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吉田理容所
史跡

酒造業と海運業で財を成した鴻池家は、1656年 (明暦2) に両替屋を始め、1674年(延宝2)に現在地の今橋通に内久宝寺町より両替店を移しました。1854年(嘉永7)には長者番付の最高位で東の大関となるほどの豪商でした。明治になると大名貸しの貸し倒れにあいますが、第十三国立銀行(鴻池銀行、現三菱UFJ銀行)などを設立します。鴻池本宅は、1947年(昭和22)大阪美術倶楽部に売却され、現在に至っています。

「俵物」とは、江戸時代、干し鮑・フカヒレなどを俵詰めしていたことによる呼称です。当時は中国の高級食品として需要が高く、輸出されていましたが、銅の替わりに海外貿易の決済としても使われるようになりました。幕府は、1744年(延享元)俵物を特定の商人しか売買できないように独占集荷体制をつくり、長崎、大坂、下関に会所を設置しました。大阪俵物会所は、当初備後町にありましたが、1777年(安永6)北浜に移りました。

初代の淀屋常安が北浜で材木商を創業し、大阪の陣の後、淀川の改修や中之島の開拓で業績を伸ばしました。二代目の淀屋个庵(こあん)は、「米市場・魚市場の開設」「国内外の交易」「大名貸しに代表される金融業」などの幅広い事業を起こし、莫大な財を築くとともに、商都大坂の繁栄の基礎をつくりました。淀屋の屋敷は土佐堀川に面し、東西は心斎橋筋から御霊筋付近にまで及び、約1万坪あったと言われています。

松瀬青々は1869年(明治2)、現在の北浜4丁目に生まれた俳人です。1899年(明治32)に上京して『ホトトギス』の編集に従事します。大阪に戻った後、俳句雑誌『宝船』を主宰し、流麗自在の排風を開き、大阪俳壇の基礎を築きました。
1879年(明治12)、この地に大阪交換所(のちの大阪手形交換所)が開設され、わが国最初の手形交換を始めました。東京での開設はこれより8年後でした。以来100年、手形取引の健全な育成と大阪経済の繁栄に貢献しました。
オッペケペー節で知られた川上音二郎が、新しい演劇の拠点として1910年(明治43)に建築したのが帝国座です。1000人を収容する純洋式劇場で「オセロ」「ベニスの商人」などが上演されました。しかし、帝国座開場の翌年、音二郎は旅先の舞台で倒れ、病院から帝国座に運び込まれ楽屋で臨終を迎えました。享年47歳。葬儀は別れを惜しむ大阪市民が街を埋め尽くしたと言われています。

1886年(明治19)に愛日小学校が誕生し、1896年(明治29)にこの地に移転しました。1990年(平成2)に集英小学校と統合、開平小学校が新設されたことにより閉校になりました。愛日小学校の前身の北浜小学校は、1872年(明治5)に豪商「升屋(ますや)」(山片家)が自らの居宅を寄贈してできた小学校で、その際に一緒に寄贈された山片家の蔵書などは愛日文庫として、現在、開平小学校に保管されています。

現在の開平小学校のある地に、1897年(明治30)集英小学校が誕生、校舎は「今橋の御殿」と呼ばれた立派な木造校舎でした。1927年(昭和2)に、室内プールやエレベーター、暖房など近代設備が完備した鉄筋コンクリートの新校舎に建て替えられました。1990年(平成2)に愛日小学校と統合、開平小学校が新設されたことにより閉校になりました。

両替屋が生まれたのは、大坂では1628年(寛永5)天王寺屋五兵衛が始めたのが最初だと言われています。両替屋の最有力者十人両替の天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛の2軒が、道をはさんで店を構えていたことから、「十兵衛横町」と呼ばれました。開平小学校が平野屋の屋敷跡です。

1766年(明和3)銅の管理を行う銅座がここに置かれました。江戸時代、銅は重要な輸出品で、大坂は当時の銅精錬業の中心でした。諸国の銅山より産出した粗鋼は銅座がすべて買い上げ、大坂で技術を競っていた銅吹き仲間に精錬をさせた後、再び集めて海路長崎に送り輸出されました。銅の密売を防ぐために、古銅類買い上げの精細な規定がつくられ、銅器の破片にいたるまで管理されていました。1880年(明治13)、跡地に愛珠幼稚園が設けられました。
緒方洪庵は、当時多数の死亡者を出していた天然痘の予防のため、多くの医師とともに1849年(嘉永2)除痘館(私立種痘所)をつくり、種痘をおこないました。その場所ははじめ古手町(道修町4丁目)でしたが、1860年(万延元)にこの場所に移し、全国に種痘ワクチンを送って幅広く活動しました。

