鳥取城下之図[江戸前期]
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この図は近世前期の鳥取城下町の形がよくわかる図である。鳥取城下全域を描き、武家地(朱色)・町人地(灰色)・寺社地(白)を色分けする。慶安3(1650)年に勧請された鳥取東照宮と、そこに至る道路が貼紙で記されていることから、年代が比定される。法量:285×320cm。
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浄土宗の寺院。山号は智光山。もとは専称寺といい、池田光仲の父池田忠雄が母良正院の菩提を弔うために淡路島由良に創建。のちに岡山へ移り、寺号を専称寺から慶安寺と改めた。この寺号は「良正院智光慶安大禅定尼」にちなむ。寛永9年(1632)の国替えにより鳥取に移った。

城下に設けられた9つの惣門のひとつ。脇には門番小屋が置かれた。惣門外の内丹後町(材木町)に通じる惣門であることから外丹後口、もしくは材木町口とも呼ばれた。この惣門から湯所下ノ丁に至るには、門外から堀に架かる土橋を渡った。 『因州記』鳥取県立博物館蔵

湯所の地名の語源となった温泉の跡。鈴木次郎左衛門の屋敷内にあった泉の様な場所が温泉の旧跡であると言われている。側の岩に薬師の祠があり、むかし温泉が湧き出ていたときの鎮守とされていた。ただし、所在については諸説がある

袋川の外側に、智頭橋から南東方向に延び、吉方村と接する町。元和5年(1619)に起立された城下四十町のひとつ。町名は、城下町建設のため、大工を集住させたことにちなむ。はじめにできた大工の集住地を元大工町あるいは古大工町といったのに対し、袋川の外側にあることから「川外大工町」と呼ばれた。ただし、一般的には「川向」と通称されていたという。寛永11年(1634)の竈数40、安永7年(1788)の家数93。 川外大工町周辺 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

元和年間(1615-24)に鳥取藩主の池田光政が、堀端を拡幅した際に桜を植樹させたことにちなみ「桜の馬場」と呼ばれた。桜の古樹は元禄7年(1694)頃まで2~3本が残っていたという。桜の馬場では毎年5月5日に、騎馬の若い武士を町人たちが竹で打ったり、石を投げたりして威嚇する奇祭「幟ねり」が行われた。 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

唯家屋敷の東角にあった井戸。鳥取城下には各所に井戸が存在したが、この井戸は、武家地の共用として使用された水道井戸。初代藩主池田光仲の時代に整備され、当初は10ヵ所であったが、江戸時代後期には、20ヵ所に倍増した。

鳥取城下の外堀。堀の呼称について、『鳥府志』によれば、寺町で旧河道の流れを埋め塞いだため、左右から土砂が流れ込み、自然に堀底が「薬研」のくぼみのような形状になったためではないかと推測している。 袋川の旧河道は、久松山下の町中を蛇行しながら流れ、宮部継潤以前はその河道の内側に城下が形成されていたと考えられる。池田光政による袋川の開鑿によって旧河道は切断され、城下の所々に堀として残った。

町人地。町名は、桶屋仁左衛門が当初居住していたことにちなむ。桶屋仁左衛門家は幕末まで桶屋を営んでいた。寛永11年(1634)の竈数33、安永7年(1778)の家数112。 桶屋町の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

禄高3,500石の上級家臣福田家の拝領屋敷。敷地面積は、1,800坪に及ぶ。文政元年(1818)に建てられた主屋は、令和5年(2023)まで現存していた。主屋の広間に面する庭は、久松山を借景とし、邸内には躙り口のない茶室があった。福田家福田家は、山城国(現京都府)の土豪出身で、のちに池田家に仕え、江戸前期には、幕府に対して人質(証人)に差しだすなどした。そのため藩内では着座、大寄合に次ぐ、3番目に高い格式である「証人上」として禄高3,500石を給された。また黒坂(現鳥取県日野町黒坂)に陣屋を持ち、自治的な政治を行った。

町人地。城下町拡張の際に、何らかの理由で町の成立が遅れたため、新町と名付けられたという。「沖の新町」ともいった。寛永11年(1634)の竈数37、安永7年(1788)の家数90。 新町の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

浄土宗の寺院。山号は選擇山。天正9年(1581)に宮部継潤が但馬国豊岡(現兵庫県豊岡市)から鳥取に移封された際に、丹後国久美浜(現京都府京丹後市)から因幡に移ってきた寺院。鎌倉時代につくられた本尊の阿弥陀如来は、久美浜から移す際に、一度海に落ちて、引き揚げられたため、梅雨の時期に汗をかくという。また、梵鐘は、宮部氏の時代に、龍女の願いによって、伏野(鳥取市)の海岸から引き揚げられたという伝説があり、通称「竜宮の釣り鐘」と呼ばれる。寺には、そのときに付着したとされる鮑も伝わる。平安時代前期の作として国の重要文化財に指定された。

東は但馬や岩井郡、西は伯耆からの魚介類の集積場で、着船場があった。問屋に卸さない魚類を売る市が立てられ、鰯が運ばれてくる日は最も混雑したという。袋川を通って船が集まるため、日雇いの運送人足が出入りし、煙草や食物を売る辻売りが多く出た。

鳥取と米子の間を結んだ主幹道。因幡では米子往来(海道)、伯者では鳥取往来(海道)や因幡往来(海道)と呼ばれた。米子方面へのの経路は、茶町から袋川に架かる鋳物師橋を渡り、元鋳物師町、新鋳物師町、新茶屋の町並みを経て、安長渡しに至り、千代川を越えた。米子までの距離は25里22町(103km)ほどあり、徒歩では三日の行程であった。

町人地。桧物屋が多く居住していたことから、「桧物屋町」とも呼ばれた。桧物師たちは、曲げもの、指物、へぎ板、偶人(人形)などを作っていたという。現在でも町内に家具屋が残る。寛永11年(1634)の竈数21、安永7年(1788)の家数65。 二階町二丁目の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

佐藤修理は池田恒興、輝政、忠継、忠雄、光仲の池田家5代に仕えた老臣。禄高1000石を給された。修理の屋敷は鳥取城の北西(現在の鳥取北中学校)にあることから、隠居した正保2年(1645)頃に屋敷替えになったものと考えられる。なお、修理は承応2年(1653)に病死した。

法花寺は長栄寺の前身か。長栄寺は、日蓮宗の寺院。山号は久遠山。江戸時代後期の地誌『鳥府志』によれば、鹿野橋のほとりに三知坊という道心者があり、景福寺の隣りに仏壇を構えて題目修行したのが寺の始まりという。

乾家は禄高3500石(のち5000石)の重臣。乾家の祖である乾長次は、将軍足利義輝に仕え、ついで戦国武将・池田恒興に仕えた。恒興の孫・池田忠長(忠雄)が淡路国を与えられると、傅役(ふやく)として家老的な役割を果たした。のちに忠雄が岡山に移ると、長次の子甲斐(直幾)もこれに従い家老を勤めた。忠雄死後は、幼君の光仲を補佐し、荒尾家らとともに藩政を支えた。甲斐(直幾)は慶安元年(1648)に死去し、子の長十郎(長義)が3歳で家督を継いだ。東照宮の造営に際しては、大日谷(樗谿)にあった乾家の下屋敷が接収され、その代替地として八上郡下船岡村に茶屋地が与えられた。

町人地。享保9年(1724)の火災までは、町御用場があり、町政の中枢機能を担っていた。町内には彫り物師後藤氏や白銀師加嶋氏の拝領屋敷があったほか、御用商人が住んでいた。 本町二丁目の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

池田光政による城下町拡張の際に、姫路城下の町名を移したとされる。町寄合所があり、享保9年(1724年)には、町御用場が移転してくるなど、町政の中枢機能を担う場所となった。寛永11年(1634)の竈数23、安永7年(1788)の家数50。 本町一丁目の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

現在の湯所二丁目北側付近の字名。江戸時代、惣構の内で唯一の田地。もとは、沼沢地で、屋敷地もまばらであったが、山土で盛土し、江戸時代後半からは武家屋敷地となった。しかし、『鳥府志』によると、武家屋敷を拝領した藩士は、整地する費用を厭い、住居を建てる者もなく、もとの田地のままであったという。このほか内田には家老の鵜殿家や和田家といった上級家臣の広大な下屋敷もあった。

