省防衛研究所)19頁より 「引渡目録 (串良地区)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08010901100(原資料:防衛省防衛研究所)3・5・8頁より ※これらの図と航空写真や現地との対応関係の解明が課題です。(安藤広道) ・桜と錨『海軍砲術学校』「串良航空基地」2019年3月22日 ・アメブロ『海とひこうき雲-日本海軍好きのゆるゆる日記です。』 鹿児島の旅 串良海軍航空隊へ 2012年8月6日

  • 滑走路跡の道 滑走路跡の道

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    滑走路跡につくられた道によって滑走路の方向と長さを実感することができます。 ※画像をクリックしてください。 Google Mapのストリートビューがポップアップします。

  • 滑走路の交点 滑走路の交点

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    この場所で2本の滑走路がつながっていました。滑走路跡につくられた道によって滑走路の方向と長さを実感することができます。 ※画像をクリックしてください。 Google Mapのストリートビューがポップアップします。

  • 滑走路跡の道 滑走路跡の道

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    滑走路跡につくられた道によって滑走路の方向と長さを実感することができます。 ※画像をクリックしてください。 Google Mapのストリートビューがポップアップします。

  • 串良基地隊門跡 串良基地隊門跡

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    ※画像をクリックしてください。 Google Mapのストリートビューがポップアップします。

  • 串良の空襲 串良の空襲

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    「家の隣には、探照灯が2基、高射機関銃が2台あった。探照灯の灯が当たるように木は途中から切ってあった。海軍の兵舎も2棟あった。陸軍は通ってきていた。敵機が来れば高射砲で撃つので、家のあるあたりは、町の方より空襲がひどかった。町では、豊栄劇場という映画館に爆弾が落ちた。  空襲は、朝早く、下小原から大坪部落を空襲し、同日続いて岡崎が空襲を受けた。当時は、藁ぶき屋根が多かったので、家がよく燃えた。自宅も裏の方にあった家々も燃えた。瓦葺の家は燃えなかった。」 「高射砲がグラマンを撃ち、グラマンが串良の田んぼに墜ちた。見に行ったら「子どもは来るな」と言われた。大人は畦きりやら藁切りやフォーク等を持って行った。米兵は2人生きていて、家の近くの壕に連れてこられた。部落で掘ったもので兵隊はこの壕には避難しない。壕の上には兵舎があり、炊事場になっていた。米兵は若く背が高くて、けがはなくやけどして顔は赤くしていた。日本人が英語で話しかけていた。夕方には鹿屋に連れて行かれた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、17頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)

  • 大塚山に関する証言 大塚山に関する証言

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    【証言1】防空隊、採石場、朝鮮人労働者 「大塚山の北側には兵隊の宿舎があり、「防空隊」といっていた。 大塚山の東側の麓が岩盤なので、岩に発破を仕掛けて爆破した石をトロッコで航空隊まで運んで行き、滑走路を造った。爆発で危ないので移転を命令された家が何軒もあった。飛行場の工事はほとんど朝鮮人労務者が当たっていた。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、11頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 【証言2】滑走路建設のための採石場 「串良航空隊は東西と南北にほぼ一キロメートルずつの滑走路があった。大塚山の東側の「鹿屋谷の坂」という岩山を砕いて、トロッコで石材を運んで滑走路の敷石にした。 当時は、機械は全くない。あるのはトロッコだけ。トロッコは朝鮮の人達が使った。私の母達も土方に行った。ただ、危険な仕事や重労働は朝鮮の人が担当した。戦後、滑走路は砕いてしばらくはそのままだったが、その後水道線の道路の敷石になった。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、12頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 【証言3】 監視所・重砲陣地・壕 大塚山の山頂は監視所で、下に熊本の積三部隊の重砲陣地があり、中腹には壕があった。また、高野山のお寺もあった。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、13頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)

