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萩まちじゅう博物館 維新の里(旧松本村)史跡案内図

萩まちじゅう博物館 維新の里(旧松本村)史跡案内図

山口県萩市の旧松本村エリアのおたからマップです。 平成26年3月時点での情報です。現在変更になっている場合もありますので、予め、ご了承ください。

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吉田松陰先生をおまつりする松陰神社には、松陰先生に関する貴重な遺品・遺墨等の宝物が多数伝えられています。これらの宝物を大切に保存し、松陰先生の「志」を次の世代に引き継ぐために開館しました。 ↓施設の詳細はウェブサイトにてご確認ください 【松陰神社宝物殿 至誠館】https://www.hagishi.com/search/detail.php?d=100083

松下村塾

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吉田松陰先生が主宰した私塾で、幕末維新~明治期にかけて活躍した多くの人材を輩出しました。海外密航を企てた罪で杉家で幽囚の身となった松陰先生は近親や近隣の子弟に講義をするようになり、叔父である玉木文之進の私塾であった松下村塾の名を継ぐ形で、志ある人材の育成に尽力しました。

吉田松陰先生の実家である杉家の旧宅です。杉家は代々毛利家に仕え川島に住んでいましたが、1813年(文化10年)に川島で起きた大火事に巻き込まれ松本村に転居しました。

新道の生垣

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東光寺の創建時に作られた道です。昔からの生垣が残っています。

廣厳寺

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境内には、楫取素彦の息子道明が父素彦のために作った茶亭が移築されている。

越中長屋跡

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長州藩の永代家老として毛利家に仕えた益田家の下屋敷長屋を越中長屋と呼んでいました。幕末の当主益田親施は13代藩主毛利敬親を助け藩政改革を行いましたが、禁門の変の責任者として切腹させられました。

人丸神社

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柿本人麻呂を祀っています。月見川原の源に位置し、風流優雅な清遊地にあります。

手水川刑場跡

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藩政時代の刑場の跡です。1758年(宝暦8)藩医の栗山孝庵が国内で2番目の解剖を行った場所でもあります。

旧宅:伊藤博文が安政元年から住んでいた茅葺き屋根の家です。 別邸:東京にあった建物を移築復元したものです。優れた近代和風建築です。 ↓施設の詳細はウェブサイトにてご確認ください ↓施設の詳細はウェブサイトにてご確認ください 【伊藤博文旧宅】https://www.hagishi.com/search/detail.php?d=100012 【伊藤博文別邸】https://www.hagishi.com/search/detail.php?d=100013

江戸初期の鋳造所です。大筒やその他の武具を造っていました。

山田顕義は松下村塾の塾生で、四境戦争や戊辰戦争で活躍しました。維新後には岩倉使節団に随行して欧米を視察し、後には初代司法大臣になるなど、法治国家の建設に尽力しました。

吉田松陰先生の墓は団子岩とよばれる小高い風光明媚な所に建っています。この墓所には久坂玄瑞や高杉晋作などの墓も立ち並んでいます。

東光寺 総門

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ベンガラ塗りの赤い門です。正面には「護国山」の額が掲げてあります。

玉木文之進は吉田松陰先生の叔父にあたり、学識に優れ、幼い松陰を指導した人物です。松下村塾の創始者でもあります。 ↓施設の詳細はウェブサイトにてご確認ください 【玉木文之進旧宅】https://www.hagishi.com/search/detail.php?d=100047

月見川の北側は、城下の唐樋の札場から延びる石州街道の分岐点で、周辺から入ってきた人や荷物が集まる場所としてにぎわいました。

品川弥二郎は松下村塾の塾生で、信用組合制度の普及に努めるなど、近代国家の成立に尽力しました。

東光寺は三代藩主吉就公毛利家の菩提寺です。大雄宝殿は複雑な建築技術を駆使して建てられた大本堂です。

殉難烈士の墓

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幕末の長州藩では正義派と俗論派(恭順派)とに分かれて激しい政争が起きていました。1864年(元治元年)の禁門の変(蛤御門の変)に敗れた際、責任を取るために正義派の家老達を含め多くの志士が犠牲となりました。

3代藩主吉就公から11代までの奇数代の藩主夫妻の墓所です。家臣たちが寄贈した約500基の石灯籠が立ち並びます。

東光寺 鐘楼

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4代藩主吉広公の寄進した梵鐘です。

東光寺 三門

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10代藩主斉煕公の寄進した、二重楼式の立派な門です。

郡司鋳造所は明治以後廃止されたため、遺跡としてそのまま残っていました。道路改良工事のため、鋳造所の中心施設である大砲鋳造の石組みなどの遺構を現地で保存する事が出来なくなり隣接地に遺構広場を造り大砲鋳造の石組みなどの遺構が移築復元されました。特に日本唯一の大砲鋳造の石組みの移築は初めての試みです。

松陰神社

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1890年(明治23)、吉田松陰先生の実家である杉家を中心に塾生や有志の協力により、松下村塾の南西隣に土蔵造りの神祠が建立され、杉家で春秋に祭儀を営まれていたのが松陰神社の始まりです。拝殿は萩城内にあった毛利家宮崎八幡宮を移築したものです。

松浦松洞は松下村塾の塾生で、村塾の基礎づくりに尽力しました。また絵を得意とし、安政の大獄で松陰先生が江戸に送られる際に松陰先生の肖像画を描きました。

吉田稔麿は松下村塾の塾生で、松下村塾四天王の1人でもあります。幕府の情報収集に尽力しましたが、池田屋事件で命を落としました。

幽霊坂

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伊藤博文別邸の下手にある坂道です。1600年~1700年代は土葬墓が主体で、新しいお墓が設けられる度に夜中になると人魂が付近一帯に浮遊していた、という伝承に由来します。

楫取素彦(小田村伊之助)は吉田松陰先生と交流があり相談相手になっていた人物で、維新後は初代群馬県令となって群馬県政に貢献しました。松陰先生の妹の寿と結婚しましたが後に病気で死別、その後その妹の文と再婚しました。

毛利輝元の招致した朝鮮陶工の李勺光・李敬兄弟らが開いた萩焼の窯の跡です。後に弟の李敬は藩主から坂高麗左衛門の名を賜り、代々襲名してきました。

1854年(安政元年)、下田海岸に停泊したペリー艦隊を、下田海岸の丘の上より松陰先生と金子重之助が望見している像です。1967年(昭和43)明治維新百年記念に建立しました。

吉田松陰先生誕生地は萩の町並みを一望に見下ろせる小高い処にあり、松陰先生は19歳までこの景観を眺めながら父親から農作業や学問の手ほどきを受けました。松陰先生が生涯の3分の2を過ごした場所です。