浄土宗の寺院。山号は正眼山。一説には湯所村の端から移転したと伝えるが、確証はない。境内には、寛永11年(1634)に伊賀上野で、鳥取藩士渡辺数馬の仇討ちに助太刀した荒木又右衛門の弟子岩本孫右衛門の墓がある。孫右衛門はのちに鳥取藩士となり、寛文8年(1668)に死去した。

町人地。当初は、大きな沢があって、蛙の鳴き声がうるさかったので、蛙町とも呼ばれた。町名は魚屋が集まっていたことや、上構の上魚町に対して下構にあったことにちなむ。元禄期(1688-1704)までは、当町から袋川の土手を越えて、川向こうの荒尾但馬下屋敷に渡るための橋(但馬殿橋)があった。寛永11年(1634)の竈数43、安永7年(1788)の家数83 鳥取県立公文書館『鳥府志図録』より転載

沢の跡で、江戸時代初期には三十間(約54m)四方の大きな沢であったという。その後は町人地に囲まれて見えなくなり、江戸時代後期には、塵芥土木の捨て場となって埋め立てが進み、僅かに名残をとどめるのみとなったが、大雨の日には沢のようになったという。また『鳥府志』は、この場所を古い川筋の跡とも推測している。

武家屋敷地。もとは、鹿野町とともに下片原町と呼ばれ、町人地が混在した町であった。町名の由来は、池田長吉の時代に、鹿野口惣門内にあった台座町に対する下の台座町であったことを略して下台町とした説(『因幡誌』)。古絵図に記された大三門(だいさもん)にちなむとする説(『鳥府志』)。某氏の下代が住んでいたので、下代町とした説(『因州記』)などがある。享保9年(1724)に下台町から出火した黒川火事の後、堀側の屋敷地が取り払われ、火除け地(広小路芝生)となった。

江戸時代後期の地誌『鳥府志』(岡島正義著)によれば、本浄寺の前身とする。本浄寺(日蓮宗寺院)は、国替えで移転してきた寺院のひとつ。慶安3年の東照宮遷宮にあたり川外大工町へ移ったとされる。この絵図を見ると、寺社地であることを示す白い胡粉が削り取られたあとに、付け紙が貼ってあることがわかる。なお、『因州記』では法花寺を本浄寺の前身とする。

江戸時代後期の地誌『鳥府志』(岡島正義著)によれば、法泉寺の前身とする。法泉寺(法華宗)は、山号を富中山とし、本尊は釈迦如来。開基は日渡。寛永9年(1832)の国替えに従って王寺谷(樗谿)に移り、慶安3年(1650)の東照宮勧請に伴い立川一丁目に移った。そのころ近辺に民家はなく田の中に草庵があるのみであったことから、「田中の法泉寺」と呼ばれた。ちなみに、富中山の山号は「田中」の田の字に画くを添えたものという。

天台宗の寺院。寛永16年(1639)、祈願所として栗谷に建立。住職の栄春は、藩が江戸寛永寺の天海僧正に依頼して招いた。慶安元年(1648)には、徳川家康の三十三回忌を当院で執行した。東照宮の勧請に際しては、長寿院の境内が候補地とされたが、狭隘であるとの理由で、王寺谷(樗谿)となった。東照宮の造営に伴い、栄春が別当寺淳光院の観院として移った。その後長寿院の跡地は御小人小屋となったが、宝永4年(1707)に龍峰寺が造営された。

日蓮宗の寺院。山号は光照山。本尊は仏法僧三宝。創建時期は天正7年(1579)とされる。寛永15年(1638)、池田光仲の生母三保子(日香、芳春院)の位牌所となり、承応4年(1655)には二十五年回忌の法事を執行した。承応2年(1653)には大隣寺・正福寺と3か寺で大山寺の僧衆の宿坊に指定されている。しかし、寛文5年(1665)4月に火事で焼失し、同年末に高浜十兵衛預り屋敷があった新品治町の現在地へ移った。

横河次大夫重陳は、池田輝政の時代に池田家に召し抱えられた禄高1700石の重臣。もと播磨国の水夫出身で、侍大将として活躍した。また大坂冬の陣では戦功をあげて徳川家康から感状を拝領し、大坂城の石垣普請では城内最大の「蛸石」を備前犬島から運送するなど、数々の功績をあげた。国替え後は、御船蔵の向かいに屋敷を拝領し、御船手の長役として組織の基盤を築いた。

池田図書(政広)は禄高1000石の重臣。父は池田輝政の子加賀守政虎。寛永19年(1642)に岡山より家臣として召し出された。慶安3年(1650)の東照宮造営では、献灯を許されるなど上級家臣として遇されていたが、万治2年(1659)に江戸城で病により失心し、翌年には知行没収のうえ、蟄居を命じられた。池田図書の屋敷には、神戸豊前が入った。

材木町と丹後片原町の間に架かる橋。「丹後町之橋」とも呼ばれた(『因州記』)。元和年間(1615~24)に鳥取藩主池田光政の城下拡張整備によって袋川にかけられた城下五橋のひとつ。寛文3年(1663)には、渇水時の飲料水確保のため、出合橋より上流での馬や汚れ物を洗うことを禁止する法令が出されている。

日蓮宗の寺院。山号は正栄山。鵜殿家累代の菩提寺。鵜殿家が姫路に創建し、池田家の転封に従って姫路、岡山、鳥取と移転した。鵜殿家の墓所のほか、良正院(徳川家康の娘、池田光仲の祖母)の娘「縁了院」の位牌が安置されている。正保5年(1648)には、縁了院の五十回忌法要が営まれている(『万留帳』鳥取県立博物館蔵)。

浄土宗の寺院。山号は三昧山。戦国期には栗谷にあったとされ、池田家の鳥取入府後に、現在地に移転したという。境内には、室町幕府創立の功臣として伯耆・出雲など5カ国の守護となり山陰に勢力を振った山名時氏の寿塔とされる基壇が残されている。この基壇は江戸時代半ばには手水鉢として用いられていた(『雑集』鳥取県立博物館蔵)。

浄土宗の寺院。山号は久松山。鳥取城下で一番古い寺院とされる。寺伝によると、天文14年(1545)に布施天神山城主の山名誠通が、久松山築城の際に、鎮守として建立したと伝えられる。天正9年(1581)、秀吉の鳥取城攻めで敗れた吉川経家は、久松山にあった真教寺で切腹した。 関ヶ原の戦い後、新蔵付近に移り、さらに池田光政の時代に現在地へ移転したとされる。光政時代には、大伯母にあたる天球院が一時期暮らした庵が寺内にあったという。

江戸時代後期の地誌『鳥府志』(岡島正義著)によれば、上町に遷宮される以前の長田神社が鎮座していた場所という説がある。また長田神社の神主である永江家の屋敷は江崎上の惣門の外、山手の寄り付きにあったとも伝える。天正元年(1573)、因幡に進攻してきた山中幸盛は、天王の尾から、鳥取城の搦め手を攻めたとされる。

渡瀬家は桓武平氏の流れをくむ一族で、二代渡瀬越中は1045余石で池田家に仕えた。野間宗蔵の著した『怪談記』には、渡瀬家の屋敷に関する怪談話が載っている。「正木大膳ハ[ ]ノ士ニテ 智頭海道ノ渡瀬カ屋敷ニ居レリト云、世名ヲ知レタル大膳カ、或時一人閑座シテ四方山ノ思二事ヲ一ツツクル、折節大山伏一人来リテ、正木エ刀ヲ送ル、其様刀ノ鞘ヲ正木カ方エナシタリ、正木叱テ曰、侍エ刀ヲ送ルニ鞘ノ方ヲ出ス法ヤ有ト、其時山伏又柄ヲ出ス、正木取テ抜討ニ切殺せリ、彼山伏ハ古狸ナリト云リ、此刀ハ神戸カ家ノ刀ナリシト也。」(野間宗蔵著『怪談記』鳥取県立博物館蔵)。なお、正木大膳は安房国(現千葉県南部)館山から伯耆国倉吉へ転封された大名里見氏の重臣。主君里見忠義(1594ー1622)の死後は、池田家にお預けの身となり、鳥取城下に居住した。