  • 山下集落の防空壕 山下集落の防空壕

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    「山下集落の人たちは、戦時中は大津に引っ越していた。山下集落には防空壕がいくつもあり、その中に軍の司令部もあった。それで偉い人が来ると、必ず私の家に来られた。私の父は、片方の目の視力が悪くて戦地に行かず、銃後の見守りを担っていた。私の家には特攻兵はもちろん、川端康成、山岡荘八もきていたと聞かされている。桜花の碑を建てた小城久作氏もよく来て、父に当時の様子を聞いていたらしい。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、2頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)

  • 水道線付近の重砲陣地 水道線付近の重砲陣地

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    「重砲陣地は月読神社から航空隊に八幡迫をとおって水道線に上がるところにあり、大砲があった。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、13頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)

  • 甫木地区に関する証言 甫木地区に関する証言

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    【証言1】甫木谷の防空壕 「甫木の谷は防空壕だらけだった。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、13頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 【証言2】甫ノ木の池の上の防空壕 甫ノ木の池の上の防空壕はとても大きいもので、食料倉庫のようだった。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、13頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 【証言3】 特攻兵の思い出 「この近辺には十七、八歳から二〇歳くらいの女性が多かったからか、明日沖縄へ出るという特攻隊員がよく遊びに来ていた。女性たちは布切れで人形を作ってあげていた。人形を二、三個ぶら下げた隊員もいた。その人形をぶら下げるのに紐をつけるが、当時は物不足できれいな紐が手に入りにくかった。ある日、それを知った特攻隊員が落下傘の絹紐をあげるから取りに行こうと、私を連れて滑走路の横を通って、地下通信壕近くまで歩いて行った。通信壕の近くの下の谷の防空壕まで行くと壕は三つあり、その中の―つの壕の中から紐を持ってきてくれた。近くにはパラシュートが干してあった。そのあとは一人で長い距離を歩いて帰った。私が渡した紐で女性達が人形をつるして特攻隊員にあげた。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、14頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)

  • 掩体壕造り 掩体壕造り

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    「飛行機を格納する掩体壕は星ヶ丘の付近が中心だ。滑走路から南の方向にあった。掩体壕は飛行機一機分の大きさで、入り口は互い違いにしてあった。私たちも六年生で掩体壕を造りに行った。その掩体壕は、今はもう残っていない。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、13頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)

  • 串良基地の土盛りの掩体壕 串良基地の土盛りの掩体壕

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    「木製のにせものの高射砲を作って、そばに立つ兵隊もわら人形で作ってあった。土盛りの掩体壕も道路沿いにあった。造ったのは予科練の兵隊。高隈線と滑走路の線の交点あたりに上半身裸でもっこで運んで造っていた。壕がだんだん高くなると、走りこんで上のほうまで運んでいた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、14・15頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)

  • 串良基地の滑走路造り 串良基地の滑走路造り

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    「朝鮮人の宿舎が県道沿いにあった。それは朝鮮飯場だった。合計三百人ぐらいいただろう。滑走路造りにダイナマイトで山を崩す。砕かれた石をトロッコに乗せて、機関車で引いて基地へ運んでいた。彼らは家族と一緒に来ていて、子どももいた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、10頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)

  • 串良基地に関する証言 串良基地に関する証言

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    【証言1】串良基地の思い出 「終戦当時、私は国民学校六年生だった。私の家は飛行場が近く、自宅から山道を通って、二~三分で行けた。からいもや団子を特攻隊の宿舎に差し入れに行った。毎日差し入れに行ったのは私だけ。串良小学校在学中だったが、空襲警報が毎日あったし、軍事演習もしょっちゅうだった。それより特攻隊の人たちと遊んでいたほうがいいと思って行った。隊からの帰りにグラマンの機銃掃射を受けて怖い目にあったこともある。 五~六年生の時に、飛行場に柏原から砂を運んだ。掩体壕は二階建てくらいの高さに土を盛って、木の葉で隠した。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、10頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 【証言2】 串良基地の朝鮮飯場 「近くに朝鮮飯場があった。彼らは我が家の近くで親しかったので、どぶろくをよく買いに行った。場所は自宅のすぐ南側。親切な人たちだった。細山田に田舎芝居の人たちが来てそれを見に連れて行ってくれたこともある。今の日米礦油のところにも、もう―つの朝鮮飯場があった。串良基地は朝鮮の人達と女性を使って造った飛行場だ。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、15頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)

