金沢古地図めぐり

まち歩きが楽しくなる金沢スマホマップ。金沢観光や散策に欠かせない観光マップはもちろん、江戸時代末期の古地図、地元ホテルマンがお薦めするジョギング・ウオーキングマップが、自分の位置と連動しながら金沢の魅力を紹介。 Check out these maps from Kanazawa, aimed to make your trip more fun by using your smartphone! Not only will you find sightseeing spots and recommended walking/jogging routes, but you can travel back to the Edo period and explore the changes. Don't worry about getting lost, as you will be able to see your GPS location at all time while enjoying the local charm of Kanazawa.
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55件のスポット
2.跡地

慶長4(1599年、前田家が徳川家康に謀反の疑いをかけられた際、客将高山右近に命じて掘らせたと伝えられる金沢城西側の防御ライン。惣構は堀や土塁による防御施設であり、尾山神社から尾張町を経て浅野川べりまで、約1.6kmにおよぶ。 終点の浅野川口の主計町では緑水苑として当時の遺構を見ることができる。

慶長4(1599年、前田家が徳川家康に謀反の疑いをかけられた際、客将高山右近に命じて掘らせたと伝えられる金沢城西側の防御ライン。惣構は堀や土塁による防御施設であり、尾山神社から尾張町を経て浅野川べりまで、約1.6kmにおよぶ。 終点の浅野川口の主計町では緑水苑として当時の遺構を見ることができる。

慶長4(1599年、前田家が徳川家康に謀反の疑いをかけられた際、客将高山右近に命じて掘らせたと伝えられる金沢城西側の防御ライン。惣構は堀や土塁による防御施設であり、尾山神社から尾張町を経て浅野川べりまで、約1.6kmにおよぶ。 終点の浅野川口の主計町では緑水苑として当時の遺構を見ることができる。

慶長4(1599年、前田家が徳川家康に謀反の疑いをかけられた際、客将高山右近に命じて掘らせたと伝えられる金沢城西側の防御ライン。惣構は堀や土塁による防御施設であり、尾山神社から尾張町を経て浅野川べりまで、約1.6kmにおよぶ。 終点の浅野川口の主計町では緑水苑として当時の遺構を見ることができる。

これまで慶長15(1610)年に篠原出羽守孝によって作られたとされてきたが、近年、慶長4〜6(1599~1601)年に内惣構と同時に建設されたとの指摘もある。 本多町3丁目から香林坊を通り長町の鞍月用水に至り、同用水と共用して浅野川まで、約2.8kmにおよぶ。 城側に土居を盛り、竹薮などの緑地帯を設けていた。

これまで慶長15(1610)年に篠原出羽守孝によって作られたとされてきたが、近年、慶長4〜6(1599~1601)年に内惣構と同時に建設されたとの指摘もある。 本多町3丁目から香林坊を通り長町の鞍月用水に至り、同用水と共用して浅野川まで、約2.8kmにおよぶ。 城側に土居を盛り、竹薮などの緑地帯を設けていた。

これまで慶長15(1610)年に篠原出羽守孝によって作られたとされてきたが、近年、慶長4〜6(1599~1601)年に内惣構と同時に建設されたとの指摘もある。 本多町3丁目から香林坊を通り長町の鞍月用水に至り、同用水と共用して浅野川まで、約2.8kmにおよぶ。 城側に土居を盛り、竹薮などの緑地帯を設けていた。

これまで慶長15(1610)年に篠原出羽守孝によって作られたとされてきたが、近年、慶長4〜6(1599~1601)年に内惣構と同時に建設されたとの指摘もある。 本多町3丁目から香林坊を通り長町の鞍月用水に至り、同用水と共用して浅野川まで、約2.8kmにおよぶ。 城側に土居を盛り、竹薮などの緑地帯を設けていた。

これまで慶長15(1610)年に篠原出羽守孝によって作られたとされてきたが、近年、慶長4〜6(1599~1601)年に内惣構と同時に建設されたとの指摘もある。 本多町3丁目から香林坊を通り長町の鞍月用水に至り、同用水と共用して浅野川まで、約2.8kmにおよぶ。 城側に土居を盛り、竹薮などの緑地帯を設けていた。