太田式部は、元阿波蜂須賀家の家臣で、三保姫(蜂須賀至鎮の娘)が岡山藩主・池田忠雄に輿入れする際に、御附人として御供し、のちに池田家の家臣となった。野間宗蔵の著した『怪談記』には、初代式部から数えて六代目にあたる太田信濃に関する怪談話が載っている。「太田信濃家内室死去之時、色々怪有事 太田カ屋敷ノ地ニ付テ怪有ト云リ、内室死去ノ時ニ度々ニ怪有、何レノ代ノ内室カ死去ノ時、日香寺内寺ノ林乗院側ニ居レリ、或侍ノ室家一人ト仕女一人番ヲ勤テ死骸ヲ守ル、時ニ上ニカケタル夜着ムクへト高ク成、両人ノ婦人ハ太田代々ノ内室死去ノ怪異ヲ知リ、サマテ動ズ、林乗院ハ題目唱タリシガ見付テ甚動逃去ントス、婦人引トムル故、汗ヲ流テ勤居タルニ、此度ハムクムクト甚高ク上リタレハ、彼法師アツト云テ振ヒワナナキ、次ノ間エニケ出タルトナリ。 一説ニ、腫気ヲ病テ死タルニハ、上ニ着タル衣ノ上下スル事有ル者ナリト云リ 」(野間宗蔵著『怪談記』鳥取県立博物館蔵)

田渕家は伯耆米子城主中村氏の旧臣で、源右衛門は禄高240石で池田家に仕えた。三代田渕伝兵衛に関する怪談話が江戸時代の記録にある。「田淵伝兵衛、野狐ノ付ヲ取出ス事 田淵伝兵衛ト云ル侍、アル時昼寝シテ居タリシカ、不図目サメテ見レハ、足ノ大指ノ方ヨリ足ノ内エ、クリクリノ様ナル者ヒタモノ登リテ、ヤウヤク膝ニ到ヲ、伝兵衛急ニトラヘテ、下人ヲ招、上下ヲ強ク縄ニテククリ、脇指ヲ以彼丸ミノ上ヲ穿(つく)ニ、狐ヲ一疋突殺シタルト也、膝頭ノ辺ニテハ甚大キクフクレ上リテ見エタリト也、扨田淵カ足ニハ疵モ不付ト也。」(野間宗蔵著『怪談記』鳥取県立博物館蔵)

神戸家は伊勢国の国人領主の末裔。神戸豊前は譜代の重臣で禄高は1800石。野間宗蔵の著した『怪談記』には、神戸豊前の孫にあたる縫殿に関する怪談話が載っている。「神戸縫殿家怪異之事桜ノ馬場角ヤシキニ怪多シ、宅内小社ノ咎トモ云、玄関ノ前ノ井ノ祟共云、縫殿妻ノ病中ニ、縫殿書院ノ庭エ出居タリ、其甥儀兵衛ヲ呼見せケルニ、屋ノ上ニテ山石ト川石ト二ツ手ヲタタク様ニ打合ケル、次第々ニ高ク上リ、後ハ屋ノ上二三間モ高ク上リ、中ニテ左右分レ打合ケルカ、川石タチマチ下エ落テ庭ノ水落ニスワリケリ、其上ニ山石落カカリ、上ノ山石二ツニワレテトビケリ、其翌日縫殿カ妻死タリ、又或人夜更テ桜ノ馬場ヲ通リケルニ、葬礼向ヨリ来ル、サテ縫殿カ門内ニ入タリ、又座敷ニ枕返シスル所アリ、下人ヲ細引ニテクヽリツケ臥シメケルニ、翌日畳共ニ枕返ヲシタリ。 枕返ノ事ハ中村三折直ニ聞リ、三折臥テ耳ニ鼡ノ子入ト夢ミ、枕少上テ臥タリシニ、ハヤアト先ニ臥居タルト也 縫殿少モ心ニカケス、繁昌シテ数十年居住ス」(野間宗蔵著『怪談記』鳥取県立博物館蔵)

野一色家の先祖は伯耆中村氏に家老として仕えた。野間宗蔵の著した『怪談記』には、野一色吉兵衛の子頼母(勘兵衛)に関する怪談話が載っている。「野一色頼母下女生霊事河合秀正若カリシ時、野一色頼母 湯所上町下御馬ヤ前下側ノ屋敷ニ居 カ召仕シ下女、毎晩日ノ入ノ比ヨリ乱心ノ如ク有シニ、霊付タル様成事ニ云沙汰せリ 頼母母ハ仏者成シカ、是ヲ見テ初ヨリ生霊ナリシト云レシトナリ。珍シキ事トテ、河合其外二三人野一色カ宅ニ到ル、其刻限ニ到ルト彼女口ヲタタキテ空言ノ様ニ云、何レモ云様何者ノ附タルソ、ハヤ退ト云ヘハ、彼女云、我恨有何シニ退ベキヤト、甚無体成体ナレハ、頼母云、歴々ノ人尋玉フニサ様成体ヤ有ト云ヘドモ承引せス、頼母腹ヲ立テ脇指サヤトモニヌキテ彼女ノ首筋ヲタタキタレハ、討タヲサレタルニ 鞘ワレテ刃少シアタルトモ云、彼ウチタル所ヨリ血タレタリ、人々中ヘ入テ乱心同事ノ女ナレハ、左様ニスベキ事ニ非スト云テ女ノ部屋ニ入レハ、女ハ臥タリ、シハラク有テ女ニ付居タリシ者ノ云様、先程首筋ノ疵モ癒、女モ常ノ心ニ成タルト云、疵ノ無ヲ不審シテ人々行テ見ニ、疵少モ無、其後彼女ヨリ先ニ仕タリシ下女、罪ヲサケンノ為ニ野一色カ宅ニ到テ、先日ノ霊ハ某也ト云リ、彼女ノ首筋ノマハリニ此方ノ下女ヲウチタル疵付テ有、彼女云様、嫉妬ノ心ヨリ事発リテ、女ニ免角可有事トハ思ワズ、然レドモ念ハ止スシテ日夜ヲ送ニ、暮時ニ到レハ甚ネムク成テ、其後ノ事ヲ覚ス、其比誰トハ不知彼女ノ方ヘ行ベシへト誘者有、其内ニ前後不覚毎日如是ト語ル、又此女ノ臥タル比ヲ見シ者ノ云シハ、毎晩正体モ無ネ入タリシニ、有時キャット云テ目ヲ醒シテカケ出ル、其時首ノマワリニ疵有テ血流ト、此月日時刻頼母カ方ニテ討タル刻限ニ少モカワラスト云リ、彼女其比何某カ方エ仕ヘ居タリシト云、此首ニ疵有シ女ハ、後天野織部ニ仕、又高草郡吉岡村ニモ住シタリ、一生首ノ疵有ト云リ、宝永年中ニ河合ノ物語ニテ、于今彼女未存生ナルヘシ、見ルベシト云リ、 又野一色、此時ハ勘兵衛ト号ス」(野間宗蔵著『怪談記』鳥取県立博物館蔵)

三浦治兵衛は武将後藤又兵衛の子で、叔父の鳥取藩士三浦主水に預けられて、三浦姓を名乗った。野間宗蔵の著した『怪談記』には、三浦次兵衛の養子藤左衛門に関する怪談話が載っている。「むかし三浦藤左衛門の家で一人の少女を召し使っていた。夏の時期に縁側に出ていると、突然倒れて昏睡状態になった。こんなことが度重なるので、最初はてんかんであろうというので、治療するけれども、全く効き目がなく、昼夜に病気を発して止むことがなかったが、すぐに蘇生していつものように戻った。どのように考えても怪しい症状で治療の方法もない。5~6か月が過ぎて、お腹の中に一つの塊が出てきて卒倒することは止んだけれども、気分が沈みがちで、寝食とも尋常ではなかった。高浜宜仙という医者を呼んで診察してもらうと、どう考えても妊娠であると断定した。少女を呼んで、誰と密通して妊娠したのかと問いただしたところ、「そんな覚えはない」と答えた。幼い時から藤左衛門の妻に仕えて、片時も膝元を離れたことのない者だから、誰をと疑ってみる者もない。不審ながら月を越すと胎内に動きがあるので、産婆を呼んでみせると、宜仙の言葉と同じである。そこで、少女を実家に帰して看病させると、出産予定の月になって狐の子を産んだ。後になって、少女が告白したのは、ある時奥の間の縁側に一人でいると、狩衣姿の美しい男性が来て戯れたので、身を任せて遊んだ。その人が帰るといって見送る時に正気に返ったといった。さては狐が化けて、魅了されたものと思われる(「雪窓夜話」、『因伯伝説集』荻原直正編)。」