1724年(享保9)、三宅石庵と中井甃庵を教授に迎え、5人の町人が出資して、町人のための私塾、懐徳堂を創設しました。ここでは教養としての学問だけでなく、実用的な学問を教えました。2年後、甃庵らの奔走により、幕府から大坂学問所として公認されました。懐徳堂では、身分に関係なく学問を志すものがならばだれでも学問を習うことができ、山片蟠桃はじめ多くの知識人を輩出しました。

当時、高麗橋付近は大商人たちが商いを行い、近畿圏の経済の中心となっていました。道路の起点は高麗橋からとし、道のり計算のスタート地点は橋の東詰でした。碑には「東京日本橋まで百四十三里二十丁、京都三条大橋まで十三里十二丁、神戸元町まで九里三十五丁」と刻まれています。

銀目取引の廃止と、貸し倒れによる富豪や両替商の資産消失など、低迷期にあった大阪経済を立て直すべく、大阪財界指導者15名により1878年(明治11)に大阪商法会議所が設立され、今日の大阪商工会議所の礎となりました。初代会頭は五代友厚で、大阪経済の復興に大きく貢献し、1928年(昭和3)大阪商工会議所と名称を変更しました。(現在、建替工事に付き史跡見学不可)

江戸時代の大坂は、大川以南から本町通までの北組、本町通から道頓堀あたりまでの南組、大川以北の天満組に区分され、その3組を総称して大坂三郷と呼ばれていました。各組で、年貢の取り立て、御触の通達、火消しの人手の指揮など、現在の市役所・司法・消防・警察の役割を担っていた場所が惣会所でした。

儒学者・藤澤東畡が1825年(文政8)に、民衆に漢学を教える私塾として泊園書院を設立しました。現在、石碑が建つ場所に塾が移されたのは1876年(明治9)で、最盛期には塾生は100名に達したといわれています。泊園書院の2万冊余りの蔵書は、現在、関西大学に泊園文庫として保存されています。

近松門左衛門の世話物の代表作『冥土の飛脚』に出てくる飛脚問屋亀屋が淡路町にあったことから、この場所に石碑が建てられました。この物語は実話の為替金横領事件を題材に脚色されたもので、遊女梅川に入れあげる忠兵衛が養子に入ったのが、飛脚問屋の亀屋でした。
動王派四天王に数えられた幕末の志士佐久良東雄は、1847年(弘化4)、坐摩神社の神官・渡辺資政との縁で来阪し、境内に住んでいました。1860年(万延元)3月、桜田門事変で首謀者を庇護したことにより幕府に捕らえられ、獄中で亡くなりました。

松尾芭蕉は、伊賀上野に生まれ、西山宗因に学んだ後江戸に出て、その後は生涯、日本各地を旅して俳句を詠みました。1694年(元禄7)10月に、この場所にあった花屋仁右衛門の裏座敷で51歳の生涯を終えました。南御堂境内には、松尾芭蕉の句碑があります。

1811年(文化8)、難波神社の稲荷社に浄瑠璃小屋が建てられました。のちに松島に移転した際に「文楽座」と名乗り、初めて「文楽」が誕生します。1884年(明治17)、別の一派が再び稲荷社で人形浄瑠璃を始め、同じ年に御霊神社に移った文楽座とともに、船場の社交の場として栄えました。

江戸時代、町人の出資により江戸に留学して蘭学を学んだ橋本宗吉は、帰阪後、私塾・絲漢堂を開きました。絲漢堂で指導を受けた中天游は、宗吉の精神を継いで蘭学塾を開き、その門下生には緒方洪庵がいました。宗吉の精神は脈々と受け継がれ、現代の大阪医学の礎となっています。
北浜レトロビルヂング
北浜レトロビルヂング
北浜レトロビルヂング

