神田祭の巡行路や歴史を古地図で散歩:東京全図 (1893年)
神田祭の巡行路や歴史を古地図でぶらぶら散歩してみませんか?実は神田祭の巡行路は時代によって変化しています。散歩のお供にぴったりのウェブアプリUP TOKYO BURARI(アップトウキョウぶらり)。文化資源会議の地図ファブチームは、東京の根津、谷中、上野、神田、御茶ノ水、水道橋、皇居周辺を中心にした「文化資源地区」の地図、マップを資源として収集・アーカイブしています。文化資源会議で再発見された歴史や文化、文芸、アートを地図にのせてお届けします。
明治25年『市郡変称東京全図』より、神田祭と文化資源区に関わる部分を抽出
update date: 2019.10.09
このマップ(地図)を見るNumber of spots : 27spots
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神田祭に登場したケロロ軍曹 default category
神田祭に登場したケロロ軍曹 ©吉崎観音/KADOKAWA・BNP・テレビ東京・NAS・BV 平成21年(2009)5月の神田祭で出されたケロロ軍曹のバルーン。前年6月に発生した無差別殺人の悲劇のあと歩行者天国もなくなった秋葉原に再び元気を取り戻すため、「アキバに元気を取り戻そう!」とメッセージをこめて、子供たちが元気一杯に大好きなケロロ軍曹の曳き物を賑やかに引っ張った。またこの年、ケロロ軍曹生誕10周年でもあった。アニメとのコラボバルーンはこれが初めてであった。(岸川雅範) 神田神社『神田祭公式ガイドブック 平成21年版』、神田神社、平成21年
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明治の将門塚1 default category
明治の将門塚1 明治31年(1898)に出版された雑誌『風俗画報』の臨時増刊『新撰東京名所図会』の第16編(「麹町区之部上」)に出てくる大蔵省庭園の図。この庭園付近が神田明神旧鎮座地だと考えられていた。左下に描かれた園内の古碑を中心として、いわゆる「将門塚」が後に整備されていった。明治時代の大蔵省は今日の千代田区大手町一丁目にあり、その庭園は幕末の同地にあった姫路藩上屋敷の庭園の要素を大きく保っていた。大蔵省庭園は関東大震災後の復興工事で姿を消した。(松田陽) 東陽堂1898『新撰東京名所図会』第16編(『風俗画報』175号)「麹町区の部上」
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武内宿禰人形山車 default category
武内宿禰人形山車 江戸時代の神田祭で、三河町四丁目が三十一番目に出していた山車。船型とも言われる珍しい形をしている。三河町四丁目は、現在の千代田区神田司町二丁目付近。 上に乗る人形は武内宿禰。この山車人形は現存しており、現在、東京都青梅市森下町が所有している。1871年頃に同町が三河町四丁目から購入したと言われており、人形は1848年作。(岸川雅範) 『神田明神祭礼図巻』神田神社蔵、北原進・監修『大江戸透絵図ー千代田から江戸が見える(全国版)』(江戸開府400年記念事業実行委員会、2003年)
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千代田区のフィルムツーリズム02 default category
千代田区のフィルムツーリズム02 伝説のドラマ『探偵物語』。1979年から1980年まで日本テレビ系列で放送され大ヒットした松田優作主演の探偵ドラマ。松田優作演じる主人公の私立探偵・工藤俊作が工藤探偵事務所を構えていたのは、実は千代田区淡路町二丁目の同和病院であった。病院の建物は現存しないが、食からぶらりで紹介した松榮亭にいくと、昔の店舗を写した写真の左端に病院の姿が確認できる。ちなみに工藤が仲間たちと食事をしていたのも松榮亭だった。探偵事務所のステンドガラスの一部が建て壊す際に記念として残され、こちらも店内に飾ってある。(岸川雅範) 『探偵物語』Blu‐ray BOX(初回生産限定)、TOEI COMPANY,LTD.(TOE)(D)、2015年