河毛家は先祖が近江大津藩主京極高次の客分となり、関ケ原の戦い後に荒尾但馬守の取次により、禄高300石で池田家に仕えた家。野間宗蔵の著した『怪談記』には、河毛十右衛門に関する怪談話が載っている。「河毛十右衛門下女、狐ノ子ヲ産事河毛カ下女、夫ナクテ子ヲ産リ狐ノ子ヲ産、狐夜々夢ニ来リテ嫁ト也」(野間宗蔵著『怪談記』鳥取県立博物館蔵)

津田氏は、禄高7000石の重臣で、格式は家老を勤める着座家。元尾張国の織田氏の一族で、関ヶ原の戦い後、荒尾成房の斡旋で池田輝政に仕えた。ついで岡山藩主池田忠継に仕え、大坂冬の陣で戦功をあげた。国替えで鳥取に移り、八橋郡を中心に所領を与えられ、八橋の町を管轄した。筑後元茂は、慶安元年(1648)に家督を相続し、元禄3年に没した。性格は気概があり、武事を好んで論じたという。 野間宗蔵の著した『怪談記』には、津田家に関する怪談話が載っている。その原文は以下のとおりである。「津田将監家之怪異之事 去ル年中、津田将監親子何人病死時、色々怪有、某カ死せル前ニ屋敷ノ中エ萬年山天徳寺ノ水手向桶来リテ、誰カ取来ト云事知レス、又誰トカ参宮ノ時、乗物ノ棒ヲレタリ、某カ元朝着用ノ肩衣半ヲ切テ、ネズミニ喰取レタリ」(野間宗蔵著『怪談記』鳥取県立博物館蔵)。

鳥取城は、羽柴秀吉による兵糧攻めの後、新たに入城した宮部継潤によって土づくりの城から石づくりの城へと改修された。関ヶ原の戦い後、池田輝政の弟にあたる池田長吉が、因幡東部に6万石の領地を得て城主となった。長吉は宮部時代の石垣を利用しながら、城郭を拡張したと考えられる。元和3年(1617)に播磨42万石の姫路城主・池田光政(輝政の孫)が国替えにより因幡・伯耆の両国を合わせた32万石の藩主となった。鳥取城は光政時代に32万石の居城として整備された。そして寛永9年(1632)に鳥取藩と岡山藩の両池田家同士による国替えが行われ、新たに入府した池田光仲を初代藩主とする鳥取池田家が廃藩置県に至るまで居城とし、拡張や整備が進められた。鳥取城の構造は久松山(標高263m)の山頂部にある山上の丸と、山麓にあって内堀に囲まれた山下の丸からなっている。主要部である山下の丸は、光政時代に改修が加えられたと考えられ、中央の二の丸に藩主居館や層塔型の三階櫓が建てられた。江戸時代前期における丸ノ内には、侍屋敷・倉庫・馬小屋などが建ち並んでいた。その後丸ノ内の侍屋敷は城外へ移され、藩主一族の居館や馬場となった。廃藩置県後、鳥取城は陸軍省の所管となり、明治12年(1879)までに御三階櫓や三の丸御殿などの建物は解体された。 「鳥取新府久松金城」鳥取県立博物館蔵 明治12年頃の鳥取城(絵葉書)鳥取県立博物館蔵

鳥取城丸之内の枡形の門。中の御門が整備される以前には、大手門であったという説がある。南の御門は藩主が参勤交代で江戸に出発した日から、昼間は小門だけが開かれ、夜間の通行はできなかった。枡形内側の渡櫓は、享保5年(1720)の石黒大火で焼失したが、享保11年(1726)に再建された。 「鳥取新府久松金城」鳥取県立博物館蔵 「鳥取城修覆願絵図(万延元年・1860)」鳥取県立博物館蔵

鳥取城郭内の9門の一つ。「天王の尾」と呼ばれる尾根がつきだす地形を利用して、直進できない虎口の構造となっていた。惣門より外は池田長吉時代の外堀と考えられ、絵図にも堀の痕跡が残っている。 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

町人地。町名の由来は、『因州記』によると、姫路城下の町名を移したとされるが、諸説ある。大工や左官などが多く住んだ。また風呂屋が多く集まっていたので、別名を「風呂屋丁」ともいった。寛永11年(1634)の竈数19、安永7年(1788)の家数69。 二階町一丁目の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

元禄期(1688-1704)まで下魚町と丹後片原町の間に架けられていた橋。袋川外にある荒尾但馬下屋敷への通行の便をはかるため、荒尾家が架けた橋とされ、「但馬殿橋」ともいった。。洪水で何度か流失しており、元禄以降は、昭和31年(1956)に現在の有門橋が竣工されるまで橋は架けられていなかった。

藩主の御殿や三階櫓のある場所。当時の御殿は檜造りであったとされるが、享保5年(1720)の石黒大火によって焼失した。 「二ノ丸御絵図」(鳥取県立博物館蔵)鳥取城二の丸御殿の図の中で、一番古い様子を描いたものとみられる。

吉村四郎兵衛は池田忠継、忠雄、光仲の三代に仕えた350石の重臣。役職は勘定頭。屋敷の庭には青木の大樹があった。この大樹と四郎兵衛の子清左衛門にまつわる怪談も伝えられている。それによると、「ある夜、吉村が若党たちと帰宅途中、青木の下に子狐たちが現れた。人間の幼児のように悪戯をして遊んでいると、さきほどの若党がそっと小石を拾って投げつけたので、皆は驚いてばらばらと逃げ隠れた。翌日の夕方、親狐が吉村の家来となってこの若党を誘い出し、龍峰寺(のち興禅寺)へ連れて行った。やむを得ない事情を住職に語って、若党を出家させてしまった」(『鳥府志』、『因府夜話』)。なお青木の大樹は、享保5年(1720)の大火で焼けたが、残った幹から芽吹き、その下に祠が祀られたという。この区域は後に藩主用の馬場となり、「青木の馬場」と呼ばれた。

袋川に架けられた智頭街道の橋。知頭橋は元和年間(1615~24)に鳥取藩主池田光政の城下拡張整備によって袋川にかけられた城下五橋のひとつ。上方方面に向かう道筋であり、参勤交代路にあたるため、他の橋よりも高く構えられ、長さは15間(27m) あった(『鳥府志』)。また、鳥取より諸方への道のりはこの橋を基点として一里塚が築かれたという(『因州記』)。お城側には敵の侵入を食い止める枡形が築かれていた。

日蓮宗の寺院。山号は康政山。寛永9年(1632)、国替えにより鳥取に移った藩士菅権之佐道之(3,000石・証人上番頭)が開基となり、日党上人を開祖として創建。二代日応上人の代に寺観を調え、1,300坪の境内地となった。寺号の由来は、菅氏と能勢氏によって開かれたためという説もある(『鳥府志』)。

浄土真宗の寺院。山号は龍雲山。かつては沢市場(現県立鳥取西高等学校第2グラウンド付近)にあったとされ、「本願寺文書」に出てくる「因州鳥取真宗寺澤市場御坊」に比定される(『因幡誌』)。京都・西本願寺の僧侶が来訪した際には、宿坊にあてられた。