  • 飛び立つ飛行機 飛び立つ飛行機

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    「串良基地の滑走路から飛び上がった飛行機は我が家の上空を、どんどん北の方へ通って行った。私はそれを真下で見ていた。時には馬小歴の屋根に上って見送ったりした。飛行機は頭の上を飛んで、今の細山田中学校の上あたりから志布志湾へ回って行った。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、14頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)

  • 辰喰の兵舎 辰喰の兵舎

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    「戦時中は、「徴用」という言葉―つで軍隊が思うように何でもできるので、持ち主に断りなく航空隊の周辺の林は木材を切られる。戦車橋(林田橋)は宮ノ下の地主の家の持ち山の立木を全部切って、造ったものだ。辰喰の兵舎も、その付近の山をほとんど「徴用」という言菓―つで伐採され造ったもの。馬でさえも、いい馬は徴用馬として、軍に取られた。当時は翼賛体制で、右を向けと言ったら右だけむく。そういう時代だから、何事も一切批判することはできなかった。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、13頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)

  • 串良基地門跡 串良基地門跡

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    「今の串良基地の隊門の石碑のところには、両側の門に兵隊が立っていた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、14頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)

  • 矢柄の兵舎 矢柄の兵舎

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    「海軍の兵舎は矢柄にいっぱいあった。串良中学校は青年学校の跡だが、そこも細山田中学校も上小原中学校も矢柄の兵舎を戦後ばらして校舎を造ったもの。串良商業高校も学校をよくしようと熱い思いで、女の子が瓦を一枚一枚運んで造った。戦後の第一回の運動会は、矢柄の兵舎の跡であった。それは今の串良基地隊門の石碑のあたりだった。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、13頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)

  • 串良航空基地建設時のズリ 串良航空基地建設時のズリ

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     このあたりには、1943年の串良基地建設時の排土によって形成された、半島状の高まりがいくつも残っています(地図の点線の範囲)。こうした痕跡も立派な戦争遺跡です。(安藤広道)

  • 串良基地地下第一電信室 串良基地地下第一電信室

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    「串良基地から飛び立った特別攻撃隊員が突撃前に送る電信を受信していた地下壕です。壕内では現在、音声ガイダンスによるモールス信号の再現など、当時の様子を追体験することができます。」・所在地:鹿屋市串良町有里4963-2・見学可能時間:9時~16時(年末年始は見学不可)・駐車場:あり・トイレ:あり(鹿屋市「鹿屋に残る戦跡」より引用) 「この地下壕は特攻隊員との連絡を行い、最後の通信を受け取っていた場所である。深さ約7m、全長約51m、一番広い通信室は奥行き15m、幅4mあり、 これを主室として通路、小部屋等で構成されている。保存状態も良好であり、戦争の記憶を後世に語り継ぐ貴重なものである。(平成27年6月26日指定)」(鹿屋市「鹿屋市内の県・市指定文化財一覧」より引用) ※画像をクリックしてください。360度画像のポップアップウインドウが開きます。 ・さらに画面をクリックし、右下に現れるメガネ型アイコンを選択すると、PCでは全画面表示に、スマホではVR画面に変わります。 ・VR画面にしてからスマホをVRゴーグルに設置するとVR視聴が可能です。 鹿屋よかとこ探訪『【Part5・最後】残していきたい記憶~通信が途切れた時散っていった若者たち【串良基地跡の地下壕第一電信室】~』2020年8月14日 ※画像をクリックしてください(Youtubeに飛びます)。 『行きたい♪が見つかる かごぶら!』 「串良基地跡の地下壕第一電信室」 『ニッポン旅マガジン』 「鹿屋地下壕第一電信室」 ・Hatena Blog 日刊 おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡) 【鹿児島特攻慰霊⑤】特攻機の敵艦突入無線を受信していた串良地下壕電信司令室2022年8月26日 ・アメブロ『海とひこうき雲-日本海軍好きのゆるゆる日記です。』 鹿児島の旅 串良海軍航空基地 地下壕電信司令室 2012年8月6日 ・『福岡発‼九州観光ガイド』 鹿屋市串良周辺の戦争遺跡 2017年6月17日 ・『黒しばわんこの戦跡ガイド』 鹿屋市串良町有里に残る「鹿屋地下壕第一電信室」 2021年4月14日