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千代田区のフィルムツーリズム01 default category
千代田区のフィルムツーリズム01 『私をスキーに連れてって』という映画はご存知だろうか?ホイチョイ・プロダクションによるユーミンの歌が流れる中、繰り広げられる冬のラブストーリー。1987年公開。当時再びブームになりつつあったスキー、カローラⅡといったスポーツカー、全てがおしゃれな雰囲気に包まれていたことを覚えている。この映画のロケ地の一つが神田駿河台にあった旧・日立製作所本社(現在の御茶ノ水ソラシティ)。主人公・矢野文男(三上博史)が勤める商社として使われ、窓の外に秋葉原電気街のネオンが映っていた。(岸川雅範) 『私をスキーに連れてって』DVD、ポニーキャニオン、2003年
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明治の将門塚2 default category
明治の将門塚2 明治40年(1907)刊行の織田完之著『平将門故蹟考』に描かれた「将門塚」。田中長嶺(1849-1922)による画。織田完之(1842-1923)が展開した将門公復権運動の中で、大蔵省構内の神田明神旧鎮座地が「将門塚」として広く認識されるに至った。図中では小高い山、その手前の石造構造物と背後の高木、さらにその前にある池が目立ち、現在の将門塚とはかなり様子が異なっていたことが読みとれる。今日も神田神社神幸祭(いわゆる神田祭)ではこの神田明神旧鎮座地/将門塚の前で神事が執り行われる。(松田陽) 織田完之1907『平将門故績考』(碑文協会)岸川雅範2003「将門伝説と織田完之」『国学院大学大学院紀要 文学研究科』34号
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大正の将門塚 default category
大正の将門塚 大正15年(1926)に出版された佐藤隆三著『江戸傳説』内の「将門塚」の写真。大正12年(1923)の関東大震災の後の復興工事により、将門塚は大きく姿を変えることになる。大蔵省の仮庁舎を建設するために古蹟保存碑が立っていた小山は完全に除去された。その工事の様子を映した貴重な写真である。将門塚はそれからも幾度も変遷を遂げ、今日に至っている。(松田陽) 佐藤隆三1926『江戸傳説』(坂本書店)
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大江山凱陣 default category
大江山凱陣 神田祭で七番に行列を出した須田町一丁目による附祭の仮装行列。内容は「大江山鬼賊退治」で同町の山車人形「住吉明神」が鬼退治の時に源頼光たちを助けた話にちなんで出された行列であった。平成19年、大江山凱陣の曳き物をバルーンで復元した。その後、文化資源学会の復元プロジェクトにより、源頼光はじめ武将などの仮装行列が出された。須田町一丁目は、現在の須田町一丁目とほぼ同じ。(岸川雅範) 『神田明神祭礼図巻』江戸時代、神田神社蔵
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司馬江漢が描いたと伝えられる神田祭 default category
司馬江漢が描いたと伝えられる神田祭 有名な江戸後期の絵師・司馬江漢が書いたと伝えられる神田祭。図は東京大学史料編纂所に写真資料として所蔵されている。写真の台紙には「伝 司馬江漢画 大田南畝賛 神田祭図」とあり、子爵・松平慶民が所蔵していたことが書かれている。文字が反転しているので、実際のものは写真をひっくり返したものなのであろう。江戸城の門を祭礼行列が通っていく姿を描いている。残念ながらどこの門を通っている絵なのかは一見しただけではわからない。面白いのは、城門をくぐる時に山車人形部分を倒して通していることである。(岸川雅範) ※写真は左右反転、トリミングして掲載
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スポーツ店街 default category