曹洞宗の寺院。山号は瑞松山。倉吉荒尾家の菩提寺。開祖は通幻寂霊禅師(1322-91)。摂津多田荘(現兵庫県猪名川町)の領主平尾景勝が室町時代に創建し、その後、姫路城主池田輝政の重臣荒尾志摩守隆重が、慶長7年(1602)に姫路に景福寺を建立した。荒尾家と景福寺は、池田家の転封に従って岡山、鳥取と移ったため、摂津・姫路・岡山・鳥取の景福寺が「四景福寺」と呼ばれた。鳥取での寺地はもと倉吉荒尾家の下屋敷があった。境内には、倉吉荒尾家一族の墓所があるほか、戦国末・江戸前期の武将後藤又兵衛一族らの墓もある。

町人地。両側町で、町名の由来は、池田長吉の時代に藩の御用を勤めた商人が豆腐屋を営んでいたことによる。また畳職人が多かったため、畳屋町とも呼ばれた。現在は大部分が片原四丁目となっている。寛永11年(1634)の竈数32、安永7年(1788)の家数52。 鳥取県立公文書館『鳥府志図録』より転載

町人地。池田光政の時代に「多門」という修験者が居住していたので、別名を「たもノ丁」と呼んだ。寛永11年(1634)の竈数25、安永7年(1788)の家数105。 鳥取県立公文書館『鳥府志図録』より転載

町人地。池田光政が鳥取入府後に城下町を拡張するために呼び寄せた浪人辻新右衛門や、大工を居住させたことが町名の由来となった。古大工町とも呼ばれた。交通の要衝にあり、城下有数の繁華街となった。このため、のちには大工はほとんど住んでいなかった。寛永11年(1634)の竈数は40、安永7年(1778)の家数は77、明治9年(1876)は家数70。 元大工町の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

町人地。町名は、池田光政の城下町拡張のときに、魚屋を集住させたことに由来する。江戸時代中期になると、魚屋町としては衰微し、諸商売が混在する繁華街となった。寛永11年(1634)の竈数は41、安永7年(1778)の家数67、明治9年(1876)の家数86。 上魚町の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

町人地。町名の由来は、鍛冶師が多く住んでいたことに由来する。町内に居住する日置氏と山本氏は藩の刀工。日置氏は、因幡兼先一門で、寛永9年(1632年)の国替えに際し、日置想重郎兼先が、池田光仲に従い岡山から鳥取に移住、明治維新まで八代にわたり、鳥取藩の刀工として活動した。山本氏の初代忠国は、山城の人、または鳥取の人ともいわれ、因州東照宮の神剣作刀のため、慶安2年(1649年)に京都から招かれたと伝えられる。寛永11年(1634)の竈数29、安永7年(1778)の家数94。 鍛冶町の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

町人地。若桜街道に面することからこの名がついたという。商人・大工・職人などが混在する町であった。寛永11年(1634)の竈数23、安永7年(1778)の家数76。 若桜町の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

中の御門と桜の馬場の間に架かる大手橋。昔は「欄干橋」とも呼ばれた。欄干を飾る擬宝珠には元和7年(1621)9月の銘があったとされることから、池田光政時代に擬宝珠橋として整備されたと考えられる(『鳥府志』)。万治3年(1660)には破損による架け替えが行われた(「家老日記」)。 「鳥取新府久松金城」鳥取県立博物館蔵

鵜殿家は禄高5000石(のち6000石)の重臣。鵜殿家は、徳川氏に仕え、娘(西郡局・蓮葉院)は徳川家康の側室となり、督姫(良正院)を生んだ。督姫は池田輝政に嫁した後、鵜殿家から叔父長次を招き、池田家の家臣とした。

湯所中の惣門(馬場口の惣門)の門外に位置した武家屋敷地。寛永9年(1632)の国替え以前からある古い武家屋敷が多く残っていたという。馬場があったため、惣門は「馬場口」とも呼ばれた。馬場は、のちに湯所上ノ丁に移ったが、寛政初年(1789)に山田源治兵衛が馬場を設けたことにより、天保期(1831-45)には再びこのあたりが馬場になったという。 江戸時代前期には、斉藤家、前川家、都家、和田家、小山家、神戸家、八田家、渡部家、柘植家などの武家屋敷があった。

享保8年(1723)に、長栄寺前と玄忠寺前の町屋が新品治町と定めてられて成立。町名はそれ以前に属していた邑美郡品治村にちなむ。成立時の竈数は72。安永7年(1778)の家数は65。のちに寺町に次ぐ寺院の集中地区となった。 新品治町の標幟 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵 「鳥取市街大切図」鳥取県立博物館蔵

町人地。町名は一方が掘に接していたことに由来する。享保9年(1724)の黒川火事以降、火除のため堀端側に店を構えることが禁止されて、芝生地となった。寛永11年(1634)の竈数13、安永7年(1778)の家数30。 片原一丁目の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

袋川土手際の若桜町総門と知頭口惣門の間に設けられた馬場。長い土手を築いて藪をめぐらす。長さは約218mあった。馬場の中通りに低い土手があって、追い回すように馬を乗っているようにみえるので「追廻の馬場」と呼ばれるようになったとする説(『鳥府志』)がある。

和田瀬兵衛は、池田輝政の代から池田家に仕えた300石の家臣。敷地の三方を袋川の旧河道に囲まれており、もともと池田長吉の時代には菩提寺の妙覚寺があったという(『因幡誌』)。寛文10年(1670)頃までには年貢米を納めるための御蔵(新蔵)となった。また周囲の堀は、ごみ捨て場としても利用された。

臨済宗の寺院。山号は龍峯山。寛永9年(1632)の国替えにより岡山城下から移転した寺院のひとつ。慶安2年(1649)、因州東照宮の御宮地に選定されたことから、立川一丁目の現在地に移された。その後東照宮は王寺谷(樗谿)に創建されることになったため、跡地は江戸中期に瑞光寺が移転するまで、武家屋敷として利用された。移転後の広徳寺については「鳥取城下全図」の解説文を参照のこと。

和田氏は、禄高5500石の重臣で、格式は家老を勤める着座。元は近江国甲賀郡和田谷の土豪で、本能寺の変後に和田信維が池田恒興の客分として、池田家に仕えるようになった。信維の死後、子正信が後を継ぎ、荒尾成房・隆重と共に家老として岡山藩主池田忠継に付けられた。正信には実子がなく、荒尾成房の三男三正が和田家の養子に入り、忠雄・光仲に仕えた。和田氏は国替え後、河村郡を中心に所領を与えられ、松崎の町を管轄した。飛騨三信は、荒尾志摩崇就の子で、和田家の養子となった。忠義で正直な人物であり、池田光仲からの信望が厚かった。元禄7年(1694)に74歳で死去した。家臣としては異例ながら、光仲との生前の約束により、池田家墓所のそばに埋葬された。

禄高1万石(のち1万2000石)の重臣倉吉荒尾家の屋敷。荒尾志摩は通称倉吉荒尾、倉吉の陣屋を預けられた。 荒尾氏は、元尾張国知多郡荒尾谷(現愛知県東海市)の土豪で、池田恒興に荒尾美作守善次の娘が嫁して輝政を生み、その後池田家に仕えた。池田忠継が岡山藩主となった時、善次の子成房・隆重の二人が家老として忠継に付けられた。この二人が、のちに米子と倉吉の両荒尾家の祖となった。 光仲幼少の頃は、成房の子成利(但馬)と実弟で隆重の養子となった嵩就(志摩)を中心に藩政が行われた。

岡嶋家は禄高420石の鳥取藩士。天正11年(1583)以来、代々池田家に仕えた。7代の岡嶋正義(1784-1858)は、江戸後期の鳥取藩士で、佐野家から養子に入った。文政7年(1824)には大目付を勤めたが、2年余りで職を辞し、以降は、公職につくことなく藩内の地理や歴史の研究に力を注ぎ、『因府年表』や因幡国の代表的な地誌『鳥府志』などを著した。本図の五郎右衛門は2代目にあたり、日野郡の代官などを勤めた。