  • 大塚山公園 大塚山公園

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    「戦争末期、志布志湾からの米軍上陸に備えた部隊が置かれ、観測等が行われていました。頂上付近の展望所からは志布志湾を見渡すことができます。」(鹿屋市観光協会HPより引用)  八巻聡氏にご許可をいただきましたので、『鹿児島の戦争遺跡(独立混成第98旅団)』の大塚山陣地の説明部分を掲載します。 ※画像をクリックしてください。 Youtubeに飛びます(3Dデータ) 『行きたい♪が見つかる かごぶら!』 「大塚山公園」  志布志湾と反対側の斜面に観測所につながる坑口が残っています。 『鹿児島の戦争遺跡 本土決戦編①』(八巻聡 2005)(Box)  八巻聡氏のご好意により全文をお読みいただけるようになりました(ダウンロードはできません)。

  • 串良基地滑走路2 串良基地滑走路2

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    かつてこの道に沿って東西方向に伸びる滑走路がありました。

  • 串良基地滑走路1 串良基地滑走路1

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    かつてこの道に沿って南北方向の滑走路がありました。(安藤広道)

  • 串良基地の空襲 串良基地の空襲

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     以下の地図は、串良基地の空襲に関する米軍の記録から作成しました。  ただし、串良基地に対する空襲の全てではありません。 ※画像をクリックしてください。ポップアップウィンドウが開きます ・1945年4月21日 National Archives and Records Administration:341-NM15-217-660-58632より作成 ・1945年4月22日 National Archives and Records Administration:341-NM15-217-660-58630より作成 ・1945年4月27日 National Archives and Records Administration:341-NM15-217-669-59178より作成 ・1945年4月28日 National Archives and Records Administration:341-NM15-217-669-59182より作成 ・1945年4月29日 National Archives and Records Administration:341-NM15-217-670-59189より作成 ・合成 ※以上の地図は、地理院地図Vector(試験公開版)より作成

  • 1945年4月25日報告 串良航空基地 1945年4月25日報告 串良航空基地

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    National Archives and Records Administration:341-NM14-217-670-59198(鹿屋市所蔵)を一部改変。※「海軍串良航空基地1945年4月25日撮影」アーカイブマップへ

  • 串良航空基地隊門跡の碑 串良航空基地隊門跡の碑

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     串良航空基地の隊門に建てられた石碑です。

  • 平和公園 平和公園

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    「串良基地から飛び立ち戦死した特別攻撃隊員・一般攻撃隊員を祀る慰霊塔が建立されています。 滑走路跡の2本の直線道路は、桜の名所としても知られています。」・所在地:鹿屋市串良町有里5660-1・駐車場:あり・トイレ:あり(鹿屋市「鹿屋に残る戦跡」より引用) 『行きたい♪が見つかる かごぶら!』 「平和公園」 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2018年7月17日 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2017年10月14日 ・アメブロ『海とひこうき雲-日本海軍好きのゆるゆる日記です。』 鹿児島の旅 串良平和公園 2012年8月6日