1912年(明治45)に株仲買商の商館として建てられた小規模な英国式洋館です。長年放置されていたところを現在のオーナーが買い取り、「往時の姿を再生したい」という想いから1997年(平成9)に大規模なリノベーションを実施。純英国式ティールームとして生まれ変わりました。 2階の客席からは、中之島のバラ園を臨むことができます。 建物は国の登録有形文化財に指定されています。 所在地:大阪市中央区北浜1丁目1-26
北浜長屋
大阪倶楽部
日本生命保険相互会社本館
日本生命保険相互会社本館
日本生命保険相互会社本館

1889年(明治22)に創立された日本生命は、1902年(明治25)に現在の場所に本店を構えて以来、この地で営業を続けています。最初の赤煉瓦の洋館は、細い路地の頃の御堂筋沿いにあり、正面玄関は心斎橋筋に面していました。現在の本館は、1938年(昭和13)に北半分が完成、戦争中は工事が中断し、戦後はGHQに接収され、1962年(昭和37)にようやく全体が完成しました。 最上階の軒飾り以外は石張りのシンプルなデザインとなっています。 所在地:大阪市中央区今橋3丁目5-12
愛珠幼稚園
スポット

壁面を七福神がカヌーを漕いで登っていくのが印象的なビル大阪の中小・ベンチャー企業支援拠点として、経営相談やセミナー、交流会など多様なサービスをおこなっています。また地下には、大阪で活躍した企業家たちを中心に、大阪経済の発展の歴史をわかりやすく展示する大阪企業家ミュージアムがあって誰でも見学できます。休館日(日曜日、月曜日、祝/休日、年末年始、お盆)大人300円 中・高・大学生 100円 小学生以下は無料(保護者、引率者同伴)

浄土真宗本願寺派と大坂の関係は古く、本願寺第8世・蓮如が明応5年(1496)に石山御坊を現在の大阪城の地に建設したのが始まりとされています。天正19年(1591)には豊臣秀吉の寄進により京都に本山が移転しますが、慶長2年(1597)大阪に「津村御坊」という名の別院がにつくられました。その南側に1年後に建てられた南御堂(難波別院)とあわせて江戸時代からいままで「御堂さん」として親しまれてきました。1937年に拡幅工事が完成して大阪のメインストリートとなった御堂筋の名前は、この北御堂・南御堂と呼ばれたこの2つの別院に由来しており、当時の大阪市長・關一が名付けたものです。

愛日小学校の跡地に2008年登場したおしゃれな商業施設です。御堂筋線淀屋橋駅10番出口に直結するビルには、大人のテイストを持つセレクトショップやファッション雑貨店、飲食店などが入っており、オフィス街としての色が濃い淀屋橋エリアのオアシスとして多くの人に利用されています。

浪速の氏神として知られる御霊神社は古く800年代後半の創建。大阪湾が深く入りこんで、葦が繁る円形の入り江に祀られた円神社に始まります。船場という土地柄、商売の縁を結ぶ「縁結びの神様」としての信仰も篤く、船場言葉の御寮人「ごりょんさん」(商家の若奥様)と語呂が似ているところから、「御霊さん」や「御霊はん」と呼ばれ愛されてきました。高層ビルが立ち並ぶ御堂筋にほど近く、都心の癒し空間でもあります。

日本料理の名店「吉兆」は現在の高麗橋に移る前ここにありました。現在は湯木美術館として創業者湯木貞一が集めた茶道具や古美術などのコレクションを収蔵展示しています。重要文化財11点、重要美術品3点。茶室の趣きで作られた展示室は聚楽壁で仕上げた和風造り、一歩足を踏み入れると、都心とは思えない清閑で上質な空間が広がっています。
くすりの道修町資料館
スポット

道修町は江戸時代から今までずーっと全国に名を知られる薬の町。ということで通りにある薬の神社「少彦名神社」には薬の資料館が併設されていて350年まえから残る道修町や薬に関する資料が保存、展示されています。道修町の歴史映像や、江戸の売薬の絵びら(ポスター)や引札(チラシ)、大正から昭和の看板などの展示品を無料で見ることができますよ。
大阪企業家ミュージアム
スポット

「サンソウカン」と呼ばれる中小・ベンチャー企業支援拠点、大阪産業創造館の地下1階にある博物館です。パナソニックの松下幸之助、サントリーの鳥井信治郎、ダイエーの中内㓛をはじめ大阪で活躍した多くの企業家たちの解説や写真、ゆかりの品々を展示しています。未来を切り開くヒントがみつかるかもしれません!