野間宗蔵の著した『怪談記』には、鳥取藩士青木家に関する怪談話が載っている。「青木安兵衛、魔法ノ僧ニ逢、不思議ヲ見ル事青木若時ニ他邦ヨリ何トカ云ル僧来レリ、安兵衛ニ出合テ珍敷事ヲ成テ見セント云テ、ニラミツメ法ヲ行テ、青木ニ脇指ヲ抜見ヨト云、青木心得タリト云テ抜ニ、如何様ニ到テモ不抜、其時僧ノ曰、某ト其方敵対ノ事ナシ、故ニ如此、若又某敵対心ヲ生レハ、此ノ術不叶ト云、又次ニ向屋敷ノ大木ノ松ヲ此方ノ庭エ呼テ見セントテ呪スルニ、忽ニ此松ユルキ出テ、見カウチニ庭前ニ来レリ、青木モ不思議イヤマシテ庭エヲリテ彼木ヲ撫テ見ルニ、疑モナキ松也、須臾シテ又始ノ処エカヘスベシトテ、又呪スルニ、松動テ始ノ地ニ帰ト也、又彼僧曰、野狐ヲ仕フ、今モ庭前ニ居スト云、青木カ眼ニハ不見ト也 青木カ直説ヲ以、羽原丹下之説也」(野間宗蔵著『怪談記』鳥取県立博物館蔵)

鵜殿家は鳥取藩の家老を勤めた重臣。下屋敷は、約2,280坪の敷地面積を有していた。なお下屋敷とは、上級家臣に対して、居宅のほかに与えられた屋敷のことで、城下周辺に与えられることが多く、家臣の住居や貸地として利用した。

鳥取城下を廓内と廓外に分ける堀。一部に袋川の旧河道を利用し、掘削した堀をつなげて外堀としている。片原1丁目から3丁目にかけて、外堀の幅が部分的に拡げられているのは、池田光政による城下町拡張の際、廓外の沼地を埋める土取場になったためという説がある。

江戸時代から明治10年(1877)まで存在した村。「和名類従抄」に載る古代郷名「邑美郡品治郷」の比定地。元禄年間(1688-1704)に枝郷として正式に成立。村は今町1丁目や行徳村を間にして「上品治村」と「下品治村」に分かれる。上品治村は今町1丁目と吉方村の間にあたり、通称「田中」と呼ばれる集落があった。また『鳥府志』によれば、慶長頃(1600年代初頭)には集落が形成されていたと推測されている。

鹿野橋を越えた川沿いに延びる片側町。町名は「本寺町」とも記される。元和5年(1619)に起立された城下四十町のひとつ。町名は品治村にちなむとする説(『鳥府志』)、昔あった本寺という寺院によるという説(『因幡民談記』)がある。寛永11年(1634)の竈数14、安永7年(1778)の家数は115であった。 鳥取県立公文書館『鳥府志図録』より転載

鳥取城の正門にあたり、「大手の御門」とも呼ばれた(『家老日記』)。この図には描かれていないが、擬宝珠橋を渡ると正面に表門があり、枡形を入った右手に櫓門があった。藩主が留守となる期間は潜り戸だけを開き、正門は閉め切りとなった。また、門の内外は、藩の最上位にある着座家が藩主やその子弟を送迎する際の儀礼空間としても機能した。

御宮とは因州東照宮を指す。慶安3年(1650)、初代藩主池田光仲によって日光東照宮の分霊が勧進され、王寺谷(樗谿)の谷山を切り崩して、社殿が建立された。本図には赤い貼り紙で「御宮」とあるが、描かれているのは、社地として整備される以前の状況であり、この付近が武家屋敷地(乾家下屋敷)であったことがうかがえる。東照宮の造営後は、御宮谷とも呼ばれた。

『因幡民談記』によれば、かつてこの谷筋には王寺という寺院があったことから王寺谷というようになったとする。しかし、「大日谷」とも記されることもあり、呼称には諸説がある。また池田光政の時代には、谷に大きな沢があり、寺地の跡を均して沢を埋め、田地を整備したという。

鳥取城下から若桜宿(現八頭郡若桜町)方面に向かう道筋であることから若桜街道、もしくは「若桜往来」と呼ばれた。城下から若桜宿方面へルートは、若桜口の惣門を出て、町人地を南西に進み、若桜橋を渡ってすぐ東に曲がり、袋川にそって吉方村へ東に進むのが本来の経路であった。しかし江戸時代中期になると、江崎下の惣門から、大榎町、御弓町を経て、一本橋から吉方村に至るルートの方が一般的となった。

鳥取城下の武家屋敷に供給された水道堤のひとつ。この谷を水道谷といい、幕末期には谷奥の奥新堤から口の水道まで4つの水道堤が連なっていた。口水道の遺構は、現在の長田神社の池泉の一部として現存する。口の水道には木戸番所があり、藩主はこの場所から城山に登った。 「口水道御番人宅并木戸御番人宅絵図)」鳥取県立博物館蔵

臨済宗の寺院。山号は龍徳山。寛永9年(1632)の国替えにより、岡山から移転した寺院のひとつ。山号は、龍峰寺と広徳寺からとったもの。承応2年(1653)には学成寺・正福寺と3か寺で大山寺の僧衆の宿坊に指定されている。

日蓮宗の寺院。岡山城下から移転した寺院のひとつ。慶安2年(1649)に没した池田仲政(池田光仲の弟)の鳥取における位牌所となった。また宝永5年(1708)に、江戸で死去した芳心院(池田光仲の夫人)の遺志により、鳥取での位牌所となり、分骨が行われた。正徳3年(1713)には、藩から寺領米30俵が給されるようになり、寺号を正福寺から芳心寺と改めた。庭園は、山本宗珉の作と伝わる。

江戸時代中期に成立した『因州記』によれば、本浄寺をかつては法華寺といったとあり、本寺のことを指すとみられる。本浄寺は日蓮宗の寺院で山号は清光山。鳥取藩士加藤家の菩提寺として慶長6年(1601)に創建された。もとは岡山にあったが、国替えにともない鳥取へ移転した。鳥取の寺地は当初、大日谷(樗谿)にあったが、因州東照宮の勧請に伴い、川外大工町へ移転したという。なお本浄寺については善寿寺を前身とする説もある(『鳥府志』)。

高木家は、池田恒興の時代から仕えた譜代の重臣(禄高1240石)。2代甚左衛門は、寛永9年(1632)の国替え後に、御城番を命じられて、城内に居宅することを許された。大手登城路では最も御本丸に近い場所に屋敷を構えていることからも、信望の厚さがうかがえる。なお本図の外記は3代目にあたる。高木家の拝領屋敷はこの後湯所へ移されるが、その際、建物は城内から移築したという。

野間宗蔵の著した『怪談記』には、新蔵に関する怪談話が載っている。「新蔵ノ狐人ヲ呼事元喜ト云ヘル医者、野(能)勢伊兵衛カ宅エ到、夜ニ入カヘル時、懐中薬箱ヲ忘タリ、能勢カ下女、門マテ出テ元喜ヲ呼返シテ薬箱ヲ渡ス、此時下女ノ呼タルヲ聞習テヤ有ケン、新蔵ヲ行スグル比、跡ヨリ元喜様、元喜様ト呼立、帰テ見レドモ人モナシ、又行ニ又ヨブ、此時フト心付タリシニ、呼声塀ノ上ヨリ聞ユ、サテハ狐抔ニテモ有ンカト心付テ行ニ、江崎惣門出迄左右ヲ呼テ行ク、是ヨリ興禅寺ノ方エマワリテ甚道ヲ急タレハ、彼呼者甚急ニ追掛テ呼、元喜彼声ヲヤリスコシテ又江崎ノ方ヘ立モトリタレハ、二度呼ス、其ヨリ竪町ノ己カ家ニ帰ル、習日病用ニテ栗谷鷹師ヤ敷エ行タリシニ、亭主曰、昨夜元喜此辺ニ居レシヤ、元喜、元喜ト呼テ栗谷ノ奥マテ通タリシ云シト也。」(野間宗蔵著『怪談記』鳥取県立博物館蔵)。元喜は井上元喜という医師のことか。

池田日向之政は、禄高1000石(のち3300石)の重臣。着座家。正保元年(1644)に、池田恒元(池田光政弟)の斡旋で鳥取藩に迎えられた。山裾に屋敷地があったことから、通称「山池」と呼ばれた。 池田日向家は、池田恒興の嫡男之助系統の子孫。父由之は、池田光政が鳥取藩主の時代に米子城を預かり、之政は元和3年(1617)に米子で生まれた。