慶長4(1599)年、前田家が徳川家康に謀反の疑いをかけられた際、客将高山右近に命じて掘らせたと伝えられる城下町東側の防御ライン。 小尻谷坂付近から始まり橋場町を経て浅野川まで、約1.3kmにおよぶ。 城側に土居を盛り、竹薮などの緑地帯を設けていた。 慶長4(1599)年、前田家が徳川家康に謀反の疑いをかけられた際、客将高山右近に命じて掘らせたと伝えられる城下町東側の防御ライン。 小尻谷坂付近から始まり橋場町を経て浅野川まで、約1.3kmにおよぶ。 城側に土居を盛り、竹薮などの緑地帯を設けていた。

慶長4(1599)年、前田家が徳川家康に謀反の疑いをかけられた際、客将高山右近に命じて掘らせたと伝えられる城下町東側の防御ライン。 小尻谷坂付近から始まり橋場町を経て浅野川まで、約1.3kmにおよぶ。 城側に土居を盛り、竹薮などの緑地帯を設けていた。

これまて慶長15(1610)年に篠原出羽守孝によって造られたとされてきたが、近年、慶長4~6(1599~1601)年に内惣構と同時に建設されたとの指摘もある。 八坂から材木町を経て浅野川まで、約1.4kmにおよぶ。 城側に土居を盛り、竹薮などの緑地帯を設けていた。

これまて慶長15(1610)年に篠原出羽守孝によって造られたとされてきたが、近年、慶長4~6(1599~1601)年に内惣構と同時に建設されたとの指摘もある。 八坂から材木町を経て浅野川まで、約1.4kmにおよぶ。 城側に土居を盛り、竹薮などの緑地帯を設けていた。

加賀藩年寄役奥村宗家(加賀八家1万7000石)の屋敷跡地。奥村宗家の祖、奥村永福は尾張国荒子で前田利家の父利春、兄利久に仕え、のち前田利家に仕え、伊予守と名乗った。代々年寄役として藩に仕え、前田家創業時以来の功臣の家柄である。屋敷は初め、金沢城内にあったが、後に、この地に移転し、明治を迎えた。明治以降は陸軍衛戍病院、国立金沢病院を経て現在に至る。
関助馬場石碑(関助馬場)
2.跡地

3代前田利常のころ、御歩組博労支配兼馬具支配の佐賀関助(100石)が、荒廃していた馬場を再興したことから、この名がついた。この付近一帯の町名は古くは「馬場」であった。

寛政4(1792)年に現在の兼六園に建てられた藩校の文学校明倫堂と武学校経武館が、文政5(1822)年3月にこの地に移転し、明治3(1870)年に廃止されるまで、教育の拠点となった。明治19(1886)年、全国5地区に分けて1校ずつ高等中学校を設立する中学校令が公布され、翌年第四高等中学校がこの地に開校、明治27(1894)年第四高等学校(四高)と改称された。
金沢市足軽資料館(藤掛)
2.跡地

加賀藩の足軽であった高西家と清水家の2棟を移築保存展示している。加賀藩の足軽屋敷は一戸建てで、屋敷の周りには生垣を回し、内側に植木が施されていたことから、その様子が再現されている。高西家の足軽屋敷は、加賀藩の足軽飛脚の屋敷地であった旧早道町(現・金沢市菊川2丁目)に残され、平成6(1994)年まで住居として使用されていた。清水家の足軽屋敷も、高西家と同じく旧早道町(現・金沢市幸町)に残されていたもので、明治時代以降も代々子孫が受け継ぎ、平成2(1990)年まで住み続けられていた。
中央小学校(村井又兵衛)
2.跡地

加賀藩年寄役村井家(加賀八家1万6500余石)の屋敷跡地。初代又兵衛長頼は天文1(21543)年尾張国荒子村に生まれ、12歳で藩祖前田利家の兄利久に仕えたが、翌年から利家に仕えた。以来利家に従い、数々の戦役に出陣し、天正19(1591)年従五位下豊後守に叙任し、慶長4(1599)年利家没後その夫人芳春院が江戸へ人質として赴く時、これに従った。子孫、代々年寄役として藩に仕え、前田家創業時以来の功臣の家柄である。