スポーツ店街 古書店街から駿河台下の交差点をはさんで、神田のスポーツ店街が広がっています。本・音楽・スポーツ・食という複数の要素が一地域に集中することで、現代の神田界隈特有の面白さが作られているといっても過言ではありません。お店の多くは神田明神の氏子でもあり、神田祭を支える原動力にもなっています。(鈴木親彦)
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花咲爺さんの引き物 default category
花咲爺さんの引き物 1825年の神田祭で御雇祭という出し物で出された行列の一つ。御雇祭とは、江戸幕府が一部費用を負担して氏子外の町が出した行列で、特に大奥女中たちが内容についてリクエストを出したりした。1825年はこの御雇祭が最も多く出た年で絵巻物にも書かれたりした。図の花咲爺さんの引き物は、国立国会図書館蔵『神田明神御祭礼御用御雇祭絵巻』に描かれたもので、住吉町という町が出した。住吉町・同裏河岸は現在の中央区日本橋人形町2、3丁目。花咲爺さんの引き物の他に分福茶釜の引き物なども出した。ちなみに下の写真は平成25年、神田明神と文化資源学会により復元されたもので、以後、毎回神田祭で出されている。(岸川雅範) 都市と祭礼研究会『江戸天下祭の世界―うたい おどり ばける―』岩田書院、2011年
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3331 Arts Chiyoda default category
3331 Arts Chiyoda 3331は旧練成中学校を利用して誕生したアートセンターです。アートにとどまらず、様々な活動の拠点として活用されています。神田祭の期間に合わせて、江戸の橋をテーマにした特別企画展「橋を渡る〜東京から江戸へ〜」も開催予定です。(鈴木親彦)
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神保町古書店街 default category
神保町古書店街 日本一、世界に誇る古書店街として有名な神保町。新旧様々な店による魅力あふれる街区です。この地点には、神保町の魅力を紹介する拠点である「本と町の案内所」があります。お立ち寄りください。(鈴木親彦)
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東京文化資源会議事務所 default category
東京文化資源会議事務所 「神田祭ぶらり」の開発者である「神田祭ラボ」が属するのが「東京文化資源会議」です。この会議では神田のみにとどまらず、東京の北東部の谷根千、根岸一帯にはじまり、上野、本郷、秋葉原、神田、神保町、湯島に至る地区を文化資源区と考え、東京から全国に、さらに文化資源を備える海外の都市にも波及する世界的なモデルを作ってきます。(鈴木親彦)
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孔子祭と湯島聖堂 default category
孔子祭と湯島聖堂 湯島聖堂では毎年4月に孔子祭が執り行われている。 江戸時代には、釈奠と呼ばれ2月中丁の日(14日ころ)に、孔子をはじめ中国の先聖導師が祭られた。元禄4年(1891)に初めて聖堂で行われた。現在、毎年4月第4日曜日に湯島聖堂で行われる祭で神田明神の神職が奉仕している。湯島聖堂は元禄4年(1691)に幕府の儒臣・林家の邸内にあった孔子廟を湯島に移し教育施設を併設したところから始まり、その後、昌平坂学問所として主として儒学が講じられ研究された。 明治に入ると学校と改称され、さらに大学校、大学と改編された。そして明治4年(1871)に文部省が置かれ聖堂は博物館と称した。明治5年(1870)3月に行われた文部省による博覧会を描いたもの。主に古器旧物が展示され、入場者は15万人を数えた。 釈奠は明治時代に入りしばらく中絶したが、明治40年(1907)に結成された孔子祭典会により、同年4月に復活した。大正7年に財団法人斯波会が結成され現在にいたっている。神田明神の神職が奉仕するようになったのは、おそらく明治40年からであろう。(岸川雅範) 史跡湯島聖堂サイト
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音楽店街 default category
