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祇園祭
2009年にはユネスコ無形文化遺産に登録された。 山鉾巡行は本来、神輿渡御に伴う「露払い」の位置づけで、神幸祭に先立つ「前祭(さきまつり)」と還幸祭の「後祭(あとまつり)」がある。高度成長期以来、交通渋滞や観光促進を理由に、前祭と後祭の合同巡行が続いていたが、祭り本来の形を取り戻そうと分離が決定。2014年、約半世紀ぶりに後祭の山鉾巡行が復活した。 10日頃から前祭の鉾建てが始まり、12日頃には鉾の「曳初(ひきぞ)め」がある。14日の宵々々山、15日の宵々山、16日の宵山を経て、17日は、前祭の23の山鉾が祇園囃子(ばやし)にのって京都のメーンストリートを巡行。その夕方には、八坂神社の祭神を乗せた3基の神輿が四条寺町の御旅所に向かう神幸祭がある。 前祭山鉾巡行の翌日から、後祭に向けて鉾建てが始まる。21~23日は宵山期間で、24日は後祭の山鉾巡行。あわせて花笠巡行も繰り広げられる。夕方には、神輿が御旅所から神社に戻る還幸祭がある。 前祭・山鉾巡行まで=12日頃の「曳初(ひきぞ)め」は、女性を含む一般市民も参加できる。16日の宵山までは、各山鉾町ではちょうちんの明かりに照らされた山や鉾が楽しめる。各山鉾では、病気除けとされるちまきや、学問成就や立身出世などのお守り(護符)を手に入れることもできる。 前祭・山鉾巡行(17日)=午前9時、計23基の山鉾が四条烏丸付近を出発。四条通を東へ向かった後、河原町通を北上し、御池通を西進する。四条麩屋町での長刀鉾稚児による「注連縄(しめなわ)切り」や、山鉾が各交差点で方向を変える「辻(つじ)回し」などが見どころ。 後祭・山鉾巡行まで=前祭の山鉾巡行の翌日から、大船鉾の鉾建てが始まる。宵山では露店の出店が規制され、本来の祭り情緒が楽しめそう。 後祭・山鉾巡行(24日)=午前9時半に計10基が烏丸御池を出発。前祭とは逆向きのコースを進む。復活した大船鉾や、前祭とは逆向きの辻回しなどに注目が集まる。後祭列が復活するまで長らく代わりとなっていた花傘巡行の行列も、後祭列を追うよう御池通や河原町通を進む。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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霰天神山(あられてんじんやま)
永正年間、京都が大火にあった際、急に霰が降り、たちまち猛火は鎮火したが、霰とともに小さな天神像が降りてきた。そんな由来から、火よけの神様として祀られたのがおこり。霊験はあらたかで、多くの山鉾が焼けた天明、元治の大火にもこの山だけは残り、町の誇りになっている。「雷(らい)よけ火よけのお守は、これより出ます…」。宵山に子供たちが歌いながらお守授与の受け付けをする。檜皮葺きの立派な社殿が山に乗る。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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占出山(うらでやま)付近
釣り竿を持った人形は、神功皇后の姿をかたどっている。九州・肥前の川で、鮎を釣って戦勝を占った伝説が由来。この山には「あいわい山」の別名が明治まで語られていたが、町衆に人気のあった山であったことをうかがわせる。色鮮やかな日本三景を描いた胴掛けが特徴。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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芦刈山(あしかりやま)付近
御神体(人形)、衣装ともに山鉾のなかでも屈指の古さを誇る。人形のかしらには、天文6年の銘が、また、小袖は 16世紀の作とみられ、重要文化財に指定されている。謡曲「芦刈」は、摂津の国・難波にすむ夫婦は貧乏が原因で別れ、妻は都へ出て宮仕えする。が、夫が気掛かりで探したところ、落ちぶれて芦を売る夫を見つける、と言う話。山の正面 、側面に芦の造花が飾られる。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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木賊山(とくさやま)付近
京都市下京区仏光寺通西洞院西入ル木賊山町の山。世阿弥の謡曲「木賊」から着想され、木賊刈りの老翁が別れた愛児を思いながら舞う場面を表現している。等身大の老翁像は足台に元禄5年(1692)の墨書があり、右手にかま、左手に木賊を持つ。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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函谷鉾(かんこほこ)付近