前田主税家(2450石)、今枝家(1万4000石)はいずれも人持組に列する藩士。今枝家は人持組の中では最高禄高の家柄であり、美濃国の出身で、稲葉通朝、織田信雄、羽柴秀吉、羽柴秀次に仕えた。2代前田利長に招かれ、代々家老職を務めた。また、今枝近義は5代前田綱紀の傅役も務め、歴代藩主の中でも名君と言われた綱紀を教育した功績は大きい。

加賀藩年寄役長家(加賀八家3万3000石)の屋敷跡地。長家の遠祖は源頼朝の御家人長谷部信連で、代々能登守護畠山氏に仕えた。天正5(1577)年上杉謙信が能登に侵攻、長一族は殺害されたが、一人生き残った連龍は織田信長を頼り、同8(1580)年信長より鹿島半郡を与えられた。翌年、前田利家が能登に入国すると、その与力となった。以後、代々前田家に仕えた。

地名は、加賀国住人の林六郎光明の郎党六動太郎光景に由来し、六動林、六斗林にちなむ。広見は桝形や卍形などの広い空間のことで、火災の延焼を防ぐためのまちづくりの一つ。藩主ゆかりの寺社前などにも設けられた。

江戸初期、加賀藩はこの地に鍛冶職を集住させ、3代前田利常は御用刀鍛冶には当地に宅地を与え優遇した。元禄8(1695)年の「金沢町絵図名帳」によれば、御普請鍛冶・刀鍛冶・鋳物師細工鍛冶関係の職人が居住している。

鍛冶町の西に並行して、ほぼ南北に延びる両側町。はじめは木ノ新保新町と呼ばれていた。町名は新たに町立てしたことにちなむ。文化8(1811)年の家数は118軒で、うち武家・小者は29軒とあるように、町人の町であった。

明治2(1869)年に成立。もとは加賀藩士玉井勘解由屋敷・同下屋敷地。元禄6(1693)年の侍帳には「安江木町専光寺近所」とあることから、江戸時代初期から居住していたと考えられる。玉井家の初代頼母は慶長5(1600)年前田利長に仕えて知行4千石を受け、足軽頭を勤め元和元(1615)年に没した。子孫も代々藩に仕え、知行5千石を受けていた。
1.現存

現在の取水口は犀川桜橋の上流右岸で、河川敷を暗渠で通り新橋上流で開渠となる。長町武家屋敷周辺を経て犀川河口に注ぐ、延長約10.2kmの用水である。鬼川、御荷川とも呼ばれ、金沢城を築くときに、城下まで木材を運んだとも伝えられる。

日蓮宗の寺院。慶長6(1601)年3代前田利常の生母である寿福院の実家の菩提寺である、越前府中(現・福井県越前市)の経王寺より日護上人を2世として招いて住持とした。寛永8(1631)年江戸で没した寿福院の葬儀が行われたが、その直後の金沢大火で延焼し、正保4(1647)年寿福院の17回忌に利常によって再建された。

真宗大谷派の寺院で山号は護方山。正和2(1313)年石川郡大糠(現・金沢市大額)に創建し、文明年中同郡吉藤村に移転。天正中同郡鶴来に移り、慶長元(1596)年に御城後町に移転後、元和中現在地に移転した。

初代近岡屋八郎右衛門が、寛政元(1789)年、木ノ新保(現・金沢市本町)に近岡屋として創業。のち現在地に移転し、書籍の出版・販売を商いとした。能楽宝生流の謡本「近八版」は加賀宝生の教本として尊重された。

天正3(1575)年創業の針商。成形の難しい絹針の目穴に、初代八郎兵衛は工夫を凝らして今のめぼそ針を作った。糸が通し易いと評価を受け、加賀藩主より「めぼそ」の名前を頂戴した。のちこの針を用いて鮎釣りの毛針を考案し、加賀毛針として世に広まった。

浄土真宗本願寺派の金沢別院で西別院と称される。江戸時代には西門跡末寺・西末寺などと呼ばれた。元和元(1615)年当地に移転した。一方、寛永11(1634)年とする説もある。現在の堂宇は天保8(1837)年の火災後の再建によるもの。

日蓮宗の寺院で山号は妙布山。天正年間の前田利家の時、越前府中から来て河原町に創建したが、のち現在地に移転した。鐘楼は、江戸時代には珍しい2階建ての入母屋造で、本堂とともに金沢市の有形文化財に指定されている。