池田大蔵知利は、禄高1500石(のち1800石)の重臣。父は池田輝政の十男利政。利政は、池田光政が鳥取藩主の時代に伯耆国汗入郡逢坂に知行地があり、知利は寛永7年(1630)に同地で生まれた。父の遺志により、寛永19年(1642)、岡山から鳥取に移り、池田光仲に仕えた。その後、着座の格式を与えられた。通称は池田日向家の「山池」に対して、「下池」と呼ばれた。

鳥取城下の大手筋。鳥取から智頭宿や上方に至る道であったことから「智頭往来」・「上方往来」とも呼ばれた。池田光政による城下町拡張では、この街道を境にして上分20町、下分20町の合計40町が町割された。またこの街道は参勤交代の道として利用され、藩主通行の際には、壮麗な行列をひと目見ようと、藩内から人々が押し寄せた。

元和5年(1619)、城下拡張にともなう町割で、下構二十町の一町としてつくられた。町名は、鋳物師が居を構え、鍋釜の製造を行っていたことに由来する。町の西側に新しくつくられた新鋳物師町に対し、元鋳物師町と称した。寛永11年(1634)の竈数14、安永7年(1778)45 元鋳物師町の標幟 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

元和5年(1619)城下拡張にともなう町割で、町人地となった。町内には倉吉荒尾氏・津田氏・円山氏の下屋敷、景福寺などがあった。寛永11年(1634)の竈数は22、安永7年(1778)は38 新鋳物師町の標幟 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

袋川を開削した池田光政の時代に、妙要寺の為登(箕浦の為登)に架かっていたという板橋。『鳥府志』によると、吉方村の百姓が、袋川の対岸にあった田畑を耕作する際、一本橋では遠回りとなるため、勧進して架けた橋であることからこの名がついたという。国替えの後に廃棄されたという。

江戸時代前期に鎌田右衛門兵衛の屋敷に植えられていた桜の異称。右衛門兵衛が東海道の土山宿(現滋賀県)から持ち帰って植えた桜は、あでやかで美しくかったので、その名がつけられたという。城下の人々が苗を所望して珍重したというが、宝暦年間(1751-64)には枯れてしまったという。

真言宗の寺院。山号は如意山。寺伝によると、天長9年(832)、弘法大師の開基とされ、もとは久松山の山頂にあったという。 本尊は行基作(法道上人とも)の「山中薬師」で久松山の鎮守とされていた。池田光政の城主時代には祈願寺であったという。

曹洞宗の寺院。山号は万年山。寺の前身には諸説あるが、山湯山(現鳥取市福部町)にあった天台宗寺院の城福寺とされる。天文8年(1539)に現在地に移ったとされる。城下でも有数の伽藍を誇り、多くの末寺を有した。

浄土宗の寺院。山号は深心山。創建は永正年間(1504-21)に深心大忠によって創建、6世の品蓮社九誉寿哲無道を中興開山とする。本尊阿弥陀如来は恵心僧都の作と伝えられる。『因幡志』は当初湯所にあったとするが、『鳥府志』は根拠がない説とする。四方を堀に囲まれた風景が優れていたことから、玄忠寺八景が選定された。万治3年(1660)に、袋川外の出来薬師から起こった火事により全焼した。火元ではなかったが、この火事は玄忠寺火事と呼ばれた。火事後は新品治町に移転し、境内地は侍屋敷へと変わり、堀も西側の一部を残して埋められた。

禄高2,000石の重臣安養寺家の屋敷。この屋敷は享保5年(1720)の火災で鳥取城の御殿が焼失した際に、三代藩主池田吉泰の仮御殿となった。そのため享保7年(1722)の参勤交代は、この屋敷から出発した。翌年には安養寺家への御褒美として、刀などが下賜された。しかし、享保12年(1727)の帳屋火事で屋敷を全焼したため、当主は別荘に居住し、明き屋敷になったという。ちなみに、享保5年(1720)の石黒火事以前は、屋敷の背後に御金蔵があったが、藩主の仮住居後に、安養寺へ与えられたという。

鳥取城下の大手通り。鳥取城下から智頭宿(現鳥取県智頭町)に向かう道であることから、智頭街道もしくは智頭往来と呼ばれた。なお智頭街道(海道)というときは、智頭口の惣門から今町までを指す場合もあった。また智頭を経て上方に向かう主要街道であるため、上方往来、上方道とも呼ばれた。鳥取藩の参勤交代では智頭街道を利用した。

鳥取城下から大名山崎氏の城下町があった若桜(鳥取県八頭郡若桜町)に向かう道であることから若桜街道、若桜往来と呼ばれた。若桜方面へは、若桜口の惣門を出て、袋川に架かる若桜橋を越えて東に曲がり、袋川にそって吉方村を進むのが本来の経路である。しかし、江戸時代中頃には、江崎下の惣門を出て、大榎町、御弓町の武家屋敷地を経て、一本橋から吉方村に至る経路が一般的となった。

諸郡の船や筏が集積した場所。とくに年貢納めの時期には、人や馬であふれかえった。土手の出口も、ほかの場所と比べて広く造られ、橋の左右に為登場があるはここだけであった。そのため、「為登」とは余り呼ばれず、丹後町の土手、あるいは「出合橋の土手」などといわれることが多かった。

禄高1万3000石(のち1万5000石)の筆頭家老荒尾但馬の屋敷。荒尾家荒尾但馬は通称米子荒尾、米子城を預けられた鳥取藩内随一の重臣。 荒尾氏は、元尾張国知多郡荒尾谷(現愛知県東海市)の土豪で、池田恒興に荒尾美作守善次の娘が嫁して輝政を生み、その後池田家に仕えた。池田忠継が岡山藩主となった時、善次の子成房・隆重の二人が家老として付けられた。この二人が、のちに米子と倉吉の両荒尾家の祖となった。 光仲幼少の頃は、成房の子成利(但馬)と、その実弟で隆重の養子となった嵩就(志摩)を中心に藩政が行われた。

罪人を収容した牢獄。建物は、塀覆のうえに忍返しを設けた構造で、奥と口の二棟があり、奥側の新牢は寛永年間(1624~45)に養庵というキリスト教の信仰者を、別の牢に拘留するため建築されたという(『鳥府志』)。拷問吟味による責屋を併設し、罪状によっては、この場所で斬首されることもあった。

二階町四丁目に続く両側町。元和5年(1619)の城下拡張にともなう町割で、下構二十町の一町としてつくられた。物資を積んで袋川を上がってきた高瀬舟(アサリ舟)の荷揚げ場として発達。仲買人など多くの商人たちで賑わった。町名の由来には諸説があり、安倍恭庵の『因幡志』は、池田光政の時代に茶屋与左衛門が7間半(13.5m)の茶店を構えていたという説。野間義学の『因州記』は、因幡地方には茶が少なく、他国より舟で運んだ茶を荷揚げし、売買した場所であったためという説。岡島正義の『鳥府志』は、智頭郡より馬や徒歩にて運んだ茶が集まる場所であったとする説をとっている。寛永11年(1634)の竈数26、安永7年(1788)の家数52。 鳥取県立公文書館『鳥府志図録』より転載 茶町火事寛政10年(1798)3月20日、茶町の北屋次郎七(角升屋)宅より出火し、武家屋敷・商家など約千軒が焼失した。 茶町火事の類焼範囲を描いた図 『因府歴年大雑集』鳥取県立博物館蔵 茶町の市街地図 「鳥取市街大切図」享保11年(1726)鳥取県立博物館蔵

依藤家は、伯耆米子城主中村一忠(1590~1609)の元家臣。中村氏の改易後、池田家に仕えた。孫兵衛は、池田忠雄、光仲の二代にわたり馬術の師範役を務めた。依藤家の屋敷地は万治3年(1660)に下厩となった。また建物は若桜城主山崎氏の厩を移築させたもので、見事なケヤキ材が用いられ、「御殿」と呼ばれたという(『鳥府志』)。 「下厩図」鳥取県立博物館蔵