中国古代史話、孟嘗君の故事に基づく。戦国時代、斉の孟嘗君は秦の昭王に招かれ、宰相に重用された。しかし讒言によって咸陽を脱出して、函谷関まで逃げたが、関の門は鶏が鳴かねば開かない。配下が鶏の鳴き声をまねたところ、あたりの鶏が和して刻をつくったので見事通り抜けたという。真木は22メートル。鉾頭に、三角形の白麻を張り、先頭に三日月が上向きにとりつけられる。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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郭巨山(かっきょやま)付近
山には屋根がないのが普通だが、この山は日覆障子を乗せている。金地彩色法相華文の板絵として他の山にない古い形式を残している。名前の由来は、中国の史話にある貧しくて母と子を養えない郭巨が、思い余って子を山に捨てようしたとき、土の中から金の釜が現れ、母に孝養を尽くした話による。人形は、鍬を持つ郭巨と紅白の牡丹の花を持つ童子の2体。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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伯牙山(はくがやま)付近
戦後に町会所が無くなったため、綾小路に面した旧家・杉本家の表の間の格子を外し、お飾り場にしている。琴をまえに、斧をもった人形は、中国・晋時代の琴の名手・伯牙。怒りの目、紅潮した両頬は、友人の訃報を聞き、悲しみに打ち震えながら、まさに琴を打ち破らんとしている様を表す。明治になり多くの山が名前を改めさせられているが、この山も「琴破(ことわり)山」から改称した記録がある。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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菊水鉾(きくすいほこ)付近
謡曲「菊慈童」から着想された鉾。魏の文帝の勅使が薬水を訪ねて山に入ったところ少年に出会う。聞けば、少年は 700年前に、王の枕を誤ってまたいだのが原因で都を追われた。以後、普門品の偈を甘菊の葉に記しておいたところ露が滴り、この水を飲んで不老長生したという。慈童は、この薬水を勅使に献じた。昭和28年に復興。鉾頭には天に向いた16菊。この鉾に限り「菊水」と篆書が掘り出した額がつく。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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油天神山(あぶらてんじんやま)付近
町名(風早町)の由来であるお公家さん・風早家の屋敷があり、この屋敷に祀られていた天神=菅原道真を祀ったという言い伝えがある。山は、立派な朱塗りの鳥居が特徴だ。天神さんと関係深いのが梅の花。松と一緒に立てられた紅梅が、華やかな雰囲気をかもしだす。見送りの毛綴(けつづれ)が名高いが、現在のものは山所在地近くで生まれた故梅原龍三郎画伯の富士山の絵をもとにした綴織になっている。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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太子山(たいしやま)付近
山鉾の真木は松が通例だが、この山のみ杉を立てる。聖徳太子が四天王寺を建立するさい、自らが良材を求め山に入り、老人に大杉の霊木を教えられ、六角堂をたてたことに由来する。太子は、日本の仏教の基を築いたことで知られ、宗派をこえての「太子信仰」が民衆の間に広くあった。山に飾る太子像は、江戸時代の作。トレードマークの鬟(みずら)に髪を結び、ふっくらした顔だち、白羽二重小袖姿で、高貴な印象をたたえる。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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保昌山(ほうしょうやま)付近
旧名に「花ぬす人山」という。平井保昌は藤原大納言元方の孫で、致方の子で武勇にすぐれ、和歌も堪(たん)能であった。妻は、和泉式部。恋した女官から紫宸殿前の梅を手折ってほしいと頼まれた保昌が首尾よく一枝を得た。しかし北面の武士に発見され、射かけられた矢が頭をかすめ、保昌はほうほうの態で逃げ帰ったという。盗難除け、縁結びのお守りが授与される。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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鶏鉾(にわとりほこ)付近
