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<b>五番紐所<br><font size="5" color="red">加賀野八幡神社(朱色ひも設置)</font><br> 先着50名に神社から瓢箪飾りを用意、100名に年越しそば、わたあめ、温かい飲み物を振舞。焚火でお迎え
朱色ひも設置(朱雀 南の守り神) 「加賀野八幡神社」 加賀野八幡神社は、石森字舘の地に鎮座。本殿のほか境内には、社務所、集会所があり、地域の人々の集いの場となっている。また、御神木の銀杏(ぎんなん)の大樹があり神社のシンボルともなっている。御祭神は応神天皇である。 永正元年(1504)、葛西の臣飯塚氏が勧請したと伝えられ、又ここには、飯塚修理の館があったとされ、別名「加賀野城」といわれた。父の山城は天正19年(1591)6月葛西大崎一揆に佐沼城に拠(よ)ったが、伊達氏の攻撃を受け戦死、この加賀野城外の竹林に葬られたといわれる。 父、山城戦死の時、修理は病のため従軍できず、父戦死の14日後に亡くなったと伝えられている。
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<b>六番紐所<br> <font size="5" color="gold">熊野神社 (黄色ひも)</font><br><font size="5">(本年のゴール)</font><br> 先着50名に甘酒と温かい年越しそばが振舞われます。焚火でお迎え<br> <font size="4" color="red">3色の紐をお持ち込みの先着100名様に「ごえん」を引き換えます。</font><br>
黄色ひも設置 (本年のゴール) 「熊野神社」 細谷には熊野神社があり、そのあたりを「くまんど」といっている。 このことは、熊野信仰が、堂を建 てた当時あった ことを示している。 熊野には、本宮・新宮・那智社の 三社があり、昔から修験の聖地といわれ、その道場でもあった。 当地方には、羽黒派の修験が多 かったが、葛西氏 奥州惣奉行とな ったことに より、熊野信仰が民衆 へ広がっていった とも考えられる。 また、熊野へは距離的にも経済的にも参詣は困難だったため、熊野神社の分社としてこの熊野堂が建てられ祀られたと思われる。
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<b>二番紐所<br><font size="5" color="silver">長光寺 (白色ひも設置)</font><br>年越しそばやお神酒を振舞。星まつり あり。鐘をつける。焚火でお迎え
白色ひも設置 白虎(西の守り神) 「長光寺」 明治時代、社寺創建には、神官住職、又は、氏子檀信徒予定の者たちによる連署と、戸長奥書書のある願出、永続財産の目処、地所建物が社寺の体が備わっていること、及び府県令の許可を要した。 石森村仲町の素封家森栄三郎・てう夫妻が村に日蓮宗寺院のないことを憂い、寺院創立を決意した。明治3年に創立願書が提出されたが、不許可となった。その後、再々提出して、明治15年にやっと許可された。 長光寺の名前の由来は、明治12年に誕生寺貫主、日諦上人に詣でて、栄三郎の「栄」をして山号「妙栄山」とし、妻てうの「長」をして寺号「長光寺」を賜ったものである。 智玄院日諦上人を招いて開山した。現住職は、6世熊谷義道上人。
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<b>三番紐所 <br><font size="5" color="blue">伊勢岡神明社(青色ひも設置)</font><br><font size="4" color="red"> 大晦日深夜から元旦午後に限り、奉納二十年目にあたり、国内有名漫画家12名による肉筆の漫画絵馬全作品を公開</font><br> 先着100名様に福引景品あり。焚火でお迎え
青色ひも設置 「高市と神明社」 神明社境内の入口に立派な石の鳥居があり、その右側に「高市再興三十年記念石鳥居奉納之碑」が建てられている。この鳥居は高市再興30年記念として、明治44年に建てられたものである。 碑に刻まれている奉納者は地元は勿論、近隣の市町村、特に郷土出身のカナダ在住の奉納者名が目を引く。このことから、当時の高市の隆昌が偲ばれる。 この神社は文治5年(1185)奥州奉行葛西三郎清重が、この地に宝刀一振りを献納し、国家安寧と武運長久を祈願したところと伝えられている。 「阿部静枝の歌碑」 仲町の神明社境内の大きな自然石に「青空より、降りくる冬の日光にふくらむ心しばらく保て」と静枝自身の書が刻まれている。 この歌碑は昭和48年、静枝が病にたおれた後の、一時回復の頃、短歌関係者によって建てられたものである。 静枝はこの地である石森仲町の二木家に生まれ育ち、後に結婚により阿部静枝と名乗った。 生涯を閉じた昭和49年までの76年間、歩んだ短歌人生を中心に、その業績が石の裏面に刻まれている。
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<b>一番紐所<br><font size="5" color="black"> 石大神社(黒色ひも設置)</font ><br> 先着10名様にプチ五円玉あり
黒色ひも設置 玄武(北の守り神) 「石森村と石大神社」 安永風土記(ふうどき)に「当村之鎮守石之明神社地之内ニ御神体之石有之候ニ付御村名ニ唱之来候事」と村名の由来が記されている。 この神社の裏手に「巨(おお)巌(いわ)」があり、この巨巌を御神体として崇めたことから名づけられたものと思われる。 また一方、この神社の縁起書には、「大和武尊が東征の折、明玉を載き戦いに臨んだところ、この明玉の威光に恐れ、賊は従った」とあり、この明玉を祀ったのがこの神社といわれている。 この神社は葛西時代には石森氏、江戸時代には笠原氏の守護神として、社殿を修復 したりして庇護(ひご)した。 村名も「いしのもり」から「石母里」そして「石森」となったと伝えられている。
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<b>四番紐所<br><font size="5" color="green"> 安永寺(緑色ひも設置)</font><br> 先着10名様にプチ五円玉あり
緑色ひも設置 青龍(東の守り神) 「安永寺の鐘」 安永寺の山門に古い鐘が吊るされている。この鐘は、笠原3代義康が寄進したもので、作者は、「唐金御鋳物師高田五兵衛」となっている。鐘には「諸行無常・是生滅法・生滅滅己・寂滅為楽」との銘文が見られる。 義康は寛文事件で原田甲斐の次男を笠原仙台家敷で、処刑する役目を担った関係で、この鐘を寄進したものと思われる。 この鐘は300余年の永きに亘り、石森の栄枯(えいこ)盛衰(せいすい)を見続け、太平洋戦争の時も徴用を免れた寺の宝である。 平成17年造形作家佐藤達が「無常響」と名付け、石の彫刻と共にモニュメントとした。 この鐘のある安永寺は、寛永7年(1630)笠原2代盛康が、佐沼瑞光寺の笑山金悦大和尚を招き、曹洞宗として開山された古刹(こさつ)である。