音楽店街 駿河台の明大通りを中心に、御茶ノ水駅周辺には音楽店街が広がっています。近隣大学出身のミュージシャンは数多く、彼らが青春を過ごし、技を磨きあった町でもあります。「食」のカテゴリーでも紹介しているキッチンカロリーの常連を中心に、音楽の街御茶ノ水をアピールする活動も盛んです。 (鈴木親彦)
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日露戦争凱旋行進時の山車 default category
日露戦争凱旋行進時の山車 日露戦争の戦地から、明治38年(1905)9月にまず海軍が、つづいて12月に陸軍が凱旋した。いずれも勝利を祝う集会が上野公園で開かれた。凱旋軍は東京の目抜き通りを行進し、万世橋を渡って上野に向かった。12月17日、そのころには神田祭で曳き回されなくなっていた山車が万世橋の袂に勢揃いして、日本の勝利を讃えた。左端の熊坂長範の人形(連雀町)は神田神社に現存する。(木下直之)
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明治17年の神田祭 default category
明治17年の神田祭 明治17年(1884)9月16日に、今川橋近くで、浅草の写真師江崎礼二(えざきれいじ)によって撮影された。台風一過のこの日、朝早くから46本の山車が曳き回されたが、写真には合わせて2本の山車が見える。もう一枚には、前から福田町の大黒、鍛冶町(かじちょう)の小鍛冶(こかじ)、東紺屋町の珊瑚樹(さんごじゅ)の山車が写っている。たいへんな賑わいだ。(木下直之)
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上野公園一帯 default category
上野公園一帯 上野公園一帯周辺は、江戸時代の寛永寺や今も残る寺社、博覧会場としての記憶、公園、動物園、美術館・博物館など様々な顔を持ち、江戸から現在まで重層的に文化が蓄積されています。東京文化資源会議では、その中でも特に上野南地区にある、アメ横、御徒町、上野広小路、湯島、不忍池などに着目し、その豊かな文化資源を活用した新しいまちの魅力を引き出すべく、各分野の関係者からなる検討会を立ち上げ、2020年はもちろん、2030年以降を見越したソフト・ハード両面に及ぶまちづくり構想「上野スクエア構想」を企画しています。(鈴木親彦) 東京文化資源会議Webサイトhttp://tohbun.jp/
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大鯰と要石 default category
大鯰と要石 神田祭で三十五番に行列を出した白壁町の鹿島踊を題材にした仮装行列。白壁町は現在の千代田区鍛冶町二丁目の一部。神田祭で白壁町が出したのは、恵比寿神人形を乗せた山車であった。恵比寿神は神無月・10月に鹿島大神に代わって鹿島神宮にある要石を押さえるために留守番する神であったという伝承から、この大鯰に要石が乗った曳き物が作られたのであろう。平成17年、地震除けの願いが込められバルーンを使用して復活した。(岸川雅範) 『神田明神祭礼図巻』江戸時代、神田神社蔵
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江戸時代の神田明神社殿 default category
江戸時代の神田明神社殿 神田明神の御社殿は、元和2年(1616)はじめて江戸幕府により御造営が行われ、明暦の大火により焼失し寛文元年ふたたび幕府の命により再建された。しかし明和9年(1772)2月29日に発生した江戸三大火事のひとつで江戸城本丸にも及ばんとした明和の大火(目黒行人坂の火事)により、またも御社殿は灰に帰してしまった。その後約10年間は仮殿において奉仕されていたが、10代神主好全の時、徳川将軍第10代家治が願主となり安永8年(1779)正月28日より御社殿の再建がはじめられ、天明2年(1782)2月27日に竣功し翌日遷座の儀が執り行われた。江戸時代後期を代表する御社殿と言われた。この御社殿は幾度かの類焼・破損はあったものの焼失はまぬがれた。しかし大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災により全焼してしまった。(岸川雅範) 木村信嗣「神田神社」明治33年(『将門関係書類』13、流通経済大学・祭魚洞文庫蔵) 『江戸神田明神社殿平面図』江戸期
