登録有形文化財「海老喜」俯瞰図
登米市登米町(宮城県)は重要文化財の登米高等尋常小学校をはじめとして、近代洋風建築や寺社、町家、武家屋敷が織りなす風情から「みやぎの明治村」と呼ばれます。味噌醤油の醸造店「海老喜」は登録有形文化財の歴史ある商家で、伝統的な店舗や住宅に加えて、大きな醸造の土蔵群が町のランドマークとなっています。
update date: 2024.03.24
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作業場
【非公開文化財】天保4年創業の味噌醤油醸造の商家・海老喜に立地する醤油製造の作業場です。敷地の北東側のほぼ中央、味噌醤油仕込み蔵および旧酒蔵という2棟の土蔵にはさまれるように位置します。味噌醤油仕込み蔵の北西側の戸前口、および旧酒蔵の南東側の戸前口を取り込むように和小屋がかけられます。本建物は、味噌醤油仕込み蔵に付属する機能をもちます。味噌醤油仕込み蔵で醸造が行われていたとき、本建物を蔵と一体的に使用し、醤油製造を行っていました。具体的にはこの作業場で、もろみを搾り槽でしぼり、製造された生揚げを火入れによって過熱して醤油とした後、桶で冷却しながら沈殿物を除去し、商品へ瓶詰し、保管するまでの工程が行われていました。現在でもこの作業場内に、木製の搾り槽や杉の樽などの伝統的な用具が残され、用具や空間構成から醤油製造の工程をうかがうことができます。
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蔵の資料館(旧酒蔵)
天保4年創業の味噌醤油醸造の商家・海老喜に現存する5棟の土蔵のひとつです。海老喜の敷地の北側に立地して、当初は、酒蔵として造営されたものです。海老喜ははじめ、天保4年に味噌醤油醸造で創業し、敷地北東に現存する味噌醤油仕込み蔵を建てます。次いで酒造にも着手し、酒蔵として本建物を建てます。現在は「蔵の資料館」として酒造業や海老喜の歴史を観光客へ伝える展示施設として活用されています。土蔵造り、切妻造り妻入り、桟瓦葺き屋根で、桁行11間、梁間4間の大きな規模です。南東面に戸前口を設け、作業場へと続きます。桁行3間の規模で二階の床を張り、ここに松尾神社の酒神を祀る神棚がしつらえられます。この二階部分は神聖な場所です。北西側の外観では、庇を出して片開き土戸の小窓を開けます。鉄板葺きの庇を出し、二段の腕木が設けられて、その間に木瓜型に板を彫り込んだ板をはめます。渦紋・繰形が施された持ち送りがこの腕木を支え、これらの意匠を凝らした構成は隣接する文庫蔵と類似します。また切妻造り屋根の垂木を故意に隅扇に処理し、大工が自らの技を誇る外観が表現されています。建築年代を物語る史料は発見されていません。けれども6尺の柱間、直材の梁による架構は同規模の味噌醤油仕込み蔵よりも新しい形式とみなせます。ただし、架構で桁行梁が用いられないこと、隅扇の外観意匠など、明治25年の旧醤油仕込み蔵より古い形式ともみなせます。よって、江戸時代末期の建築と推定されます。庇まわりの持ち送り彫刻との類似から、文庫蔵と同じ大工の可能性もありえます。通り側で隅扇垂木の手法がみられること、文庫蔵、旧醤油仕込み蔵とあわせて三棟の土蔵が連続した景観を形成するなど、景観的な価値も高い文化財です。
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味噌醤油仕込み蔵
【非公開文化財】味噌醤油仕込み蔵は敷地の北東側、住宅の裏手に立地する土蔵です。内部はチョウナはつり仕上げの柱を露出した荒壁仕上げの真壁で、桁行9間、梁間2間半の規模をもちます。外壁の腰巻を四半貼り目地の海鼠壁として、出隅部分のみ平瓦・漆喰目地を高く塗りあげます。室内は土間として、直径および高さが2mに及ぶ長大な12個の杉樽がおかれます。小屋組みは、2間ごとに弓状に湾曲した松の曲梁を折置き組みに架け、棟束を立てます。これと交互に2間ごとに折置き組みの登り梁が頂部で合掌に組まれて棟木を支えています。海老喜には5棟の土蔵が現存し、本建物はそのなかで最も古式を伝えます。たとえば自然の曲がり木をそのまま利用した梁が構造の中心である点、貫や桁行梁を用いない点も古式の技術が用いられています。当敷地で年代が確定できる明治25年の旧醤油仕込み蔵でみられるように、直材の大梁を重ね、貫・桁行梁を用いた小屋組みとの違いを明確にみてとることができます。海老喜は味噌醤油醸造業として天保4年に創業しています。本建築は当敷地内の歴史的建造物で最も古式な技術を示し、家伝にも本建築が創業時に建てられたといわれています。よって、建築年代は創業時の天保4年頃としてよいでしょう。江戸、明治、大正と時代が異なる建築群を伝える味噌醤油醸造の商家・海老喜にあって、創業当初の建築物が現存するという高い歴史的価値を有する文化財です。
