エコ・ミュージアム涌谷~城下町絵図

涌谷(宮城県遠田郡涌谷町)は江戸時代に仙台藩の要害が置かれ、武家屋敷や寺社などの歴史ある建物が多く残る歴史ある町です。「エコ・ミュージアム涌谷」では、代表的な文化財建造物を昔の復元イラストなどで紹介しています。この城下町絵図(涌谷町教育委員会所蔵)は、江戸時代末期に制作されたと考えられています。江合川をはさんで、右手に要害屋敷や上士の武家屋敷群、左手に町人地が区画された様子など、江戸時代の涌谷の歴史的景観を伝えるものです。
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本堂と庫裡が南面し、西側には涌谷伊達家歴代の墓所があります。本堂は明和2年(1765)に焼失後、再建されたものです。内部は六間取として、西側の上手には参詣に訪れた亘理氏の御成座敷の形式をもつ部屋を備えます。
見龍寺本堂の西側には、涌谷伊達家歴代の墓所が門塀で区画されています。 棟梁・鈴木長右衛門実昌により寛文13年(1673)に上棟された四代・見龍院を最古に、元禄16年(1703)頃の造営にかかる五代夫人・長巌院(卓に刻まれた年紀)、五代・本源院(正徳2年・1712没)、五代夫人・宝台院(宝永7年・1710没)、そして六代・玄珠院(享保3年・1718没)という5棟の霊屋が現存します。 二間四方で宝形造り向拝付など、いずれも建築形式としては類似しています。しかしながら細やかにみれば、これら5棟に江戸前期から中期へ向かう建築様式の時代的な変化があらわれています。
涌谷要害屋敷本丸へ通じる大手口に面し、代々家老格の千石家の表門です。幕末期には通り向かいに、家中子弟を教育した郷学である月将館が構えていました。武家屋敷の表門は家格にしたがって、冠木門、棟門、薬医門などの構造形式を異にします。現存する千石家表門は薬医門形式です。桁による軒の張り出し、本柱と控柱に間柱を入れることによる規模の拡大など、家中のなかでの格式の高さをうかがわせます。
涌谷伊達家の居館であった要害屋敷本丸の南端、石垣上に立地します。隅櫓の形式ですが、石落としや狭間がなく、軍事形式を有さない櫓です。かつて太鼓堂であったと伝えます。実際、幕末に描かれた絵図では、同じ位置に「時太鼓」と記された袴腰形式の鐘楼に類似する建物が描かれています。天保4年(1833)再建との伝承もありますが、史料的な裏付けはわかっていません。
標高232メートルの霊峰箟岳山にあって、観音堂を中心に、白山堂、山王堂と十六の坊を総称した一山を箟峯寺と称します。縁起書によると光仁天皇の勅願で宝亀元年(770)の草創、白山宮を建立しました。その後、坂上田村麻呂の東夷討伐の後、観音堂を建てて正福寺と号しています。嘉祥2年(850)、慈覚大師円仁が中興し、天台宗の箟峯寺となっています。鎌倉時代、箟峯寺は葛西・大崎氏の中間に位置し、両氏の祈祷にあたりました。藩政時代は仙台藩の村外地として一山の自治に任された特殊な地でした。
国史跡黄金山産金遺跡に所在します。現在は拝殿と本殿がありますが、もとは黄金山そのものを拝し、拝殿のみでした。明治5年(1872)県社に列し、明治42年(1907)に本殿を建築しました。 拝殿は沖安海により再興されたものです。沖安海は文化7年(1810)に『陸奥国小田郡黄金山神社考』を起草した伊勢の国学者です。このなかで沖安海は、延喜式神名帳の小田郡黄金山神社を、残されて礎石跡等に着目して、当時の涌谷村黄金迫と主張しました。沖安海は衰退した跡地を再興するため、金三十両を献納し、天保6年(1835)に着手、天保8年(1837)に現在の拝殿が竣工しました。 基壇の縁下には、現在でも巨大な礎石跡が残り、古代の遺構跡を顕彰するようにその上部に拝殿をつくったものです。高欄を用いない簡素な切面縁の構成も、あるいはこの礎石跡を配慮したつくりなのかもしれません。
武家屋敷 旧佐々木家住宅
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黄金迫に所在する佐々木家は、馬上の騎馬御免の家中であり、比較的上士の武家屋敷に属します。一方、大崎氏の家臣であったという家伝もあり、広大かつかつて水路がめぐった防御性の高い屋敷構えや、武家町のなかでも周縁に位置する城下での位置関係などは、あるいは亘理氏以前の家柄と関係するのかもしれません。 主屋、広間、棟門、厩舎、板蔵という武家屋敷由来の建造物を群としてとどめると同時に、馬場・的場の伝承をもつ空地や庭、また武家ゆかりの樹木などの歴史的環境が総体として良く残っている武家屋敷です。