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斎藤月岑居宅跡(生誕の地) default category
斎藤月岑居宅跡(生誕の地) 江戸の文化人として神田で有名な斎藤月岑を顕彰するため、神田在住の人々を中心に結成された斎藤月岑顕彰碑を建設する会により、平成16年11月27日建碑された。斎藤月岑は、江戸時代に町名主を代々つとめた古町名主・斎藤市左衛門の出で、月岑は9代目にあたった。斎藤家が町名主をつとめた町々は雉子町、三河町三丁目、同裏町、三河町四丁目、同裏町、四軒町(現・神田司町二丁目、神田美土代町周辺)で、神田明神の氏子町とも重なり、神田祭の準備から取締、祭後の会計処理にも従事した。また文化人として、江戸の関する編纂物も版行している。中でも『江戸名所図会』、『東都歳事記』『武江年表』が有名で、今でも江戸文化を知る上での欠かせない資料である。また東京大学史料編纂所には『斎藤月岑日記』が所蔵され、岩波書店より翻刻も出版されている。(岸川雅範) 千代田区日比谷図書文化館 文化財事務室『平成27年文化財特別展 馬琴と月岑ー千代田の“江戸人”ー』千代田区教育委員会、2015年 東京大学史料編纂所『大日本古記録 齋藤月岑日記』1~10、岩波書店、1997~2016年
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佐竹稲荷神社 default category
佐竹稲荷神社 寛永12年(1635)、秋田佐竹藩江戸屋敷の鬼門除けのため邸内へ勧請され創建された。天和2年(1682)大火後、翌年佐竹藩邸が下谷池之端へ移転 屋敷跡が蝋燭町、皆川町などの町屋になり町の火伏・守護神として信仰される。明治2年(1869)、佐竹家家紋が扇に日の丸であったため、この界隈を旭町と命名、町の鎮守として祀られる。5年に神田明神の兼務社となる。関東大震災後、区画整理のため現在地に遷座し、昭和30年に総檜御霊屋造の本殿復興し宗教法人化した。法人化に伴い佐竹稲荷奉賛会が旭町町会の人々を中心に結成された。(岸川雅範) 東京都神社庁『東京都神社名鑑』上巻、東京都神社庁、1986年、千代田区教育委員会『千代田の稲荷 区内稲荷調査報告書』千代田区文化財報告書17、千代田区教育委員会、2008年
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松尾神社 default category
松尾神社 稲荷神(宇迦之御魂命)、大山咋神、中津島姫命を祀る神社。神田青果市場と神田多町2丁目の守護神として崇敬される。創建年代は不明であるが、もともと神田多町に鎮座していた。その後、1873年に神田明神の兼務社となり、市区改正の影響により1893年に神田明神の境内に遷座した。1953年に松尾神社維持会が結成され毎年神事が行われている。 なお東京大学史料編纂所に所蔵する『齋藤月岑日記』1875年8月14日の日記に「多二神輿かつき出す」と書かれており、さらにこの神輿について「多二丁メニ而昨年平親王神輿市場のもの申合、三百円余相封神輿出来候処、町内鎮守松尾稲荷神輿再興之名目ニ而、十四・十五日町内限相渡シ申度、先月聞済相成候ニ付渡す、」(東京大学史料編纂所『大日本古記録 齋藤月岑日記』10、岩波書店、2016年、156頁)と、松尾神社の神輿に平将門公の神霊をお乗せしたことが書かれていて、非常に興味深い。この日記が書かれた前年1874年は、平将門公が神田明神の祭神から同社境内にある大国主神社に遷座した年で、この記事から様々なことを考えることができるかもしれない。(岸川雅範) 東京都神社庁『東京都神社名鑑』上巻、東京都神社庁、1986年、千代田区教育委員会『千代田の稲荷 区内稲荷調査報告書』千代田区文化財報告書17、千代田区教育委員会、2008年
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力石 default category