中国古代の伝説「諫鼓(かんこ)」、天の岩戸の永世の長鳴鳥の故事にちなむとも。「諫鼓」は、暦を制定した伝説の聖天子・尭帝が、宮廷の外に太鼓をすえ、政治に不満があればたたかせ、木を立てて、訴えを書かした。世は治まり、太鼓は苔を生じて鶏が巣をつくったという。鉾頭は、紅白を互い違いに巻いた三角枠で、なかに銅の円板が挟まれる。3つの角には紺いろの苧束の房がつけられる。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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白楽天山(はくらくてんやま)付近
2体の人形の唐冠を付けたほうが白楽天、帽子(もうす)をかむった僧形が道林禅師の像。長恨歌などの名詩で有名な中国・唐の詩人、白楽天が道林禅師に仏法の大意を問いかけているシーンを表している。この山も過酷な運命をたどっている。天明、元治の大火で胴組や人形の胴を失い、そのたびに巡行中断と復元を繰り返している。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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四条傘鉾(しじょうかさほこ)付近
1987年、実に117年ぶりに巡行に復帰した。元治の兵火のあとも巡行に加わっていたが、明治5年以降、消滅同然となり、道具類も散逸していた。綾傘同様、壬生六斎の棒振り、囃子での協力が復活に力になった。祇園唐草模様の大傘に錦の垂(さがり)で飾った花傘は応仁いらいの傘鉾の原形を伝える。赤熊(しゃぐま)鬼面 の棒振り、踊り手、囃し方が歩くさまは地味だが、素朴な味わいがある。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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孟宗山(もうそうやま)付近
中国・24孝の1人、孟宗は、母親が病気になったため、好物のたけのこを求めて竹林を歩きまわったが、寒の季節で1本もない。疲れて座り込んでしまったとき、たけのこが出、母親は元気を回復した話からきている。町名が笋(たかんな=たけのこの意味)町というのもこれに由来する。白綴地に雄渾な筆致で孟宗竹林が描かれた見送りは、竹内栖鳳の筆。極彩色が多い山鉾のなかで、墨一色が異彩を放っている。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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月鉾(つきほこ)付近
『古事記』によれば、伊弉諾尊が黄泉の国から戻り、禊祓いをされたとき、左眼を洗って天照大神、右眼を洗って月読尊、このあと、鼻を洗って素戔鳴尊を生んだ。月読尊は夜を支配した神だが、水徳の神でもあり、月鉾は、この故事に由来する。鉾頭に、横40センチ、上下24センチの金色の三日月。真木の中ほどに天王様を飾った天王台の下には籠製の船が真木を貫いてとり付けられる。元治元年の大火にもわずかに真木を失っただけだった。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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鈴鹿山(すずかやま)
鈴鹿山は、旧東海道の難所・鈴鹿峠をいう。畿内と東国を結ぶ要衝として、歴史上のエピソードも多い。商人を狙う盗賊が多かったことが、鬼が出る、に転化したようだ。この山の神・鈴鹿明神(瀬織津姫命)の伝説も鬼退治のおはなし。大なぎなたを手に、立て烏帽子の女神の姿がりりしい。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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浄妙山(じょうみょうやま)
橋弁慶山に似て、アクロバティックな人形の姿が人目を引く。宇治橋の上、宇治川の合戦。一来法師が三井寺の僧兵・浄妙の頭上を飛び越して先陣をとった故事にちなむ。揺れる山の上で人形の上にさらに1体を乗せるのは強度の点で難しいが、1本の木で上下を繋ぐアイデアは素晴らしい。上下の人形を、上さま、下さまと呼ぶのもゆかしい。浄妙のよろいは室町時代のもので、重要文化財。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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役行者山(えんのぎょうじゃやま)
鈴鹿山と共に山鉾町最北の山。役行者(えんのぎょうじゃ)は自ら修行するだけでなく、庶民の中に入って医療などにつとめた僧。古くから民衆に人気があった。人形3体はその役行者をまん中に、鬼の顔の一言主神、葛城女神。三者の関係はさだかではないが、者が大峰山と葛城山のあいだに橋を架けようとして、鬼を使ったとの伝説によるらしい。人形が多いだけ山のサイズも最大級。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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南観音山(みなみかんのんやま)