アジア太平洋地域初のマクラーレンショールームとして御堂筋沿いに2012年オープンしました。内装材や家具、照明にいたるまでマクラーレン世界統一コンセプトに基づいて設計されており、展示されているスーパーカーとともにマクラーレンブランドの世界観を感じることができます。

東横堀川は1585年(天正13年)に豊臣秀吉の命により大坂城の西惣構堀として開削された大阪市で最古の堀川です。この東横堀川ぞいにある細長い緑地が東横堀緑道です。上部を阪神高速が通っていますが、緑道沿いには店舗や民家なども点在しており、川に触れることのできる憩いの場となっています。川沿いに南下すると東横堀川は西へ曲がって道頓堀川となります。

開平小学校は、愛日小学校と集英小学校の2校を統合して1990年(平成2)に発足した、船場エリアのなかにある唯一の小学校です。明治時代なかごろの船場には店も住まいも多く、小学校が8つもありました。(現在の連合町会にその名前が残っています。)オフィス街としての色が濃くなって住民が減少し小学校は一つになりましたが、その分、それぞれ歴史ある小学校の伝統や財産などが開平小学校に引き継がれており、建物も教育も地域に対する思いの詰まった小学校となっています。平成に入ってまた船場には居住者が増えはじめ、開平小学校の児童数も現在は増加しています。

中央大通りのど真ん中をどーんと横たわるのが船場センタービルです。全幅はなんと東西約1000m! 高速道路、一般道路のバイパス、地下鉄の構造体と2駅、などが渾然一体となったとてもめずらしい構造物なんですよ。

堺筋に面してガラスブロックを中心としたファサードがひときわ目をひくモダンな建物がフジカワビルです。戦後のビル(1952年竣工)ではありますが、昭和の名建築家村野藤吾の作品で、新ダイビルや新歌舞伎座の建て替えなどで村野作品が減少しているなか、いまでも建設当初の使われ方に近いかたちで愛され使われ続けており、とても貴重な建物です。バルコニーのグリルや階段手摺などに村野藤吾らしいディテールがちりばめられています。

難波神社は仁徳天皇を祭神として建てられたと伝えられ、ほかにも源頼朝が土地を寄進した記録があったりと、歴史上の人物が随所に登場する由緒ある神社です。では難波にあるわけじゃないのに、なぜ難波神社というのでしょう?難波という地名は西成郡難波村に由来していますが、もとは南船場・島之内・下船場・堀江の一帯のことで上難波村(南船場)と下難波村(その他)に分かれていました。というわけでこのあたりはむかし上難波村と呼ばれていた地域なんです。ちなみに現在の難波と呼ばれるエリアは1724年(享保9)の享保の大火の後に、天満橋南詰の本堺町・京橋一丁目・京橋北詰の相生西町と相生東町の一部が火除地となったため、その移転先としてできた難波新地が中心となっています。

南御堂(みなみみどう)と呼ばれ親しまれている真宗大谷派の寺院で、正式な名称は真宗大谷派難波別院といいます。1596年(文禄5)真宗大谷派の開祖である第12世・教如(きょうにょ)が、現在の北区の天満橋と天神橋の間に位置する「渡辺の地」に大谷本願寺を開創したことに始まり、1583年(天正11)豊臣秀吉(とよとみひでよし)が石山本願寺跡に大坂城を築城、城下町を整備していくにあたり石山本願寺に隣接して建っていた大谷本願寺は、秀吉の命により1598年(慶長3)現在地に移転しました。 1602年(慶長7)に徳川家康の寄進によって京都に東本願寺が建立されるまで総本山でしたが、それ以降は大坂第一の拠点寺院として地域に親しまれてきました。 北御堂と呼ばれた津村別院とともに、大阪のメインストリートである御堂筋の語源となっています。
老舗
新井ビル
適塾
高麗橋野村ビルディング
三井住友銀行大阪中央支店
三井住友銀行大阪中央支店
三井住友銀行大阪中央支店