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表蔵
【非公開文化財】天保4年創業の味噌醤油醸造の商家・海老喜に現存する5棟の土蔵のひとつです。海老喜の敷地の東側、三日町通りに面して立地する。南西側には旧店舗が接続します。二階建ての土蔵造りで、切妻造り桟瓦葺きで、桁行7間、梁間3間の規模です。旧店舗側に戸前口をあけ、通りに面して鉄板葺きの庇を出した出入り口も設けます。ここには引き込みの土戸が入ります。1階2階とも前後2室に分割されており、それぞれ別の階段をもちます。半間ごとに柱を立て、小屋組みは折置き組みで二重梁を架けます。中引梁を用いた構成で、敷地のほかの土蔵に比べて発達した形式をもちます。この土蔵の用途は、商品保管と穀蔵をかねており、一階奥の部屋に小作米を保存し、旧店舗からみて手前側には冷蔵庫が設けられています。この冷蔵庫は、東北地方の小売りで最も大きいと評判になったほどだといいます。本建物は旧店舗に引き続き、菊地陽(明治15年-昭和16年)と菊地健(大正2年-昭和50年)の親子が手掛けたといいます。大正10年に撮影された古写真に旧店舗と表蔵があって、この時期すでに表蔵が完成していたことがわかります。よって、建設年代は大正時代です。江戸、明治、大正と時代の異なる土蔵が群として伝わるのが海老喜の大きな特徴であり、当建築はそのなかで最も新しい時期の形式を物語ります。店舗側の戸前観音扉は帳場に面して、来客がのぞめる意匠的な構成をとっていて、店舗と商品倉庫であるこの表蔵は密接にかかわる配置をもちます。伝統的な商家建築の屋敷構えを構成する重要な要素とみることができます。
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住宅
【非公開文化財】天保4年創業の味噌醤油醸造の商家・海老喜の住宅棟です。敷地の南東より、表蔵・旧店舗から奥まって立地します。表通りからみると奥側に玄関入口およびドマをもち、チャノマ、ナカノザシキ、オクザシキと表通り側に向かって部屋が配置されます。表通り側から奥へと部屋が配置される一般的な間取りと逆勝手で、古式な間取りです。この間取りは醸造家ゆかりだともいわれます。つまり、奥側に建つ醸造蔵の近くにチャノマがある必要から、奥側に玄関が配されたということです。規模は桁行8間半、梁間5間。切妻造りスレート葺き、木造平家建てで、南西側には小さな庭が整備されています。玄関はチャノマにあけられ、式台付きで皮付き丸太の曲がり木を用いた框など、数寄屋風の意匠を凝らします。オクザシキは10畳で、床を設けて、長押は面皮の杉材、釘隠しに茶釜のモチーフを使うなど、茶の湯が意識された室内意匠を凝らしています。大工は登米町の菊地陽(明治15年‐昭和16年)です。菊地は重要文化財・登米高等尋常小学校の棟梁である佐藤朝吉の弟子であり、明治25年築の旧醤油仕込み蔵でも10歳で普請手伝いに参加したといわれます。棟札は残されておらず、本住宅の造営年代は未詳です。明治39年に77歳で没した三代目・海老名喜三郎は茶の湯や弓道に長けた趣味人であり、数寄屋風に設計された本住宅や庭は三代目喜三郎の構想が反映されたと考えられます。一方、明治37年生まれの6代目喜三郎が幼少の頃にこの住宅が建てられたとも伝わります。両者を勘案すれば、造営年代は喜三郎の晩年、明治39年頃と推定されます。三代目喜三郎が茶の湯の趣味を背景に、数寄屋風の住宅を具現化した意匠的価値とともに、文化芸術活動の舞台となった住宅としての歴史的価値をあわせもつ文化財です。
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文庫蔵