鳥取城下に9か所あった惣門のひとつ。惣門より内側は「郭内」と呼ばれ、家老をはじめ重臣たちの屋敷が配された。この「郭内」が池田長吉期に城下町として整備された範囲と推定されるが、詳細は不明である。惣門を自由に通行することはできず、町人が通行する場合には、許可証である門札が必要であった。

城下町形成以前から存在した町場。町名の由来は、山側から突き出た山鼻の下に沢があり、この地形から江ヶ崎としたという。上町・丹後片原町とともに城下の三大町のひとつで、城下筆頭の町であった。武家屋敷に隣接した立地から、商業が栄えた。町の構成は上の町、下の町、竪町の3つからなり、下の町で売られていた串に刺した焼き餅が名物で、当町の幟となっていた。 江崎町の標幟 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

加賀家は、池田恒興の時代から池田家に仕え、1340石を給された重臣。岡山藩主池田光政や池田家一族の大名とも直接書状を交換するなど、藩内外で重きをなした。のちには「香河」と改姓し、居住地も若桜口惣門のある薬研堀沿い(現在の鳥取赤十字病院付近)に屋敷替えとなった。加賀信濃は加賀家の4代目にあたる。

郭内の9つある惣門のひとつ。名称は、大名亀井氏の城下町があった鹿野(現鳥取市鹿野)へ向かう道の起点であったことにちなむ。惣門を抜け、鍵形の道を折れてから外堀に架かる橋を越え鹿野町に入った。なお、鹿野は、「鹿奴」(しかぬ)とも表記された。 『因州記』鳥取県立博物館蔵

町人地。当町の堀端沿いにはかつて大きな裏通りがあったが、正徳2年(1712)の麩屋火事で焼亡し、街路が変更されたようである。町名は内丹後町と呼ばれることの方が多く、宮部継潤が治めた時代から続く古い町とされ、かつては内丹後口惣門の周辺にあったという。池田光政の時代に現在地へ移されたともされる。なお丹後の呼称は、人名に由来するものではないかとの推測もある。寛永11年(1634)の竈数25、安永7年(1788)の家数101 鳥取県立公文書館『鳥府志図録』より転載

鈴木兵右衛門は200石の藩士。野間宗蔵の著した『怪談記』には、兵右衛門の子佐治衛門が経験した怪談話が載っている。「鈴木佐治右衛門、怪異ニ逢事鈴木佐治右衛門 数奇者也、半右衛門父也 若カリシ時、犬ヲ連テ山エ入ントテ、御本陣ヨリ登テ正福寺ノ山上ヲ狩、暗夜ノ事ナルニ正福寺ノ山上ナリト思テツクへト側ヲ見レハ、宮内惣門外之侍町也、不思議ニ思テ其夜ハ帰宅ス、犬ヲ失イタリシニ、翌日犬ハ帰リタリ、然ニ犬ノ歯コトゴトク打カキテ有シト也」(野間宗蔵著『怪談記』鳥取県立博物館蔵)

藩の宝物蔵。池田輝政の夫人督姫(良正院)が持ち込んだという小田原北条氏伝来の源平盛衰記屏風などを保管していたが、享保5年(1720)の大火によって御宝蔵とともに数双が焼失したという。宝蔵は、菱櫓の一段下の曲輪に位置しており、太鼓御門の内に出入り口があった。

町人地。かつて町の北側に玄忠寺があったので、玄忠寺横町とも称した。なお、玄忠寺は、万治3年(1660)の火事で焼失し、新鋳物師町に移転した。また蛙町(下魚町)から入る町なので、蛙町横町とも呼ばれた。寛永11年(1634)の竈数13、安永7年(1788)の家数64 鳥取県立公文書館『鳥府志図録』より転載

町人地。町名の由来は、鹿野に続く道筋の起点にあたるためという。当初は武家屋敷地の下台町を含めて下片原町といった。のちに町人地のみを鹿野町と称するようになった。寛永11年(1634)の竈数14、安永7年(1788)の家数79 鳥取県立公文書館『鳥府志図録』より転載

寺島家は戦国末期から池田家に仕える700石の重臣。彦右衛門は普請奉行を勤め、因州東照宮の工事を担当した。寺嶋家は明暦3年(1657)に城外へ屋敷替えとなり、跡地は裏判役所や勘定所などの役所が設置された。

寛永11年(1634)に伊賀上野の鍵屋の辻で、義兄(姉婿)荒木又右衛門の助太刀を得て、弟源太夫の仇討ちを果たした渡辺数馬家の屋敷。八右衛門(350石)は数馬の養子となった人物で鉄砲奉行などを勤めた。なお、八右衛門の代に「渡辺」から「美田」と改姓しており、屋敷地も幕末期には栗谷に移っている。

町人地。江戸時代中期までは、小豆屋町とも呼ばれたが、その由来は、池田光政の時代に但馬国(現兵庫県北部)より小豆屋藤右衛門という商人が、当町に住居し、雑穀店を出したことによるという。寛永11年(1634)の竈数19、安永7年(1788)の家数68。 鳥取県立公文書館『鳥府志図録』より転載

寛永9年(1632)の国替えの頃、キリシタン医師の森元交という医師が住んでいたことにちなむ。元交の父は、南部越後といって、池田輝政の時代には、3000石を拝領していた。元交は岡山池田家の家老伊木氏、土倉氏などの要請で備前へ診療に赴くなど医師として活躍したが、島原の乱後に、幕府の拷問による取り調べを受け、のちに赦免され鳥取に戻ったという。屋敷跡には、元交の霊をまつる八幡の社や墓石替わりの榎があった。

馬淵家は、医術をもって池田家に仕え、浩運は知行高400石を給された。元禄8年(1695)、越前丸岡藩主本多飛騨守重益が御家騒動で改易された際、東館の池田仲澄が幕府の命令によって重益を預かることになった。重益は恩赦により罪を許されるまでの15年間を馬淵家の古屋敷で過ごした。そのため、この屋敷は「飛弾殿屋敷」とも呼ばれた。

真言宗の寺院。山号は薬王山。高野山多聞寺の末寺。寺伝によると、天正期(1573-93)に池田輝政の祈願所となり、池田家の転封に従って、姫路、岡山、鳥取と移転したという。宝永6年(1709)に最勝院と改号した。

臨済宗の寺院。山号は広徳山。鳥取藩池田家の菩提寺。創建は天正12年(1584)、小牧長久手の戦いで戦死した池田之助(池田輝政の兄)の乳母広徳院が、菩提を弔うため、岐阜城下に妙心寺派の龍峰山広徳寺を開山したことに始まる。のちに寺号を広徳山龍峰寺と改めた。池田家の転封に従って、三河吉田、姫路、岡山、鳥取と寺地を移転した。鳥取に移転した当初の伽藍は、池田光政が建立した国清寺の堂宇を用いた。寛文8年(1668)に堤宗和尚が、妙心寺派を離れ、黄檗宗に転じたが、離籍を認めない妙心寺との間に紛争が生じた。光仲の死後、龍峰寺の寺号を妙心寺へ返還することで解決し、宝永4年(1707)に栗谷の長寿院跡地に龍峰寺が再建された。境内には寛永11年(1634)に伊賀上野の鍵屋の辻で、義兄荒木又右衛門の助太刀で、弟の仇討ちを果たした渡辺数馬や、剣豪・臼井本覚の墓などがある。また北側の山裾には、池田光政の藩主時代に国清寺の庭園として作庭されたと推定される池泉鑑賞式の庭園(鳥取県指定名勝)がある。

町人地。元魚町二丁目と同様に、料理屋が軒を連ね、また竹輪などの製造が盛んで「因幡の食い倒れ」といわれた。寛永11年(1634)の竈数36、安永7年(1788)の家数85 鳥取県立公文書館『鳥府志図録』より転載

町人地。魚店が軒を連ね、両側から日筵が突き合うばかりに張り出していたという。当町と元魚町三丁目に肴問屋場が置かれ、1ヶ月交替でこれを勤めた。寛永11年(1634)の竈数30、安永7年(1788)の家数57