俗に「北観音山の観音様は男だが、南観音山は女性なので、南では宵山の夜更けに翌日の巡行の無事を祈って“あばれ観音"の行をされる」といういい伝えがあり、「あばれ観音」の別名がある。楊柳観音像と善財童子像を安置する。楊柳観音は、三十三観音の筆頭とされ、姿を変えて、手に柳を持ち薬師観音と同様に衆生の苦難を救う。この山の楊柳観音は頭から袈裟をつけ趺座(ふざ)する。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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黒主山(くろぬしやま)
油天神山が梅なら、こちらは桜を松と共に飾り、華やいだ雰囲気をかもす。謡曲「志賀」のなかで、六歌仙の1人、大友黒主が志賀の桜を眺めるさまをテーマにしている。杖をつき、白髪の髷(まげ)の翁の人形は、いかにも品格がある。失火で町家(ちょういえ)を失ったのを機に、5階建てビルにし、祭りのときだけ町会所にするのは時代をさきどりしたと話題になった。山を飾る桜の造花は、家に悪事を入れないお守になる。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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八幡山(はちまんやま)
八坂さんの祭りに石清水八幡をまつるのは不思議だが、当時それだけ八幡さんが信仰されていたあかしだろう。社殿は江戸時代後期天明年間の作と伝えられる総金箔押しの華麗なもの。前面の鳥居の笠木のうえに、向かい合って八幡さんのシンボルの鳩が2羽、止まっているのが愛らしい。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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鯉山(こいやま)
前掛けや見送りは16世紀のベルギー製のタペストリーで、重要文化財に指定されている。ギリシャの叙事詩に題材をとって人物や風景が描かれており、山鉾きっての貴重なものだ。人物でなく、魚をテーマにするのは山のなかで唯一。竜門の滝をのぼる鯉は竜になるとの言い伝えで、木製の鯉が勢い良く水しぶきを上げる様は勇壮。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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北観音山(きたかんのんやま)
応仁の乱の時代から隣町の南観音山と、1年おきの交代で山を出していたといわれる。隔年にでるというのは例がなく、この両山だけ。楊柳観音像と韋駄天立像を安置する。鉾ではないので真木の代わりに真松を立てる。松は、毎年鳴滝から届けられ、籤で所有を決めている。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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橋弁慶山(はしべんけいやま)
山の御神体がなにを表すかは一目瞭然。五条の橋の上、牛若丸が軽々とぎぼしの上に飛び上がり、弁慶がなぎなたを構えるシーン。足駄の前歯だけで人形の体を支えるこの躍動感は、とても500年も前の造形とは思えない素晴らしさだ。かき山としてただ1つ、くじ取らずであったことや、山籠、真松もない形式からも、山の中では屈指の古いものであることが分かる。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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船鉾(ふねほこ)付近
『日本書紀』の神功皇后の新羅出船に由来する。屋形内に飾られた神功皇后の人形は、面を着け、頭に天冠を頂き紺金襴の大袖に緋の大口、緋縅の大鎧を付けている。応仁天皇を生んだゆかりから、御神体に、晒を巻いて置き、巡行後に安産祈願の御腹帯として授与する習慣がある。船頭に「鷁(げき)」と呼ばれる想像上の瑞鳥を飾る。高さ1.3メートル、両翼端2.7メートル。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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岩戸山(いわとやま)付近