【非公開文化財】天保4年創業の味噌醤油醸造の商家・海老喜に立地する文庫蔵です。当商家の敷地の北西側には、旧酒蔵(蔵の資料館)、文庫蔵、旧醤油仕込み蔵(海老喜ホール)という3棟の土蔵が立ち並び、通りから切妻造り屋根の妻面が連続した優れた商家の景観を呈します。文庫蔵はこれらの真ん中に位置し、庇部分を中心に最も外観意匠を凝らした土蔵であり、高い景観的価値をもつ文化財です。土蔵造り二階建てで、切妻造り桟瓦葺きです。南東側妻面に戸前口を設け、かけごの観音扉を設置し、半間の袖壁を正面に張り出し、庇を葺きおろします。外壁は一階部と二階部の腰巻を海鼠壁とし、一階は芋目地に、二階は四半貼り目地と変化をみせます。二階では出隅のみ高く切り上げます。さらに、二階の正面側に設けられた観音扉窓まわりが当建築の意匠的な見どころです。すなわち、庇(鉄板葺き)は二重垂木とし、腕木を二段とすることで木瓜型に透かし彫られた板をはめ、渦紋・繰形の絵様彫刻が施された持ち送りが出るかたちです。帳簿類や冠婚葬祭の食器類や屏風、建具などを保管する文庫蔵の存在は商家に不可欠です。また、当商店には文人墨客が滞在し、書画をしたためた歴史をもち、そうした文人ゆかりの書画を保管する当建築は、地域の芸術文化振興にも役割を果たした当家の歴史を象徴する建物ともいえます。商家の文化を象徴するように外観が最も凝らされた建築であり、高い意匠的価値を有します。
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海老喜ホール(旧醤油仕込み蔵)
天保4年創業の海老喜の敷地の東側には、旧酒蔵、文庫蔵、旧醤油仕込み蔵という三棟の土蔵が立ち並び、敷地北西側通りから切妻造り屋根の妻面が連続した優れた商家の景観を呈します。このうち、本建物は規模が最も大きくかつ通りに面した立地であり、景観上も高い価値をもつ文化財です。醤油仕込み蔵として、明治25年9月23日に上棟されたものです。残された棟札より、棟梁は佐藤朝吉であることがわかります。佐藤朝吉は登米町に所在する重要文化財・登米高等尋常小学校で棟梁をとつめた大工です。明治21年の小学校建設ののち、この海老喜の醤油仕込み蔵に携わったようです。また、海老喜の住宅、旧店舗、表蔵など明治・大正の普請に携わった棟梁、菊地陽(明治15年-昭和16年)は佐藤朝吉の弟子です。菊地は醤油仕込み蔵の普請に際しても、十歳の幼少ながら現場で手伝ったといわれます。土蔵造り、切妻造り桟瓦葺き、入口庇部分は鉄板葺きで、柱間は6尺で、桁行8間、梁間4間の規模です。小屋組みは折置き組みに大梁を架ける貫を多用し、繋梁と直材の三重梁、桁行梁を組み立てる構成です。天保4年創業頃に造営された味噌醤油仕込み蔵と比べて発達した構造形式をもちます。海老喜の建築群のなかで、唯一棟札を残し、造営年代が確定できる点は、歴史的価値を高めています。明治25年の本建物より以前の味噌醤油仕込み蔵、文庫蔵、旧酒蔵の意匠的特色(隅扇や絵様彫刻の持ち送り等)と異なり、発達した構造形式をもつ点は、建築家のもとで近代木造建築を手掛けた佐藤朝吉の手腕が発揮されたことが推察されます。佐藤朝吉と弟子の菊地陽は、醤油仕込み蔵造営後も、住宅や店舗などの海老喜の建物を手掛けていくのです。こうした大工の活動の基点となる点で、この醤油仕込み蔵は海老喜のみならず、登米町の歴史を物語る価値をもあわせもちます。
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海老喜まちかど館(旧店舗)
天保4年創業の味噌醤油醸造の商家・海老喜の角地に立地し、昭和54年に現在の店舗が新築されるまで帳場をもつ店舗として利用されていました。切妻造りスレート葺き、二階建てです。一階は真壁とする一方、二階部分は漆喰を塗り込めた大壁として、壁面には海鼠壁を設けます。2階腰巻には四半貼り目地を変形させた海鼠壁がまわり、外観意匠を凝らしています。また1階・2階ともセガイ造りです。南北道路が江戸時代以来の街路(三日町)であり、東側の通りから入る平入の構成です。中央に住宅へいたる通路をあけます。現状のこの規模と隅が切られた独特な平面は、昭和初期の登米大橋工事・道路拡幅で切縮められたものです。大工は菊地陽棟梁(明治15年-昭和16年)が明治後期の住宅を建てた後、大正時代に建てたと伝えられます。前述のようにこの改修工事によって、平面を隅切のかたちに切縮め、かつ蔀戸と屋外の庇で構成されていた外観を、下屋庇側に戸を入れて室内に取り込む改造を施しています。大正10年に撮影された古写真では一文字葺き屋根がみえるため、昭和初期の改造で現状の鱗葺きに改められたことがわかります。本建物は歴史的建造物が群として現存する登米旧城下町のなかでも、角地の重要な立地をしめる優れた景観的価値を有します。昭和初期に道路拡幅がなされ、三日町通りから東西方向への交通が拡張された近代都市計画の痕跡を物語る建物ともいえます。その際の改造も、旧来の外観意匠を踏襲しつつ、隅切の平面で新たな道路拡幅を象徴する変化をもたせるなど、価値をより高めるような改造手法を凝らしています。2階の土蔵造り、屋根のスレート葺きなど、当地ゆかりの伝統素材も多用されており、本建物の価値をより高めています。