萩まちじゅう博物館 土原おたからマップ

山口県萩市の土原エリアのおたからマップです。 平成27年3月時点での情報です。現在変更になっている場合もありますので、予め、ご了承ください。
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周布政之助は萩城下に生まれ、土原には嘉永期頃に居住していました。村田清風の後継として正義党の中心人物となり、椋梨藤太ら俗論党と激しい政争を繰り広げました。また、井上勝、山尾庸三、伊藤俊助(伊藤博文)、井上聞多、遠藤謹助らを英国へ留学させ維新後に備えたことでも知られています。

井上勝は文久3年(1863)に伊藤博文らと共に英国に密航留学した「長州ファイブ」の一人で、鉱山学と鉄道を研究しました。帰国後は鉄道庁長官などを歴任、全国の鉄道網整備に尽力し「鉄道の父」と呼ばれました。
入江九一・野村靖誕生地
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兄の入江九一は高杉晋作らとともに松下村塾の四天王と呼ばれ、奇兵隊の結成に加わるなど尊攘運動に奔走しましたが、元治元年(1864)の禁門の変で戦士しました。弟の野村靖は松下村塾に学び、兄と共に尊攘運動に奔走、維新後は外務官僚を経て神奈川県権令や内務大臣、逓信大臣を歴任しました。また野村靖は沼崎吉五郎から吉田松陰の自筆「留魂録」を受け取って松陰神社に伝えたことでも知られています。

殉難十一烈士の一人。文久2年(1862)久坂玄瑞らと横浜居留地の焼打ちを計画しましたが事前に漏れて未遂に終わりました。その後は藩の要職を歴任しましたが、禁門の変により俗論派に捕らえられ野山獄で処刑されました。

昔は阿武川上流の人たちが薪や農産物を積んだ帆船で往来し、橋のたもとに積み荷を下していました。橋の長さが36間あったことから、コイの鱗の枚数にちなんで鯉鱗(りりん)橋、または六々橋とも呼ばれていました。

殉難十一烈士の一人。土原の生まれで明倫館で学び、後には尊攘運動に奔走しました。藩内での政権交代が起こると親友の高杉晋作から亡命を勧められましたが「正義の為に死するは本望なり」と応じず、野山獄で処刑されました。

昔は弘法寺の一帯は松本川下流の浮洲になっていて弘法島とよばれていました。空海(弘法大師)が唐から帰る際、暴風雨にあい漂流したものの、弁財天女の導きによってこの島に漂着し、ここに祠を造って天女を祀ったと伝えられています。

前原一誠は土原の生まれで、松下村塾に学び、松陰より「勇あり智あり、誠実人に過ぐ」と高く評価されました。四境戦争では小倉口の参謀心得として高杉晋作を助け、戊辰戦争では北越に出征し、同地平定後は越後府判事として民心安定に尽くしました。
長防臣民合議書印刷所跡
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長防臣民合議書とは慶応2年(1866)の四境戦争(第2次幕長戦争)を前に、幕府を迎え撃つ目的や萩藩の正義がどこにあるのか等を仮名交じり文で分かり易く説いた冊子です。大名が印刷物で戦争の理由(大義名分)を庶民にまで説明して戦った珍しい事例として伝わっています。

広沢真臣は幕末期に桂小五郎(木戸孝允)と並ぶ長州藩倒幕派の代表格として活躍しました。四境戦争(第2次幕長戦)では藩を代表し勝海舟と休戦交渉にあたり、明治元年には新政府参与となり版籍奉還等を推進しました。明治4年、東京九段下の自宅で刺客により暗殺されました。

長井雅楽は藩の要職を歴任し、藩主毛利敬親の跡継ぎ元徳のお守り役として尽力した人物です。文久元年(1861)には航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)を提唱し、幕府・朝廷間を周旋して開国および公武合体運動を推進しましたが、藩内の尊攘急進派の画策によって失脚し、自宅で切腹しました。
白根多助・白根専一旧宅地
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父・白根多助は大坂藩邸に勤務し、中山忠光らの七卿落ちを援助し志士の資金援助に尽力しました。維新後は埼玉県に出仕、後に埼玉県令に昇進し主に主に税法を整えました。多助の長男・白根専一は明治初年に慶應義塾に学んで内務省に出仕し、愛媛県知事、愛知県知事を歴任しました。後には第2次伊藤内閣の逓信大臣を務めました。

奥平謙輔は明倫館で学び俊秀と言われた人物で、その際、来萩していた会津藩士秋月悌次郎から漢詩の手ほどきを受けました。明治元年には北越戦争に従軍し、戦後、旧知の秋月から会津藩の少年2人(山川健次郎、小川亮)の後事を託されました。明治9年、前原一誠らと萩に挙兵するも敗れて斬首されました。
武家の町割を示す基礎石
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土原には、松本川沿いを守る軍事上の意味合いから中・下級武士が多く居住していました。現在の建物や塀の基礎石にはその名残があり、江戸時代の武家屋敷の町割りを想起することができます。