1936年(昭和11)に建てられた古典主義建築の集大成のような建物。正面のイオニア式のジャイアントオーダーなど、銀行建築らしい重厚で格式のある様式になっています。曾禰中條建築事務所の最後の作品でもあります。 2階建てであるため1階の階高が高く、内部空間のボリュームは圧巻。3階壁面の楕円形の飾りは、ローマ神話に登場するメルクリウス(商業の神)の持物です。 所在地:大阪市中央区高麗橋1丁目8-1
三井住友銀行大阪本店ビル
三井住友銀行大阪本店ビル
三井住友銀行大阪本店ビル

住友合資会社工作部による設計で、1926年(大正15)に北側が、4年後に南側が完成しました。 シンプルに見える外壁ですがじっくり観察すると細かな装飾があり、大理石の玄関も威厳が感じられるデザインになっています。 生きた建築ミュージアムフェスティバル(イケフェス)では、ステンドグラスがある共用応接ロビーや営業フロアが特別公開されています。
石原ビルディング
今橋ビルヂング
22少彦名神社
21青山ビル
20伏見ビル
19芝川ビル
17日本基督教団浪花教会
日本基督教団浪花教会
17日本基督教団浪花教会

1930年(昭和5)に建てられた教会で、設計・施工は竹中工務店ですが、設計の指導をアメリカ人の建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズが行っています。ゴシックスタイルの建物で、外観の特徴でもある大きなアーチ窓のステンドグラスが印象的です。当時の姿のまま使い続けられており、パイプオルガンの清らかな音色が響き渡ります。隣には高麗橋ビルディングが建っており、近代建築撮影スポットとなっています。所在地:大阪市中央区高麗橋2丁目6-2
16高麗橋ビルディング
33岸本瓦町邸
31船場ビルディング
30清水猛商店
29旧清水源商店
28生駒ビルヂング
27小川香料大阪支店社屋
小川香料大阪支店社屋
27小川香料大阪支店社屋

大阪が発祥の地である大手香料メーカーの大阪支店ビルで、1930年(昭和5)に建てられました。円弧を用いた窓枠と窓庇を交差させた独特な意匠となっており、玄関上部には八角形のステンドグラスをあしらうなど、全体が当時最先端のデザインであるアールデコでまとめられています。所在地:大阪市中央区平野町2丁目5-5
26武田道修町ビル
25北野家住宅
三木楽器開成館
旧明治屋ビル
旧早稲田屋ビル
綿業会館
丼池繊維会館
24大阪ガスビルディング
大阪ガスビルディング
24大阪ガスビルディング

1933年(昭和8)に安井武雄の設計で建てられ、1・2階の黒い石貼りと上部の白いタイル貼りのコントラストにより巨大な客船を思わせる外観は「都市建築の美の極致」と称されています。1966年(昭和41)佐野正一の設計で増築し、現在も大阪ガスの本社ビルとして使用されています。最上階の食堂は竣工当時から営業しており、文化人で賑わっていました。戦時中は白いタイルにコールタールで迷彩塗装し、空襲を避けたといわれています。所在地:大阪市中央区平野町4丁目1−2
23旧小西家住宅
案内板
43大阪証券取引所ビル
42原田産業株式会社大阪本社ビル
原田産業株式会社大阪本社ビル
42原田産業株式会社大阪本社ビル

1928年(昭和3)竣工の建物で、船場に典型的な間口の狭い敷地に建つ2階建ての洋館となっています。建物は小ぶりですが、左右対称をわざと崩したデザインや重厚なエントランス、バルコニーを持つ大きなガラスの開口部が特徴的です。所在地:大阪市中央区南船場2丁目10-14
41大阪農林会館
40堺筋倶楽部(旧川崎貯蓄銀行大阪支店)
堺筋倶楽部(旧川崎貯蓄銀行大阪支店)
40堺筋倶楽部(旧川崎貯蓄銀行大阪支店)

1931年(昭和6)に「川崎貯蓄銀行大阪支店」として建てられた建物です。当時の銀行建築らしく、重厚感のある切石と左右対称の外観が特徴的で、さらに、正面玄関上部の柱が並ぶ装飾は、ルネサンス様式を思わせるデザインです。建物を壊す計画もありましたが、2001年(平成13)、レストランとして生まれ変わりました。内装は建設当時の金庫室をワインセラーにするなど、各部屋の特徴と魅力を生かして巧みにコンバージョンされました。所在地:大阪市中央区南船場1丁目15-12

