『古事記』『日本書紀』に記される「国生み」と「天の岩戸」の神話を故事にもつ、曳き山。「天の岩戸」は、素戔鳴尊の乱暴に天照大神が岩戸に隠れられたため、天地は常闇となり、八百万神は安の河原に集まって対策を練り、常世の国の長鳴鳥を鳴かせ、鏡を鋳造し、500個の勾玉をつくり、天香山の榊を立て、天鈿女命が舞った伝承である。屋形内に、伊弉諾尊、天照大神、手力男命の3体の人形が飾られる。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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放下鉾(ほうかほこ)
鉾の名は真木のなかほどの「天王座」に放下僧の像を祀るのに由来する。鉾頭は日・月・星三光が下界を照らす形を示し、その型が洲浜に似ているので別名「すはま鉾」とも呼ばれる。かつては長刀鉾と同様「生稚児」であったが、昭和4年以降稚児人形にかえられている。稚児人形は久邇宮多嘉王殿下より三光丸と命名せられ、巡行の折には稚児と同様、鉾の上で稚児舞いができるように作られている。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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蟷螂山(とうろうやま)付近
かまきり山、とも。文字どおりカマキリが屋根の上に乗り、子供たちも喜びそうな楽しい趣向だ。「蟷螂の斧」とは、自分の力のほどをわきまえず、大敵に立ち向かうことだが、その勇猛さを賞した中国の君子の故事が出典。町内の事情で、明治初め以降巡行をやめたが復帰した。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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綾傘鉾(あやがさほこ)付近
徒歩の傘鉾として応仁の乱以前のふるい鉾だが、元治元年に焼けて以来、明治10年代に一時復活したもののふたたび中断。ようやく昭和54年、巡行を再開した。形の上でも変転を繰り返す。江戸期、どうした理由からか、徒歩から曳き鉾に変化、御所車風の屋根に風流傘が乗る古図が残る。明治の復活では再び徒歩に。棒振り、鉦、太鼓のはやしかたが行列する。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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山伏山(やまぶしやま)付近
山に飾る御神体が山伏の姿をしているので、この名前がある。前(さき)の祭りでは一番北の山。役行者山と同様、当時民間信仰として人気のあった修験道・山伏から着想された。正面の水引は、雲中の竜、青海波と麒麟を精緻な刺しゅうで描いた中国からもたらされた豪華なもの。見送りも中国・明時代のものとされる。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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大船鉾(おおふねほこ)
かつて凱旋(がいせん)船鉾と呼ばれた。1864年の蛤(はまぐり)御門の変で焼失して巡行に参加できなくなった後は、神功皇后のご神体や豪華な懸装品などを飾る「居祭り」を130年間続けてきた。高齢化や人手不足でいったん途絶えたが、1997年に青年層が囃子方を復活させた。2006年、懸装品を展示する「飾り席」が地元の四条町内で復活し、2012年から唐櫃(からびつ)で巡行に復帰。2014年は150年ぶりに鉾で参加した。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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鷹山(たかやま)
応仁の乱以前からある曳山(ひきやま)だが、大火と大雨の被害で1827年以降、巡行していない。懸装品なども幕末の元治の大火(1864年)で焼失。御神体の頭部や鉦(かね)など十数点が現存する。2022年後祭巡行復帰を目指して、2014年には囃子方を結成。2019年から唐櫃(からびつ)巡行を行う。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.
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長刀鉾(なぎなたほこ)付近
「くじとらず」の名があるように、山鉾巡行の先頭を受け持つ鉾。命名は、鉾のてっぺんを飾った三条小鍛冶宗近作の大長刀による。宗近が娘の病気平癒を祈願して八坂神社に奉納したが、鎌倉期にある武人が愛用。しかし何かと不思議が起こり、返納したという。大永2(1522)年、疫病がはやり、神託で長刀鉾町で飾ったところ、疫病は退散した。創建は、嘉吉元年(1441)説がある。真木は全長20メートル。現在、稚児が乗る唯一の鉾である。 動 画 Copyright (c)2019-2020 The Kyoto Shimbun Co.,Ltd. All rights reserved.