古来より神明宮と称し、始め卯辰の摩利支天山に鎮座したが、延文2年(1357)に今の地に転じ、のちに加賀藩主2代前田利長、3代前田利常から社地が寄進された。毎年5月・10月の15〜17日が春秋例大祭で、悪事災難厄除になるというあぶり餅神事が有名である。境内には樹齢千年を超えるといわれる大欅がある。

高野山真言宗の寺院で山号は千日山。同寺の縁起によれば、雄勢という僧が諸国行脚の途中伊勢神宮に千日参詣し、満願後の文禄4(1595)年に当地へ来て朽ちた寺を再興した故事によるという。室生犀星はここに預けられ、幼少期を過ごした。

国登録有形文化財。北国街道の犀川大橋として、藩政期から交通の要衝であった。現在の橋は大正13(1924)年に架け替えられた。長さは約62mで、鋼製曲弦ワーレントラス式。平成21(2009)年に青色から青緑系に塗り替えられた。

はじめ石浦村(現・本多町)にあったが、慶長6(1601)年卯辰山に移転したと伝えられる。元和2(1616)年3代前田利常夫人珠姫の発願で現在地に造営された。以後、藩主前田家の子女は、代々産土神として参詣するのを常とした。旧暦7月9日には藩政期以来の行事「四万六千日」が今も行われ、境内で買ったトウモロコシを軒先につるすと家内安全・商売繁盛などの功徳があると伝えられる。また、藩政期には神事能が催されていた。

浄土宗寿経寺の門前にある七躯の地蔵尊。安政5(1858)年6月から3ヶ月間冷雨が続き大飢饉となって米価が高騰、7月11・12日の夜、民衆約2000人が卯辰山に登り、金沢城に向かって大声で訴えた。金沢城下始まって以来の大事件で、「安政の泣き一揆」と呼ばれている。その首謀者7人が斬首あるいは獄死し、その冥福を祈った地蔵である。
宇多須神社(八幡宮)
1.現存

曹洞宗の寺院。3代前田利常夫人の珠姫(2代将軍徳川秀忠の娘)の菩提寺として、元和9(1623)年に建立され、夫人の法号から天徳院と名付けられた。現在の境内地はかなり縮小されているが、山門(県指定有形文化財)などの風格には当時の様子がしのばれる。

5代前田綱紀が延宝4(1676)年に金沢城の外庭として蓮池庭を作ることに始まる。その後、12代斉広が文政5(1822)年、隠居所として竹沢御殿を築造した際、奥州白河藩主の松平定信に「兼六園」の揮毫を依頼した。13代斉泰は斉広の死後、竹沢御殿を取り壊し、霞ヶ池を掘り、栄螺山を造るなどして、庭を拡張・整備し、ほぼ現在の回遊林泉式庭園の形となった。
八坂(ホウドウジ坂)
1.現存

昔、付近の木こりが小立野に通う坂が八つあったことから、またはたくさんあったことから、八坂という名がついた。宝幢寺があったことから宝幢寺坂とも呼ばれた。また、八家奥村家初代伊予守屋敷の横の坂であることから、伊予殿坂とも呼ばれた。

曹洞宗の寺院。天正11(1583)年加賀藩祖前田利家が創建した、前田家の菩提寺。越前府中(現・福井県越前市)に利家が入部したとき大透圭徐和尚に帰依して、同9(1581)年能登に入国後、和尚を迎え七尾宝円寺(現・長齢寺)を開山、のち金沢に移った際本寺を開山した。利家と徳川家康が伏見で会見した際、死を覚悟して自画像と髪を埋めた場所と伝えられる御影堂と御髪堂がある。

曹洞宗の寺院。3代前田利常夫人の珠姫(2代将軍徳川秀忠の娘)の菩提寺として、元和9(1623)年に建立され、夫人の法号から天徳院と名付けられた。現在の境内地はかなり縮小されているが、山門(県指定有形文化財)などの風格には当時の様子がしのばれる。

浄土宗の寺院。天正年間(1573~92)に越中増山(現・富山県砺波市)に創建され、のち越中高岡を経て金沢の卯辰山麓に移り、寛文2(1662)年現在地に移転した。徳川家康をはじめ、秀忠・家宣・家継・家重などの徳川家の位牌が安置されている。