力石 力石とは、河岸などで働く力自慢の若者たちが「力くらべ」に使った2~30貫くらいの石のことで、各地の神社仏閣に奉納された。神田明神の力石は直径80cm・短径67cm、1822年12月に神田仲町2丁目の柴田四郎右衛門が持ち上げたものである。江戸の若者たちの生活・娯楽を垣間見ることができる資料として、1991年に千代田区有形民俗文化財に指定。この力石を持ち上げた柴田四郎右衛門の子孫には、幕末期に文久遣欧使節組頭さらに外国奉行をつとめた柴田剛中がいます。また現在の子孫の一人・柴田朱雀氏は「江戸隠密 武蔵一族」18代頭首として忍者集団を率いています。武蔵一族サイトhttp://shinobinoshu.the-ninja.jp/(岸川雅範) 中村薫『神田文化史』秀峰閣、1935年 千代田区の文化財サイトhttp://hibiyal.jp/data/card.html?s=2&cno=1080
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江戸時代、湯島1丁目が出した祭礼行列(附祭行列) default category
江戸時代、湯島1丁目が出した祭礼行列(附祭行列) 江戸時代の神田明神の氏子町・湯島1丁目と旅籠町が連合で附祭という祭礼行列を出した。附祭とは江戸時代に流行した行列で、踊台、底抜屋台、仮装行列など多様な出し物で構成され、各町の山車とともに出された。湯島1丁目は現在の文京区湯島1丁目、旅籠町は現在の千代田区外神田1、2丁目周辺にあたる。 この附祭は12か月の江戸の年中行事を元に、その月々に連想される出し物を雑多に出している。一部を紹介しよう。 上図は、2月の稲荷祭・初午の仮装。江戸の稲荷でとくに有名なのは王子稲荷で、稲荷に奉納される絵馬、狐、王子土産で火事除けのお守りにされた火防奴凧の仮装というか着ぐるみを着て歩いている。下図は、蜂、蟹、柿の木に登った猿、栗、臼、杵の仮装行列で、秋と猿蟹合戦をかけあわせた出し物。黒い全身タイツにそれぞれ被り物をした人々がコミカルな動きをしているであろう姿に思わず笑ってしまいそうだ。これらの描かれれている史料は『文政六年神田祭湯島一丁目旅籠町附祭絵巻』で現在神田明神に所蔵されている。江戸時代の祭礼ではこうした附祭の仮装行列は当たり前のように出された。これらの行列には、歌舞音曲など様々な要素が盛り込まれていたが、その一つとして、このような歌舞伎の「道外所作」に通じる、いわゆる「お笑い」も大事な要素であった。(岸川雅範) 福原敏男『江戸最盛期の神田祭絵巻―文政六年 御雇祭と附祭―』渡辺出版、2012年
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江戸時代、旅籠町が出した祭礼行列(附祭行列) default category
江戸時代、旅籠町が出した祭礼行列(附祭行列) 江戸時代の神田明神の氏子町・湯島1丁目と旅籠町が連合で附祭という祭礼行列を出した。附祭とは江戸時代に流行した行列で、踊台、底抜屋台、仮装行列など多様な出し物で構成され、各町の山車とともに出された。湯島1丁目は現在の文京区湯島1丁目、旅籠町は現在の千代田区外神田1、2丁目周辺にあたる。 この附祭は12か月の江戸の年中行事を元に、その月々に連想される出し物を雑多に出している。一部を紹介しよう。 上図は、2月の稲荷祭・初午の仮装。江戸の稲荷でとくに有名なのは王子稲荷で、稲荷に奉納される絵馬、狐、王子土産で火事除けのお守りにされた火防奴凧の仮装というか着ぐるみを着て歩いている。下図は、蜂、蟹、柿の木に登った猿、栗、臼、杵の仮装行列で、秋と猿蟹合戦をかけあわせた出し物。黒い全身タイツにそれぞれ被り物をした人々がコミカルな動きをしているであろう姿に思わず笑ってしまいそうだ。これらの描かれれている史料は『文政六年神田祭湯島一丁目旅籠町附祭絵巻』で現在神田明神に所蔵されている。江戸時代の祭礼ではこうした附祭の仮装行列は当たり前のように出された。これらの行列には、歌舞音曲など様々な要素が盛り込まれていたが、その一つとして、このような歌舞伎の「道外所作」に通じる、いわゆる「お笑い」も大事な要素であった。(岸川雅範) 福原敏男『江戸最盛期の神田祭絵巻―文政六年 御雇祭と附祭―』渡辺出版、2012年