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隅田川(東京スカイツリー景観)
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その昔大川と呼ばれたこの川は江戸の庶民の生活に切っても切れない身近なものでした。そして現在の地名が指すように武蔵と下総の国境として二つの国を隔てる川でした。 (この川にかかる橋で両国橋と呼ばれる橋は二つの国にまたがる橋なのでそう呼ばれています。この様にこの川に架かるいくつかの橋の名前にはそれぞれの由来が覗けます。)そのうちの一つの言問橋からは東京スカイツリーのほぼ全貌が見渡せます。皆さんご存知の通り東京スカイツリーの高さは634m(ムサシの国に由来しています。)ですが。あれ、あちら側は武蔵の国でしたっけ…。ちょっとした話題です。

専門的な調理用品を取り扱う商店街としても全国的に有名な合羽橋道具街も今やインバウンドの観光客であふれています。飲食店の店頭に飾る食品サンプルのミニチュア版がお土産として大人気だそうです。 その他、おおよそ専門の職人しか使わないような専門的な道具もどうやって調べてくるのか不思議ですが意外と売れ筋だそうです。

『恐れ入谷(いりや)の鬼子母神(きしもじん)。びっくり下谷(したや)の広徳寺。そうで有馬の水天宮。』江戸っ子の洒落のきいた口上で有名な入谷鬼子母神では、毎年7月になると江戸の風物詩といえる朝顔まつりが開催されます。この朝顔まつり、江戸の頃には朝顔の品評会があり、様々な珍種の朝顔が登場、ひと頃は朝顔一鉢が家一軒建つほどの高額な価格で取引され、その加熱ぶりに幕府から規制がかかるほどだったようです。現在では一服の涼を求める小鉢が人気で、3日間の市で多くの人々が買い求めていきます。 目の前の入谷交差点には「入谷朝顔発祥の碑」が建立され入谷の象徴となっています。

言わずとしれた名刹浅草寺。いろんな話がありますが王道の雷門の話。 浅草寺の総門として正式名は『風雷神門』と呼ばれるこの門は、火災により何度か焼失・再建され現在の姿に。重さ700㎏もある巨大提灯はまさに浅草のシンボルといえるでしょう。 実はこの浅草のシンボルである現在の雷門の寄進者があの松下幸之助。幸之助のこの寄進には実は理由がありまして。 ある日、地元、大阪通天閣に関東のライバル企業の名前がバッチリと取り付けられて、面子をつぶされた幸之助は大激怒。業を煮やして「東京の一番有名な場所にナショナルの灯りをと…」半ば意趣返しに浅草寺総門を。一流の経営者も子供っぽいところがおありのようで。

実質的な日本最古の遊園地。よく言われるように軋みながら民家の脇をスレスレで抜けていくスリルは、他の遊園地のジェットコースターとは別の意味で楽しかったのかも知れない。 そんな花やしきも現在は国内有数のアミューズメント企業であるバンダイナムコの子会社になって生まれ変わりました。2019年4月「浅草花劇場」をオープンさせ、日本伝統文化と現在文化を融合した作品やコンサート・格闘技など様々なエンターテインメントを発信する場所として浅草の人気スポットとして話題になっています。

平安の歌人、小野篁(おののたかむら)公をご祭神として、また江戸の頃からは菅原道真(すがわらのみちざね)公も祭りしてあることから「学問・芸能・仕事の神社」とされる。 天明2年(1782)に築かれた「富士塚」があり、「富士山の開山日」には一般開放され、神性を求め多くの方が訪れます。芸能の神様であるこの神社に、まだ作品に恵まれなかった若き日の渥美清が願を掛けて『寅さん』の大役を引き当てた話はあまりにも有名。いまでもご利益を求め、数々の芸能関係の方がお忍びでお見えになるそうです。

台東区有形民俗文化財の指定を受け、江戸から明治にかけての商家の佇まいが伺い知れます。当時の看板や道具類が展示されており、今やどこにも存在しない大福帳や道具類が無料で見学できます。 また道を挟んだ向かい側には大正ロマンの香りが残るカヤバ珈琲などがあり、まるで時代をタイムスリップしているかのようです。
RUE DES ARTS 芸術の通り
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フランスパリの街角のような通りを示す標識があり、外観や佇まいがお洒落なお店が並んでいます。道幅も狭くなかなか発見しにくいですが、上野公園から谷根千につながる町歩きを楽しめるお洒落な小径です。

日本の歴史を語るのにはずせない「東叡山(とうえいざん)寛永寺」。名前の由来は江戸を京に見立て、比叡山を上野の山に置き換えて、東(ひがし)の叡山(えいざん)としたことにあります。寛永寺は江戸鎮守の要となるよう建立されました。 現存する根本中堂はまさに江戸時代からの面影を残し歴史を感じさせる建物です。寛永寺境内は風光明媚な場所として栄えた場所でもあり、季節の花や緑に囲まれ自然を愛でるには絶好のポイントです。 広大な敷地を誇った時代からは現在の敷地はこじんまりした感は否めませんが、令和の時代も併設している寛永寺幼稚園からは元気一杯な子供達の声が聞こえてきます。

レンガ造りの正門に囲まれた構内には、国指定重要文化財となっている「旧東京音楽学校奏楽堂」、歴史的建造物や美術館がある日本で唯一の国立総合芸術大学です。 明治初期、岡倉天心により創設された東京美術学校(東京藝術大学の前身)の門下をくぐった数多くの生徒達はその後の日本の芸術学会の中心となる活躍をしてきました。もちろん現在でも美術、音楽とその世界での第一人者を多く傑出しています。






